四章 【不満】
信長の上洛は、義昭を匿ってから一年後、永禄十一年に行われる。市の立てた予想通り、徳川家康の援軍を含む四万人の大軍を以って東海道を直進。
浅井家の宿敵でもあった六角家を含む、街道沿いの勢力をいともたやすく蹴っ散らかしながら、たったの二十日で美濃、山城間を走破してしまった。
この上洛によって、京を追われた公方家嫡男義昭は無事に征夷大将軍となり、信長は予想した通りに後見人という立場に収まった。
勝ち戦の後に必ず行われるのが、論功行賞だ。言わば祝勝会のようなものであり、褒美の授与などがこの席にて行われる。
この時の信長の所領分配が頭から離れない。長政が長年欲してきた南近江を、そのまま六角家から降伏してきた者に投げてしまったのだ。
確かに、直接参戦したわけではない。直接参戦したわけではないが、間接的な貢献度はかなり高い筈である。にも拘わらず、浅井家ではなく、元六角家。
《どういうつもりじゃ、魔王め……》
今度は疑いではなく、怨念を持ってしまった。
「市ぃ……、あの魔王めは、一体何を企んでおるのだぁ……」
そう呟きながら迫ってくる長政の目は、もはや常人の目ではなかった。昔から領有を願って止まなかった南近江。自分の睨みによってその領主である六角義賢の北上を封じていたのだ。
だからこそ信長はあっさりと蹴散らす事が出来たのだし、義賢にとどめを刺し損ねたのはあくまでも上洛組の手抜かりであって、長政には何の責任も無いのである。
にも拘わらず、南近江は六角家からの降伏武将。長政が乱心気味になってしまうのも無理はない。
なまじその長政の無念さが理解できるだけに、市はここで覚悟を決めた。
「どうなさいます、お前様。わたしの首を信長に叩き返しますか?」
前に胸倉を掴み上げられたときは、一喝しただけで冷静さを取り戻してくれたが、おそらく今回はそうはいかない。最低でも、打たれる程度の覚悟が必要な気配だ。
「……、……、……」
「……、……、……」
非情な程に重い沈黙が、小谷城奥の間を押し包む。相変わらず狂った眼差しを向ける長政が、防御体勢を取るのも難しいほどの、非常に素早く、かつ、効率的な動作で市の左頬を張った。取って返す手の甲で、右頬をも張り飛ばしてしまう。
堪らず市は、畳へと張り倒されてしまった。顔をしかめて頭を振る市の額を目掛け、長政は更に右足を繰り出す。
この足が目標にきっちりと命中したのを確認した長政は、市に背を向け、奥の間を去って行った。
市には、去り際に長政が吐き捨てていった言葉を打ち消すことが出来なかった。
「あの魔王めに面差しが似過ぎておるのだ……」
という言葉が持つ意味、これから先に待つ己の悲運をどうしても打ち消すことが出来なかったのである。