猛虎妻、オリガ
オリガは父親が持っていた地図を広げる。
「ここが、私達の村。全部で五つ、星を描くようにある」
「おお、すげえな」
指先で村の位置を指し、説明していく。
「ここの細長いのは、三日月湖。ここでは、アザラシ、ヴィーフホリなど、水生生物を狩る」
三日月湖はその名の通り、湖は細長く、欠けた月のような形をしていた。
「赤星の村の奴らは、この湖で漁をするんだな」
「ああ、そうだ」
三日月湖もまた、村での暮らしを支えている、なくてはならないもの。
それぞれの村の者は暗黙の規則を守り、自然の恵みを享受していると、オリガは語る。
「それから、都は――」
オリガの指先は、村から遥か遠い位置を差す。
ミハイルは目を伏せて「遠いな」と、ぼそりと呟いた。
「何時間、何十時間と、クソ寒い馬車に放り込まれて運ばれていたんだ。それくらい、離れていてもまったく不思議じゃねえ」
表情は一気に翳る。
都ではさまざまなことがあった。
辛いことも、楽しいことも、恐ろしいことも。
反乱軍が暗躍する都は、日々暴動が起こり、平和とはほど遠い場所になってしまった。
戻りたいかとオリガに訊かれたが、首を横に振る。
帰っても、何もない。財産も、家族も、職も、何もかもうしなってしまったのだ。
未練はない。
「昨日も言ったが、俺は追われている身だ。もしかしたら、追っ手がここまでやって来て、迷惑をかけるかもしれない。だから、大丈夫なのかと――」
ミハイルはちらりとオリガを見た。
すると、アイスブルーの目は温度を失って凍てつき、猛虎の如く荒ぶった目付きへと変わる。
ミハイルはぞわりと、肌が粟立つのがわかった。
今すぐ追い出されるかもしれないと思ったが、違った。オリガは、別の存在に憤っていたのだ。
「ここは私の領域だ。敵意をもって、我が家に入って来た者は、絶対に許さん。それは、クマも、トラも、オオカミも、追っ手も、すべて等しく変わらない。見つけ次第、ライフルで蜂の巣にしてやる」
猟銃は空気銃、散弾銃、ライフル銃の順に威力が大きい。
特に、ライフル銃は大型のヒグマを仕留める時に使う、強力な武器であった。
オリガの強い目が、ミハイルを捉える。
冷たい色なのに、熱い視線であった。
そして、すっかり及び腰となっている彼に、釘を刺すように言った。
「お前は私の男だ。覚えておけ。逃げられるとは思うな」
それは、絶対的な支配であった。
オリガはトラを森の主だと言っていた。
だが、彼女こそが、森の主――トラのようだとミハイルは思う。
しかも、普通のトラではない。
荒ぶる強かな、美しき猛虎だ。
森の主を前に、畏怖の念を覚える。
アイスブルーの目と視線が交わった瞬間から、征服されたとミハイルは思った。
もう逃げられない。そう思ったが、違う。そのつもりは、初めからなかった。
これは、屈服と同じ。
自由など何もない、絶対的な支配下の中に囚われたと気付くミハイルであった。
◇◇◇
夕食もミハイルが作る。
二種類の小麦粉を混ぜ、そこにぬるま湯と塩を入れて混ぜ、途中で油も入れた。
よく練り、生地が纏まってきたら、濡れ布巾をかけて暖かいペチカの上でしばし放置。
生地を寝かせている間に、中の具を作る。
シカの肉を挽肉状に切り刻み、タマネギやトマトの水煮、塩胡椒、香辛料と混ぜておく。
放置していた生地は再度練り直し、なめらかになったら、今度は常温の中で寝かせるのだ。
一時間後。
調理台に打ち粉をかけて、その上に生地を置き、棒状に伸ばしていく。
それを一口大に切っていき、丸めて平たくする。
「真ん中に具を入れて、四角く包み込め」
「わかった」
オリガと二人、黙々と生地に具を包み込む。
生地の量に対して具が多かったので、ぷっくりとした見た目となった。
鉄板に油を敷き、パンを並べていった。最後に、刷毛で表面に溶き卵を塗る。
熱したかまどで十分前後焼いたら完成だ。
「ミハイル、これは?」
「サムサっていう、異国の挽き肉パイ。その地方では軽食として食べられているらしい」
「なるほど」
この辺りには具を包んだパンなどなく、オリガは不思議そうな目を向けていた。
「チーズも面白いと思ったが、肉まで包むとは」
「この辺には、パンに何かを包む文化はねえのか?」
「ああ、言われてみたら、そうだな」
メインとなるのはどっしりしていて、酸味のある黒いパン。
寒い地域でも良く育つ、ライ麦から作られている。
バターや牛乳を使わない、中がふんわりとした食感の白パンも人気である。
「白星の村には、細長いパンや、丸いパン、お祝い用の模様の入った平たいパンもある」
「ふうん」
週に一度、籠いっぱいに入れて、白星の村の者が売りに来る。
だいたい、十種類くらいだと言っていた。
「都のパン屋はどれくらいの種類のパンを売っているのか?」
「う~ん、常時三十種類くらいじゃね。皇帝の生誕祭の時は、お祝いのパンとか記念のパンとかで、合わせて五十種類くらい焼いていたかも」
「それはすごい」
ちょうどパンが焼き上がったので、皿に積み上げる。
どっしり丸々とした、シカ挽き肉のパンが完成した。
夕食は甘い葡萄酒を温めて飲む。
「この酒は?」
「商人が売りに来る。リスの毛皮三枚とひと瓶を交換するのだ」
「ふうん。リスの肉は?」
「骨ごと擦り潰して、肉団子にする」
「げっ。リスも食うんだな」
「食べる。結構美味い。さすがに、キツネは食べないが」
なるべく、食べられる動物の毛皮を狙っているとオリガは語る。
「狩った獲物は、無駄にしたくはない」
食べられない獲物も皮を剥いで、クマ猟をするための餌などに使うこともある。
「クマも食うのか?」
「クマは美味い。今度、食べさせてやる」
「想像できねえ」
そう言いながら、ミハイルはサムサを頬張る。
表面の皮はパリパリで、噛んだ瞬間中から肉汁が溢れてきた。
口の中を火傷しそうになり、はふはふと舌の上で冷ましながら、噛んで呑み込んだ。
しっかりと熟成されたシカ肉は、旨味がぎゅっと濃縮されていてジューシー。
臭みはなく、ほのかに甘味がある上品な味わいだ。
「シカ肉なんて初めてだ」
「そうか。綺麗な雌のシカだった。お腹が真っ白で、毛並みも良く――」
「いや、肉の主の話はいい。可哀想になる」
ミハイルの言う可哀想が理解できず、オリガは首を傾げる。
都育ちと、森育ち。
その感覚は僅かにズレているのだ。
「可哀想、とは?」
「なんでもない」
「気になる」
「気にするな」
オリガはじっと、追及するように見る。
その目付きがトロンとしていたので、ミハイルは眉間に皺を寄せて、訝しげな視線を向けた。よくよく見たら、頬も僅かに紅く染まっている。
「あんた、酔っているのか?」
「ん?」
オリガはサムサを頬張り、目を細めて、美味しそうに食べる。
それから、葡萄酒を飲んで喉を潤すのだ。
熱した酒は酒精などほとんど飛んでいるので、ミハイルは不思議に思った。
オリガの陶器のカップは空になった。
酒を温めた細長い壺の中身も空。
「は!? いつの間に、全部飲んだんだ!?」
壺の中身は、葡萄酒一本すべて温めたものである。
ミハイルは一杯しか飲んでいない。
オリガは酒の入っていた壺を傾け、ぽたりと、一滴だけ落ちて来たのを見届けると、もう一本持って来ると言った。
立ち上がったのはいいものの、グラリと体が傾く。
「おい、危っ!」
ミハイルも立ち上がって、オリガの体を支えた。
「クソ、あんた、体でかいな!」
「クマの肉を、食べたらこうなる」
「んなわけあるか!」
オリガはミハイルよりも背が高かった。
なんとなく、悔しい思いをする。
しかし、まだ成長期である。いつか抜かしてやると、宣言した。
ふらふらなオリガに、ミハイルはもう寝ろと叫ぶ。
聞きわけの良い酔っ払いは、コクリと頷いて、二階まで上がって行く。
途中で倒れたら困るので、寝室まで体を支えた。
寝台に転がし暖炉に火を入れて、瞼を閉じたのを確認すると、一階まで下りて行った。
再度、ペチカのある台所兼食堂まで戻る。
ミハイルは、ふるふると震えている。
恐れからではない。彼は――喜んでいた。
「な、なんだよ、あいつ、酒が弱いなんて!」
結婚生活初日から、オリガの弱点を掴んだのだ。
くつくつと肩を震わせながら一人ほくそ笑む。
「猛虎は、酒に弱い!」
ミハイルは勝利に酔いしれていた。
◇◇◇
夜、就寝しようと布団に潜り込む。
オリガの父親が使っていた部屋には、煙突は通っていない。つまり、暖炉がないということになる。
ペチカの輻射熱で室内はそこそこ暖かいが、窓から隙間風が吹き込んでどうにも気になっていた。
ヒュウヒュウ、ガタガタ。
風が窓を揺らす音と隙間風が、睡眠を妨害する。
「――クソッ、眠れねえ!!」
ミハイルは叫ぶ。
夜の間だけ蜜蝋で隙間を埋めたら、ちょっとはマシになるかもしれない。
オリガに、蜜蝋があるか聞かなければ。
そう思って起き上がると、隣の部屋に向かった。
一応、扉を叩いて外から声をかける。
反応はない。
仕方がないので、無断で入った。
布団を覗き込むとオリガは両手を重ねて枕にするという、幼い少女のような姿勢で眠っていた。
「な、なんだよ、ガキかよ……」
ぶっきらぼうにそう言ったものの、暖炉の炎に照らされた寝顔は美しい。
しばらく見入っていたが、ハッと我に返る。
相手は猛虎――手を出したら、噛み付かれてしまう。
ぶんぶんと、首を横に振った。
気分を入れ替えて、再度声をかける。
「おい」
「ん?」
ようやく、オリガは覚醒する。
瞼をうっすら開けて、どうしたのかと聞いてきた。
「いや、部屋の隙間風が酷くて、眠れないんだよ! 蜜蝋か何か――」
「そうか、わかった」
「!?」
オリガはゆっくりと起き上がり、ミハイルの腕を引いた。
寝台に引き入れ、体を押し倒す。
「……こうすれば、温かい」
「はあ!?」
隣に横たわったオリガは、ぎゅっとミハイルの体を抱きしめた。
一方で、やわらかい胸の中に抱かれたミハイルは硬直する。
「いや、違っ……」
「早く寝ろ」
「だから、そうじゃなくて……」
「いいから寝ろ、ミーシャ」
「なっ!?」
ミーシャと呼ばれ、ミハイルは顔を真っ赤にする。
母親とパン屋の奥方以外の女性にミーシャと呼ばれたのは、初めてだった。
「ゆっくりと眠れ。ここには、お前を害する存在など、いない」
「……」
その言葉は、どうしてかミハイルの胸を温かくする。
こんな風に、誰かと一緒に眠った記憶などなかった。
夜、母親はいつもおらず、一人だったのだ。
肩から腕にかけて、優しく撫でられているうちに、だんだんと微睡んでいく。
ミハイルがぐっすりと眠った時、オリガもまた、熟睡していた。
こうして、ただ眠るというだけの夫婦の初夜は、静かに過ぎていった。