拾章 【滅亡】
姉川で負けた後、長政は小谷城篭城を余儀なくされた。
篭城。それは、基本的に援軍を待つための戦法だ。天下で勝つための篭城が可能な者は、越後春日山城の上杉輝虎(謙信)か、相模小田原城の北條氏康ぐらいしか居ないだろう。
長政の小谷城もまた難攻不落であるとの評判を得ていたが、元々領地が狭く、生産力が低い浅井家は、結局篭城戦となると長くは持たないのである。
ここで、長政に致命的な一報。突撃隊長磯野員昌、寝返り。
《終わった……》
いよいよ魔界の軍勢による包囲が始まる。長政も必死に同盟国へと援軍を要請している。だが、それに答えてくれた者は、悲しいかな朝倉義景のみであった。
それだけに、武田晴信(信玄)病没は痛い。もし信玄上洛軍が健在であったなら……。
もはや頼みの綱は、朝倉義景のみである。
震えが止まらない。あの魔王が、日に日に迫ってくる。だが、長政自身は総大将として本丸に引き篭っているしかないのだ。
厠と居間をしきりに往復。姉川合戦より後、黄色い尿など出したためしがない。
朝倉の援軍は、得意の【雪が降っている】との理由により、全く出てくる気が無いらしい。四月末に信濃で凍死者が出て、六月始めに甲斐で降った雹が五日間溶けなかったという、異常気象の真っ只中である。雪で出撃できないというのも解らなくはないが、盟友が滅亡寸前である事を考えれば、余りに怠慢が過ぎる。
その間にも、長政のもとには、悪い知らせが次々と飛び込んできた。
勝ち目の全くない、滅亡するのを座して待つための篭城。ついに、一の廓陥落の報が入ってきてしまった。長政は、脇差しで畳を一突きにした後、たった一言
「左様か……」
と答えている。
涙が止まらない。何故こんな事になってしまったのだろう。
うまくいっていた筈の浅井、織田同盟。全ては市の言っていた通りであり、本来であれば、今現在でもこの同盟はうまく行っている筈なのである。
何度も何度も畳敷きの床を殴り付ける。今長政に残されているもの、織田との同盟が長政にもたらしたものはもう、信長に対する恐怖しかない。市には何度も暴力を振るってしまった。もう、とっくに心は離れているだろう。
ニの廓陥落の報。後はもう、この本丸だけ。この状況で【朝倉義景、二万人の援軍を率いて出撃】の報が入るが、そんなものは始めから当てにしていない。
案の定直ぐに【朝倉軍敗走】の報が入る。
《終わった……》
諦めの境地に達した長政は、自然と奥の間へ向かっていた。
「逃げろ、市。小谷はもう落ちる」
長政は市に逃げるよう勧める。奥の間にまできな臭い臭いが漂ってきた。織田軍が城に火を放ったらしい。今回は、奥の間に娘達も集まっている。
長政は、落涙しながら市を張り倒した。
「逃げろと申しておるのが解らぬか!」
喚きながら長政が倒れている市を何度も踏み付ける。
このままでは城が焼け落ちるのも時間の問題だ。その中にも、織田軍が発する鬨の声が響き渡る。もはや、一刻の猶予も無い。とにかく市の心を自分から離すために、浅井家の血筋を残すために、只ひたすらに、しかし、それなりに加減して市を蹴り続ける。ながらに、愛しているからこそ蹴り続ける。
「出て行け! 魔王めと生き写しな面など見たくもないのじゃ! 早々に出て行け! 某の前から消え失せい!」
心にも無い言葉を吐き付けながら、とにかく蹴りを入れる。
漸く市が立ち上がり、頭を深々と下げて呟くように別れを告げる。
「浅井の血、絶対に絶やしませぬ……」
頭を上げた市の目には、涙が溢れていた。
市が脱出したのを見届けた後、長政は一際穏やかな表情で座し、脇差しを抜く。
織田軍が奥の間に殺到した時、既に長政は腹を割って果てていた。それを発見した織田兵は首を苅って焼け落ちる寸前の小谷城を脱出、長政の首は、無事信長の下に届けらた。
こうして、小谷城共々浅井長政はこの世から消え、浅井家は滅亡してしまったのだ。