伍章 【命令】
第十五代室町幕府将軍、足利義昭。彼は十三代将軍、義輝が襲撃を受けた時、奈良にいた。その時彼がいた奈良興福寺が、かなり強力な武装兵力を持っていたため、松長らが手を出せずにいたのだ。
実際に義輝暗殺後すぐに、出家していた三男は、京にいたため、殺されてしまっている。
一歩でもこの興福寺を出ようものなら、直ぐにでも追っ手により討ち果たされてしまう状況に陥ってしまっていたのである。
そんな状況で敢えて自らの命の危険を顧みず上京したのは、言うまでもなく三好三人衆らの専横を憂えてのことであり、それ以上に荒れ果てた国を自らの号令により立て直そうとしたからであろう。
信長の護衛のもと無事に上洛を果たした義昭は、直ぐさま将軍として戦の仲裁に乗り出している。
それからたったの二ヶ月だ。たったの二ヶ月で信長は義昭の将軍としての権限を、限定し始めてしまったのである。それもいきなり、
【奉行衆の決定に口を出すな】
【将軍への取り次ぎは何事も全て申次衆を通すこと】
等のかなり強烈な制限だ。さすがに始めは御父上と信長を慕っていた義昭だったが、これを機に仲が瞬く間に冷え切ってしまった事は言うまでもない。
信長への不信感と怨みが爆発寸前の長政の下へと将軍からのそれが届いたのは、何かの宿命なのだろうか。
将軍からの【御教書】。
御教書とは、将軍からの命令書。
そこにはこう書かれてあった。
【武田、朝倉、六角と手を結びて、天下の妨げ信長を討つべし】
小谷城本丸。ここにおいて、この御教書に対する評定が行われた。
現場に集まった家臣団を見ても、総大将である長政を見ても、もはや評定など行うまでもなく方針は決まっているぞという空気が満々に漂っている。
問題なのは、宿敵六角家や、手切れを申し渡したばかりの朝倉家が乗ってくるかどうかなのである。
「機会は今しかござらん。魔王めに気取られる事なく、秘密裏に包囲を完成させねばならぬ」
信長への怨みをありありと剥き出しにしたその顔は、まるで長政のほうが魔王なのでは無いかと思えてしまう程に狂おしい。
市は、奥の間にて小刻みに震えていた。義昭将軍から御教書が届いたとの報告は、彼女にも入っている。ここで問題となるのは、今後の身の振り方だ。
一旦浅井家側に回ることを心に決めた市ではあったが、あの言葉がどうしても頭から離れて行かないのである。
【魔王めに面差しが似過ぎておるのだ……】
あれから特に暴力などは無いものの、あの時の目つきが、顔つきが、醸し出す雰囲気が、自分がこの空間において、人としての尊厳を保っていられるのか甚だ疑問なものとしてしまっていた。
愛している。間違いなく、長政を愛しているのだ。その気持ちは今でも変わらない。出来れば信長との仲を修復したいのだが、おそらくは無理な相談だろう。市は、人知れず頭を抱え、激しく振り乱した。