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ささやかであり、贅沢な昼食

「酵母の件は、すまなかった」

「ま、知らなかったのならば、仕方ねえ。それに、酵母がなくても、パンは焼ける」

「そうなのか?」

「材料次第だけど」


 ここで、地下の食品貯蔵庫を見せてもらう。

 室内が暖かいので、食材のほとんどは地下に保管してあるのだ。

 二階へ上がる階段の下に入り口があり、角灯を手に階段を下りる。

 前を歩くオリガより、注意があった。


「足元に気を付けながら歩け」

「それよりも、寒っ!」


 地下は薄暗く、凍えるような寒さだった。

 部屋は四つあり、保存食、乾物、肉、生物とわかれている。

 手元の灯りだけでは、何がどこにあるか把握するのは困難であった。


「ミハイル・イヴァーノヴィチ、必要な物を言ってくれ」

「えーと、じゃ、発酵乳と、小麦粉と……」


 発酵乳――ヨーグルトは栄養価が高く、針葉樹林タイガの森に住む者達にはなくてはならない食品である。


 オリガは大瓶に入った発酵乳を差し出した。


「これは、黒星の村の発酵乳?」

「いや、これは家で飼っている牛乳で作った物だ」


 作り方は簡単。

 鍋で牛乳を温め、手で触れられる程度になるまで冷やす。

 次に、煮沸消毒した瓶に発酵乳を大匙三杯ほど入れて、温めた牛乳を入れて混ぜていく。

 瓶を布で包み、暖かい部屋で半日ほど置いて発酵させてから、地下で冷やす。


「仕上がった発酵乳を新たな種にして、どんどん増やしていくのだが……」


 これも、都に住んでいたオリガの父親が知っていたことで、他の村人には内緒にしていてほしいと言われる。


「な~んか、いろいろ大変なんだな」

「この地に住むからには、仕方がないことだ。いかに、無駄なく暮らすかというのは、永遠の課題なのかもしれない」


 他に、チーズやふくらし粉などを受け取る。


「スープは、ボルシチが食いたい」

「ビーツはたくさんある。が、あまり上手く作れたことはない」

「じゃ、そっちも俺が作る。あんたは野菜の皮を剥け」


 ふとミハイルは、オリガが朝のスープの蕪の皮が剥いていなかったことを思い出す。


「なあ、皮の剥き方、知っているよな?」

「知っているが?」

「だったら、なんで朝のスープは皮を剥いていなかったんだ?」

「野菜の皮に栄養があると、父が言っていたから」

「物にもよるだろう。中には朝の蕪みたいに、えぐみが強い野菜もある。親父は半端な知識を持っていたんだな」

「そうみたいだ」


 寒いので、お喋りはこれくらいにして、材料を集めていく。

 籠の中にビーツ、ニンジン、キャベツ、ジャガイモと、野菜を入れていった。

 トマトは保存食として作っていた、瓶入りの水煮を使う。


「肉は何かあるか?」

「イノシシ、ウサギ、シカ」

「イノシシがいいな」


 材料を集め、台所に戻る。

 まず、パン作りから。

 ミハイルはオリガから借りたエプロンをかけ、腕まくりをする。

 まず、分量を量ろうとしたが――。


「おい、秤は?」

「ない。いつも目分量だ」

「……」


 都のように、製パン道具はほぼないに等しい。

 ミハイルは勘で小麦粉の量を量る。

 ボウルに小麦粉、ふくらし粉、発酵乳を入れて、ダマがなくなるまで練った。

 仕上がった生地を丸め、布に包んで発酵させる。


「なるほど。発酵乳が酵母の代わりになると」

「ま、完全な発酵パンじゃないがな。微発酵くらい」


 パンの発酵を待つ間、ボルシチを作る。

 ボルシチは各家庭の味があると言われているが、ミハイルが作るのはパン屋の奥方に教えてもらった作り方であった。


「俺んち、母親が元お嬢様で、家事なんかぜんぜんできなくて。料理は勤め先のパン屋のおばさんに教えてもらったんだ」

「そうだったのか」

「母親との不幸な二人暮らし。大変だろう?」


 オリガは切ない表情を浮かべている。

 ミハイルがどうかしたのかと聞いたら、父親より「母親がいたら、世界一幸せになっていたのに」と言われたことを思い出したのだと語る。


「母親がいたって、碌なことはなかったよ」


 ミハイルが働き者の手をしている理由は、なんとも悲しいことだった。

 オリガは「なんといっていいのか」と呟く。


「別に、不幸だったんだなって、笑えばいいんだよ」


 ミハイルは自らの人生を、そんな軽いひと言で片付けた。

 オリガは切なげな視線を向けていたが、ミハイルは気付くことなく、調理を再開させていた。


 それから、二人で黙々と野菜の皮を剥いていく。

 オリガがナイフとビーツを掴んだので、ミハイルは注意する。


「あ、ビーツは皮のまま、いったん煮るんだ」


 ボルシチに欠かせないビーツは、皮を剥いて下茹ですると、色が抜けて白くなってしまう。

 調理用の壺に水、塩、酢、ビーツを入れて、十分前後茹でる。

 茹で上がったビーツは皮を剥いて、食べやすい大きさに切りわけた。

 続いて、肉に香草を揉み込んで下味を付けて、浅い鍋でざっと焼く。

 焼いた肉、野菜を壺に入れ、水を入れて煮込む。


「ここで、香草、塩胡椒で味を調えて、最後にビーツを入れてしばらく煮込む、と」


 ぐつぐつ煮ていくうちに、スープの色はビーツの鮮やかな赤に染まっていく。食欲をそそる匂いも漂ってきた。


「あとは放っておいても完成」


 そろそろパンの生地が発酵したころだ。

 布から生地を取り出し麺棒で伸ばして、広げていく。

 中身はチーズ。二種類の物を練って、生地に包み込むのだ。


「あとは、鍋で焼くだけ」

「かまどじゃないんだな」

「ああ、すぐに焼けるから、浅い鍋で十分だ」


 油は多めに敷き、カリッと香ばしく焼くのだ。


「これは、なんというパンなんだ?」

「ハチャプリ。地方の言葉で、ハチャがチーズ、プリがパンって意味らしい。店では、田舎パンって呼んでた。なかなか人気だったよ」

「ほう」


 薄皮のチーズパンは、すぐに焼き上がった。

 オリガにとっては初めてのパンだったようで、興味津々とばかりに見つめている。

 ボルシチも完成したので、昼食の時間とする。

 飲み物は紅茶を淹れた。森の草花を使って作った薬草茶ともいえる。

 酢漬けのキノコにキャベツ、魚の卵の塩漬けなど。


「なんだこりゃ?」


 ミハイルが気になったのは、黒と赤の鮮やかな二本の瓶の中身。


「イクラ――魚の卵を塩漬けしたものだ」

「……」

「見た目はアレだが、美味い」


 三日月湖で獲れる魚の卵を、塩漬けにしたものだ。


 ミハイルは「今日の料理には合わないから」と、テーブルの端にイクラを避けた。

 まずは森の精霊に祈りを捧げ、食事にありつく。


 ミハイルはオリガより大振りのナイフを借りて、ハチャプリを切りわける。

 皿から皿へと移す時、チーズがとろ~りと伸びた。

 オリガはボルシチを深皿へ装う。


「ミハイル・イヴァーノヴィチ、スメタナは?」

「いる!」


 元気の良い大きな返事に、オリガは驚いて目を丸くしたが、すぐに頬を緩め、スメタナを二杯、皿に入れた。

 スメタナ――サワークリームとも呼ばれる物で、乳脂肪に乳酸菌を混ぜて作る脂肪分と栄養たっぷりの乳製品である。

 これをスープに入れると、酸味とコクが加わっていっそう美味しくなるのだ。

 スメタナ入りのボルシチは、ミハイルの大好物でもある。


「よし、食べよう」

「ああ!」


 ハチャプリとボルシチを、さっそくいただくことにする。


 まずはハチャプリから。

 オリガは腰から小さなナイフを抜き取り、生地に刃を入れた。

 チーズが糸を引くように伸びたので、ナイフで切って口にする。

 表面の生地はカリカリ、中はもっちり。チーズは濃厚かつ塩気の強い味わい。今まで食べたことのないパンを、オリガは絶賛する。


「美味いな。酒に合いそうな味だ」

「だろう?」


 蜂蜜を垂らして食べても美味しい。

 その話を聞いてさっそく試したオリガの目は、キラリと輝いた。


「こんな美味しいパンがあったとは」

「大袈裟だなあ」

「そんなことはない」


 白星の村にも、このようなパンは売っていないと言う。


「都会の味だ」

「いや、田舎のパンなんだって」


 そんな話をしながら、次にボルシチを味わう。

 ビーツ入りの真っ赤に染まったスープは、スメタナを溶かしながら楽しむ。

 野菜たっぷりのスープは、旨味がぎゅっと濃縮されていて、ビーツは口の中でホロリと解れる。味わいはほどよい酸味と、深いコクがある。シシ肉からも、甘い出汁が滲み出ていた。

 一度肉を焼いてから煮込んだので、朝のスープのような臭みはまったくなかった。


「これもかなり美味い。肉も臭みがなくて、驚いた」

「パン屋のおばさんのボルシチは世界一だからな」


 人様の家のボルシチの味を、ミハイルは完全に再現していたのだ。


 食後はジャムを舐めつつ、紅茶を飲む。

 とても美味しく、贅沢な食事だったと言うオリガに、ミハイルは誰かと食事をすることも悪くないと思ったのだった。

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