都にて その二
ミハイルはおかみから引きずられるように、パン屋の中へと連れて行かれた。中から、オリガも入って来るように言っている。
居間に通され長椅子に座るように言われたミハイルとオリガは、苦笑しつつ礼を言った。
十分後、山盛りのパンと紅茶が運ばれてくる。
続いて、おかみに背中を押されて、パン屋の主人もやって来た。
いまだ、険しい表情は崩れていない。不承不承といった感じで、腰かける。
部屋の雰囲気が一気にピリピリとしたものになった。
おかみがスープの入った鍋も持って来た。中身はミハイルの好物のボルシチである。
「ミーシャはこれが好きだったろう?」
「え? う、うん」
気まずい沈黙の中で、ボルシチが深皿に装われる。ドンと、スメタナの入った壺が置かれた。
「さあさ、お腹いっぱいお食べ! と、その前に、そちらの綺麗な女性を紹介していただこうか」
おかみに指摘され、ミハイルはハッと我に返る。緊張のあまり、オリガの紹介を失念していたのだ。
「えっと、彼女は俺の奥さんで、オリガって名前で……」
「嫁だと!?」
おかみさんの「おやおや!」という喜びの声をかき消すほど大きな声で、パン屋の主人が反応を示す。
「ミハイル、お前は今、どこに住んでいる? 奥方の家に転がり込んで、甘えているのではないな!?」
「え、いや、それは……」
しどろもどろになっていたら、おかみが主人の背中をバンと叩く。力が強かったのか、目を見開いたあと涙目になっていた。
「あんた、何言ってんだい。馬鹿だねえ。ミーシャが働き者だって、知っているだろう」
「そうだが……」
今日のミハイルは貴族が着ているような仕立ての良い服を着ている。その上、隣に座るオリガは大貴族の娘のような風貌をしているので、勘違いをされてしまったのだろう。
「せっかくのスープが冷めてしまう。食べながら、二人のなれそめを聞こうじゃないか」
「まあ……そうだな」
気まずい食事会の始まりである。
まず、食前の祈りを捧げた。それから、食事にありつく。
「オリガさんも、遠慮するんじゃないよ」
「はい、ありがとうございます」
ミハイルはまず、スープを飲む。大好物のボルシチは、懐かしい味がした。
喉を通ったあと、心が、全身がじんわりと温かくなる。それは、スープの温かさだけではないだろう。
気持ちが高ぶって、途中からポタポタと涙が溢れて滴ってくる。
「おやまあ、ミーシャ、どうしたんだい!?」
「いや、だって、これ、すごく好きで……二度と、食べられないかと、思ったから」
その瞬間、パン屋のおかみも感極まったのか、ウルウルと目を潤ませる。
「おかみさん……すごく、おいしい。ありがとう」
辛い子ども時代だった。けれど、ミハイルはパン屋の主人とおかみが温かく見守ってくれた。おかげで、人に感謝する気持ちを学び、曲がらずに育った。
パンも久々に食べる。小麦の味が活かされていて、どれも美味しかった。
ミハイルは一つ一つ、噛みしめながら食べる。
食事が終わったあと、本題へと移った。
「オリガ……妻は、針葉樹林の中にある小さな村に住む狩人で――」
「ええ!?」
「な、なんだと!?」
女王然とした雰囲気のオリガは、実は凄腕の猟師である。ミハイルの言葉に、パン屋の夫婦は驚いていた。
出会う前までの経緯を話す。広場でパンを売っていたが、母親の伯父に見つかって強制的に連れ去られてしまったこと。半年ほど軟禁されたが、贅沢な暮らしに飽き飽きして逃げ出したこと。逃亡中に運悪く、敵であるウヴァーロフ家に捕まり、拉致されてしまったこと。
壮絶な出来事の数々に、パン屋の夫婦は言葉を失っている。
「命の危険を感じて、ウヴァーロフ家の馬車から逃げ出したのはよかったんだけど、そこは雪深い針葉樹林の森で――」
雪山で埋まっているところを、オリガが助けてくれた。奇跡のような話である。
「辿り着いたのは狩猟をして、毛皮で生計を立てる村で、物々交換で生活が成り立っているんだ」
最初こそ戸惑ったが、針葉樹林の森の恵みを享受しながら暮らす姿勢は、とても素晴らしいものだと思うようになった。
都会にはないものが、針葉樹林の森にはある。今ではすっかり、ミハイルも狩人の一人となっていた。
「それで、これ、母が……借りたお金……。俺が稼いだもので」
金貨の入った袋を取り出した瞬間、パン屋の主人の顔が険しくなる。
やはり、受け取ってもらえないのか。顔を伏せ、肩を落とす。オリガがそっと、背を撫でてくれた。
「あんた、これは、ミーシャの誠意だよ。一生懸命、働いて得たものだ」
「だが、腑に落ちん」
「気持ちはわかるけれど」
我慢できなくなったのかパン屋の主人はドンと、拳で机を叩いた。そして、叫ぶ。
「どうして、親の罪を子が償わなければならない!? ミハイルは悪くないのに!! なぜ、母親は子を愛さなかったのか。俺には……」
振り絞るような声で、「わからない」と言った。
パン屋の主人はミハイルに怒っているわけではなかった。母親に対して、憤りを感じていたのだ。
「あの日、ミハイルが悪くないというのはわかっていたし、許すことは簡単なことだった」
しかし、パン屋の主人はそれをしなかった。
「もしも、ミハイルが困った時に、母親と同じ罪を犯してしまうかもしれない。だから、敢えて突き放した。それが、正解だったか、どうだったかは、今でもわからない」
ミハイルはパン屋夫婦の息子ではない。他人である立場で、できることは限られていたのだ。
パン屋の主人も怒りをぶつける場がなくて、長い間苦しんでいたようだ。
「おやっさん、ありがとう。あの時、甘やかされなかったおかげで、俺、結果的には自分の居場所を見つけることができた」
そんなミハイルの言葉を聞いたパン屋の主人は、ぬっと手を差し出す。
大きな手に、ミハイルは汗水たらして働き、稼いだ金を置いた。
その瞬間、心の中のモヤモヤは一掃される。それは、パン屋の主人も同じように見えた。
こうして、断たれた縁は元通りになる。
「ここは、お前の実家だ。いつでも、帰ってこい」
パン屋の主人の言葉に、ミハイルは笑顔を返した。




