六章 【憑依】
信長所領の周辺諸国は、わりかし迅速に行動を起こしている。
甲斐の武田晴信(信玄)は上洛軍を結成して着々と準備を始め、六角義賢は長政と結託して長政が造反すると同時に南近江に戻ってくるという密約を取り交わしていた。
御教書を受け取った大名達の中にあって、唯一何の動きも示さなかったのは、朝倉義景のみである。
全てが秘密裏に行われた。相手はあの織田信長だ。見つかってしまえば一巻の終わり。おそらくは滅び去るまで攻め立てつづけるだろう。
だからこそ、全てを表に出す事なく表面上では緊張した平穏を保っていた筈なのである。
にも拘わらず、真っ先に目に見える形で行動を起こしたのは、信長だった。
御教書の受取人である長政達の行動は秘密裏に行われていたが、発行人である義昭の御教書乱発が信長の疑いを招いてしまったのだ。
信長が義昭をお飾り将軍に仕立上げてから二年後の元亀元年、遂に、この男はやってしまったのである。
【第一条 諸国へ御教書を出して何かを仰せになるときは、信長にその内容を話した上で、添え状を付けてもらう事】
【第二条 これまで将軍が仰せになった命は、全て無効とする】
【第三条 家臣に恩賞を出したくとも所領が足りない場合は、信長の所領から将軍の命を以って与えること】
【第四条 天下の事は全て信長に任せたのだから、誰に対しても信長は、将軍の意向に拘わらず自由に処罰することができる】
【第五条 天下の平和のため、将軍も朝廷に奉公しなければならない】
いわゆる、五ヶ条の条書。特に重要な項目は一と四であり、それ以外は申し訳程度の意味合いであろう。
一は将軍がこのところ方々に御教書を乱発していることが、信長に筒抜けであったことを示しているものだし、当然四の【誰】の中には、義昭も含まれているのである。
それより何より、この四によって義昭がお飾り将軍でしかないのだということを明文化しているのだ。
そして……、義昭はそれを承認してしまったのである。
五ヶ条の条書を義昭が承認したことによって、義昭からの命令が全て無効となった。その報を受けた長政は、例の御教書をどうするかの選択に迫られる事となる。
とはいえ、これは元々方針として決まっていたことであるため、浅井家に方向を転換するつもりはない。
「ええい、朝倉め何をもたもたしておるのだ……。あやつが攻め込むのが謀反の狼煙であろうがぁ……、……、……」
それが当初交わした密約による、朝倉義景の役目。
朝倉軍による美濃侵攻を契機に、浅井、六角連合軍が尾張を急襲。指令系統を壊滅させた後に天下最強の武田軍が徳川領と尾張、美濃以外の織田領を一気に踏み砕きながら上洛という作戦、つまり、信玄上洛作戦を、御教書を受け取った四家で立てていたのだ。
なのに、朝倉義景が動かず、しまいには信長が手を打ってしまったのである。信長の感の良さ、全く以って侮り難い。
「朝倉ぁ……。やはりあんな奴に任せるのは失策であったかぁぁぁぁ……」
朝倉の腰の重さは解っていた。これまで何度も被害に遭っている浅井家なのである。密約を交わす前からこうなるだろう事は予測していたのだ。予測していたにも拘わらず、この様である。
「どうしてくれる、魔王めが動いてしまうではないかぁ……」
長政は震えている。小谷城床の間にて、膝を抱えて小刻みに震えている。
涙を流し、垂涎しながら、力任せに枕を何度も殴り付けた。どうしても震えが止まらない。どんなに暴力的に、そして高圧的に振る舞っても、第六天魔王に対する恐怖の念が、長政の頭から離れて行かないのだ。
こうして乱世の魔王第六天魔王は、織田信長という媒介を経て浅井長政へと取り憑いてしまったのである。