タイガの森の掟
ミハエルの体を採寸して、トラとミンクの毛皮を預けて外套制作を依頼する。
トラの毛皮を見たロジオンは、震える声で言った。
「うわ、これ、伝説の……」
「とうとう、使う時がきたのだ」
「そっか~」
白いトラの毛皮はオリガの嫁入り道具である。
それは、たった一人の夫たる男の外套を作るために使われるのだ。
他にも、ミハイルの服を選ぶ。
男性は詰襟で膝丈の衣服にズボンを穿いて、腰でベルトで締める。
生地は羊の毛で作られたフェルト製で、一枚だけでもなかなか温かい。
寒い時は毛皮のローブを纏う。
袖や裾、襟、胸辺りには、村の色である青と白のテープで縁取られていて、なかなかオシャレな一着であった。それを数着、購入する。
他に、下着や帽子、手袋、靴など、必要最低限の服を一気に揃えた。
どれも、村の者だとわかるような、青と白を取り入れた民族衣装である。
最後に、食事や作業に使うナイフを選んだ。
「手に馴染む物を選べ」
棚に並べられているのは、白い鞘に呪文のような文字が刻まれたナイフの数々。
ミハイルは指さし、質問した。
「これは?」
「トナカイの角で作られたナイフだ。鞘に刻まれているのは魔除けの呪文で」
「へえ」
森の主であるトラを表す象形文字に、針葉樹林の神なる存在から賜った言葉が刻まれているのだ。
「――『優れし意志と分別を』、と古い言葉で書いてある」
「なるほどな~」
五本あったうち、手の中に一番馴染む物に決めた。
「あ、オリガ、そうそう。これ、昨日物々交換で手に入れた物なんだけど」
ロジオンが店の奥から持って来たのは、黒トナカイの角で作られたナイフである。
黒トナカイは大変希少で、滅多に手に入らないのだ。
当然、オリガは食いつく。
「いくらだ?」
「黒トナカイのナイフは珍しいから、赤キツネの毛皮一枚くらい?」
「……」
キツネの毛皮にも、価値の違いがある。
一番高価なのは、銀キツネ。二番目は赤キツネ。三番目が黒キツネ、四番目が黄色い毛並みの物となる。
黒トナカイのナイフは赤キツネの毛皮一枚と交換。
それを聞いたオリガは、首を横に振った。
使えるナイフはあるし、贅沢品だと言って必要ないと言う。
「でも、今年は大猟だったって言ってたじゃん」
「来年もそうだとは限らない」
「そうだったね」
黒トナカイのナイフを見た瞬間、オリガの瞳は輝いた。
ひと目で気に入ったように見えたのに、森の恵みには限りがあるからと言って、買わなかった。
ミハイルは驚く。
彼の母親は欲しい物は借金をしてでも手に入れて、生活のことなど考えていなかった。
他の貴族の女達も同様である。
ユスーポヴァ公爵邸で暮らしていた中で、甥であるミハイルに、宝石や鞄をねだる女は絶えなかった。もちろん、自由な金などなかったので、冷ややかな視線を向けるだけであったが。美貌を武器に生きる女達は、ミハイルの母親となんら変わらない。自分勝手で、自堕落な生活をしていたのだ。
しかし、オリガは違った。禁欲的で、厳格、堅実であった。
生活の金は自分で稼ぎ、必要である物とそうでない物をすぐさま決める判断力がある。
こんな女性など今まで出会ったことがないと、ついまじまじと眺めてしまった。
視線を黒トナカイのナイフに移す。
赤キツネの毛皮一枚というのがどれだけの価値であるか、ミハイルにはわからなかった。
「どうした?」
「いや、なんでもない」
オリガの問いかけに、首を横に振る。
二人は必要最低限の品物を買い、家路に就いた。
◇◇◇
この辺りでは、昼食が正餐となる。
朝と夜は簡単なもので、スープすら出ない日もある。
基本的に、忙しい狩猟民族の朝と夜は、簡単に済ませることが多い。
オリガは食生活について説明する。
「朝のスープは、お前に力を付けてもらおうと思って作った。いつもは蕎麦粥などで済ます場合が多い」
カーシャは蕎麦の実を煮込んだ料理。牛乳と一緒に煮込んだり、野菜と挽き肉と混ぜて煮込んだりと、味付けはさまざま。
「パンとジャムだけの日もあるが……」
「ふうん」
台所は綺麗に整理整頓されているのは好ましい。流し台に汚れた食器も溜まっていない。
しかし、料理の味は褒められたものでなく、本人にもその自覚があるので、昼食作りは監視させてもらうことにした。
まず、一番気になっていたことから聞いてみる。
「あ、そうだ。今日のパンに使った酵母を見せてくれ」
「これだが?」
ペチカの上にあった、瓶入りの酵母。
ミハイルはぎょっとした。
「おいおいおいおい!!」
酵母が想定外の場所から出て来たので、ミハイルは全力で突っ込んだ。
「これ、発酵中じゃねえよな?」
「いや、違うが」
「酵母の保管場所は、冷暗所が基本だろうが!」
「そう、だったのか?」
寒い地方ではあるものの、室内はペチカのおかげで暖かい。台所はその中心たる場所なので、酵母は温められて、ダメになってしまうのだ。
オリガは酵母の保管方法を知らなかった。なので、朝に食べた兵器のようなパンが仕上がったのだと気付く。
ミハイルは瓶の中の酵母を見る。すぐさま、溜息が出た。
「やっぱり酵母、死んでるじゃねえか」
「それは、すまなかった」
やはり、保存状態が悪かったので、酵母は使い物にならない。
小麦粉から作る酵母は、十日ほど発酵に時間がかかるのだ。
他に酵母はないというので、今日、新しく作り直さなければならなかった。
「すまない。この村には、パンの作り方が伝わっておらず、皆、探り探りで作っているのだ」
「……どういうことなんだ?」
パンの作り方が伝わっていないとは。不思議なことを言う。
ミハイルは訝しげな視線を向けた。
「基本的に、パンは白星の村でしか買えない」
「は? なんで?」
「私達は、昔からそうやって暮らしてきた」
青星の村の住人は毛皮を。
白星の村の住人はパンとお菓子を。
赤星の村の住人は魚を。
緑星の村は農作物を。
黒星の村の住人は乳製品と畜産物を。
「五つの村、それぞれに特産物があって、その技術は外に漏れないよう、守られている」
なので、美味しいパンは焼けないし、魚の獲り方だって知らない。大規模な農業の方法などわからないし、家畜の群れの効率的な世話だってできない。
「皆が皆、自由に商いをしたら、針葉樹林の恵みはあっという間に尽きてしまう。だから、このようにして、暮らしてきたんだ」
「なるほど……」
そういう事情があるので、今朝のようなパンが出てくるのは仕方がない話だったのだ。
ミハイルはここで、オリガに言っておく。
「俺、パン屋だったんだ」
「!」
アイスブルーの目が見開かれる。
すぐに、それは他の人に言わないほうがいいと言われた。
「申し訳ないが、パンは商売にできない」
「わかっているよ」
パン屋になるのは夢だったが、別にパンを焼くのが好きだったわけではない。
生活をするために、焼いていたのだ。
その技術でこの先も商売できたらいいなとは考えていたが、それが村を挟んでの諍いごとになると聞いたら、話は別である。
「でも、家で焼くくらいなら問題ないだろ」
「それは――問題ないが、いいのか?」
「いいも何も、お前のパンは食い物じゃねえ」
言ってからミハイルはハッとなる。
失礼なことを口にしてしまった。
ムッとするかと思いきや――オリガは笑い出したのだ。
「そうなんだ。私も、自分で作ったパンは、我慢して、食べていて……」
押し殺すようにして肩を揺らしているだけだったが、ついには腹を抱えて笑い始める。
「なんで、白星の村のパンを買わねえんだよ」
「冬は、輸送費とか、材料費とかが上がって、高騰するんだ。だから、秋に買った小麦で、パンを作るんだが……」
王都で暮らしていたことのある父親は、小麦で酵母を作ってパンを焼くという知識を有していたのだ。しかし、レシピや工程は完璧ではなかった。
「なぜ、私達は、ずっと、あのパンを……」
父親と二人、今まで互いに指摘もせずに、我慢して食べていたことが、おかしくなったらしい。
「こんなに笑ったの、久々だ」
「俺はびっくりしたよ、いろんな意味で」
硬いだけではなく、限度を超えている酸っぱいパンを、オリガは平然と食べていたのだ。それが普通かと思っていたが、そうではなかったのだ。
しかも、オリガ自身についても、意外だった。
普段無表情で、クールな性格かと思いきや、よく笑う。
「変な奴」
ミハイルの言葉に、オリガは目を細めるばかりであった。