壱章 【約定】
婚姻の儀をつつがなく終了し、晴れて織田の親族衆となった浅井賢政は、このめでたき日を境に浅井長政へと改名した。
この後に待つ仕事は、この日一番の大仕事、同盟調印だ。長政には、その約定の中にどうしても入れておきたい一文があった。
【越前に攻め込む際は、必ず報告すること】
これは勿論、祖父が世話になったからなどというおめでたい理由ではない。寧ろ祖父しか世話になっていないから、という理由なのである。
久政の代でも同盟は継続していたにも拘わらず、戦になっても後方支援にも回ってくれないし、窮地に立たされても援軍どころか、兵糧の一つも出してくれやしない。
一度や二度ならまだ許せるが、六角家と戦うこと五回、五回戦こそ長政の大活躍により、圧勝を収めることが出来たものの、他の四回は大なり小なり負けてしまっている。
その四回全てに、朝倉家は何もしてくれなかったのだ。明らかに職務怠慢だ。浅井家としては、それが非常に許し難い。
故にこの際、織田家と共同戦線を張って朝倉を叩き潰してやろうというのが、この約定の真の狙いなのである。
もはや朝倉家は浅井家にとっても、仇敵でしかなかったのだ。
「某、かようにやる気の無い守護家を存じ上げませぬ。紛う事無く天下の妨げ故、共に朝倉を討ち滅ぼしましょうぞ!」
甲斐の武田軍、三河の徳川軍に次、天下三であるといわれている浅井軍に、天下一富んでいる織田家からの経済援助が期待できるのならば、それはもはや、無敵の組み合わせである。
越前の京化に明け暮れ、自領に引きこもったまま周りの情勢に目も向けやしない朝倉義景など、一欠けらも残さずすり潰すことができるだろう。
ある意味、織田家に丸投げしても良いような気はするが、どうしても自分主体で奴らと決着を着けたいという頑なな気持ちが長政には有った。
幾ら相手が信長とはいえ、これだけは絶対に譲れない。
「どうしても某の手で、あの裏切り者を葬りたい所存!」
調印会場である清洲城の、織田家の裕福さを示しているかのような格調高い机を渾身の力で殴り付け、小刻みに震えながら朝倉家に対して溜まった鬱憤を力説する。
「落ち着け長政。そなたが我が城を破壊したとあらば、例え義弟といえど修繕費を全額請求するぞ?」
見るからに高そうな机である。いくらただの備品であるとはいえ、手痛い出費を被るのは間違い無いだろう。六角家からの再独立を果たしたばかりの長政にとっては、余計な出費に当てる金の余裕など全く無い。
「以降……、気を付けまする……」
生来生真面目な男なのか、長政は馬鹿丁寧に頭を下げた。
「ハハハハッ、誠にくそ真面目な男よのう。それがそなたの良き所でもあるが、一度恥も外聞もかなぐり捨てて傾いてみるが良かろう。さすれば目に見えぬ物が見えてくるようにもなろうぞ」
信長は、昔の己の如く傾奇者(悪戯者)となることを長政に推奨してきた。彼の事は、心から信頼している。だが、その生真面目さが故に、信長の考え方に全く理解を示さない可能性が有ったのだ。だからこそ、どうしても自分と同じ土俵に上がって来てもらいたかったのである。
そして、信長は続けた。
「これより結ぶのは攻守同盟にごさる。言われるまでも無く出陣の際は、必要とあらばそなたに作戦を申し付けるぞ。そなたも我が力が必要とあらば、遠慮無くわしに申し付けるが良い」
こうして、後々禍根を残すこととなる【越前に攻め込む際は必ず報告すること】という一文が、約定の中に加わることになったのだ。