もしもの時のために
オリガと二人、居間でのんびりと過ごす。
何をするわけでもなく、ただただ寄り添って長椅子に座り、幸せな気分に浸っていた。
ついに、本当の夫婦になった。
利害の一致から生まれた、かりそめの関係ではない。そのことが、ミハイルには何よりも嬉しかった。
オリガの手を握り、顔を覗き込むとふわりと可憐に微笑んでくれる。
世界一可愛い奥さんだと思った。下町育ちで、パンを焼くことしかできなかったミハイルが、こんなにも真面目で、純粋で思慮深い女性と結婚できるなんて夢のようだとも。
しかし、舞い上がっている場合でもなかった。
追っ手はすぐそこまで迫っている。
商人の組織網の中で、ミハイルについての情報はすでに出回っている可能性もあった。
「オーリ、絶対に、俺はこの手を離さないから」
「ミーシャ」
幸せの中に身を任せ、のんびりと過ごしている場合ではなかった。
オリガの手を、ぎゅっと握りしめる。
「離してたまるものか……」
ミハイルの目に、強い意志のこもった光が宿る。
これから幸せに暮らしていくためには、どうすればいいのか。夫婦は陽が暮れるまで話し合いをした。
◇◇◇
太陽は沈み、暗闇が空を支配する。
夜も深まっていた。
婚儀を終え真なる夫婦となった二人が迎える晩を――初夜と呼ぶ。
ミハイルとオリガは寝台の上に座り、真剣な面持ちで見つめ合っていた。
もう、仮の夫婦ではない。我慢も遠慮もする必要などなかった。
だが――。
「もしも、オーリが妊娠したとして、馬に乗れるだろうか?」
「子どもがお腹にいたら、無理だろうな」
せっかく本当の夫婦になれたのに、問題があった。
追っ手が来た時、馬に乗って逃走しなければならない。
もしも、オリガがお腹に子を宿したら、大変な事態となる。仮に、落馬なんかしてしまったら、流産の可能性もあった。
と、いうわけなので、問題が解決するまで子作りはお預けとなった。
ミハイルは無表情で、バタリと寝台に倒れる。
緑色の目は、涙で潤んでいた。
「ミーシャ、どうかしたのか?」
「なんでもない。早く、寝よう」
今宵も、ミハイルは我慢する夜を過ごすことになった。
◇◇◇
現在、羊が二頭に、馬が二頭。牛が一頭、鶏が二十羽いる。以前、ラゥ・ハオが結婚祝いと称して連れて来たので、どっと増えていた。
鶏が産んだ卵のほとんどは『仕立屋 愛しきヴェローニカ』に売っている。しかし、世話が大変だった。
ミハイルはオリガと話し合い、家畜の数を減らすことに決める。
二頭の羊は、チーズを売りに来た黒星の村の酪農家に驢馬と交換した。牛は商人と取引を行い、銃や銃弾、ナイフなどの武器に変える。鶏は二羽残して、十八羽を村長マカールの家に結婚祝いと称して持って行く。卵は一日二個あったら十分だった。
ここで、マカールの奥方と初めて会う。美人であるが、気が強そうだった。これでは悪さもできないなと、ミハイルは内心ほっとしていた。
ついでに、自由市の出店の申し込みも済ませる。
「いったい、この時期に何を売るんだ?」
夏季は毛皮がほとんど売れない。自由市に出店する者も少ないので、マカールは気になったらしい。
ミハイルは販売予定の虫除けや虫刺され薬の小瓶を出して見せた。
「虫除けに、虫刺され薬か。へえ、いいな」
「だろ?」
マカールが売ってほしいと言うので、ミハイルは見本として持って来ていた品をあげた。
「いいのか?」
「試作品みたいなもんだから、別に」
使ってみて、効果を実感してから購入するか、しないかは考えてくれと提案する。
「ミハイル……お前、良い奴だな」
「まあな」
マカールについても、絶対に許せないという気持ちはあったが、今は怒りを抑えて付き合ってやっている。結婚し、ギラギラした感じもなくなっていたので、我慢もできる。
帰宅後。
今度は驢馬を連れて薬師の家に行く。
ちょうど、玄関口の掃除をしていた。驢馬を連れたミハイルを見て、薬師はニコニコと微笑みかける。
「おやおや、可愛らしい驢馬ちゃんですねえ」
薬師は相変わらずな様子だった。
驢馬を見て、初孫を迎えた爺のように、相好を崩している。
「こちらの驢馬ちゃんは?」
「じいさんにやるよ」
「はて?」
なぜ驢馬を? そんな視線が投げかけられる。
ミハイルは真剣な眼差しで薬師に近付き、耳元で囁いた。
「ヤバいことになっている」
「おや」
続きは室内で話すことになった。
ミハイルは薬師にすべてを話した。
都からやって来た追っ手が迫っていること。商人の情報網を使って、確実に捕えようとしていること。それから、追っ手はユスーポフ公爵家か、薬師の実家であるウヴァーロフ家か、わからないということ。
「――なるほど」
ミハイルは今回の件で、薬師にも被害が及ぶのではと考えていた。
親しい付き合いをしているし、情報を聞きに来てもおかしくないと。
「じいさんの正体がバレたら大変だし、そうでなくても、人質なんかになったら大変だ」
「まあ、二十年以上経っているので、私の顔なんて誰も覚えていないでしょうから、大丈夫だとは思いますが、か弱い老人なので、あっさりと人質にはなりそうですよねえ」
「そうなんだよ。だから――」
ミハイルは膝に置いていた布包みをテーブルの上に置いた。
主な中身は毛皮と手紙である。
「これを、ある人物に届けてほしい」
ここで、薬師は驢馬を連れて来た意味を理解したようだ。
「ああ、だから、驢馬、なんですね」
ミハイルは薬師に驢馬に乗って、毛皮と手紙を届けてほしいと願った。
「馬だとキツイだろ? 驢馬だったら、ゆっくり進めるし、乗り心地も悪くない」
「なるほど。伝書鳩ならぬ、伝書爺というわけですね」
頭を下げて、ミハイルは頼み込む。
「いいですよ」
「本当か?」
「ええ、たまには、のんびり旅するのも悪くないでしょう」
ただ、旅支度と診療所を休むことを周知させるために、一週間ほど時間が必要だという。
「よろしいでしょうか?」
「ああ、わかった。すまない、頼む」
「いえいえ。ジジイもたまには頑張りますよ」
とりあえず、薬師に被害が及ぶことは回避された。
こうして、憂い事が一つ片付き、ホッとひと息吐いた。
◇◇◇
一週間後。いつもの通いの商人がやって来る。
今回、自由市で販売する虫除けと、虫刺され薬を作るために、大量の精製水や消毒液を購入した。
すっかり顔馴染みとなった商人とのやりとりを、内心戦々恐々としながら交わしていく。
中年の商人はほっそりしていて、背が高く、目はキツネのよう。笑顔を絶やさない、愛想のいい商人であった。
港と五つの村を行き来していて、遊牧民とも取引をしていると以前話をしていた。
この辺りに来る商人の中で、一番品揃えが良いので、こうして週に一度通ってもらっている。
名前は名乗っていない。呼ばれる時は「旦那」、「奥さん」だ。
しかし、周囲の者に聞いたら、名前なんてすぐにバレてしまうだろう。
そうでなくても、ミハイルの黒髪に緑目というのは珍しい。
遊牧民はほとんどが、黒髪に黒目であるらしい。遊牧民であるという言い訳がいつまで信じてもらえるのか。時間の問題でもある。
頼んでいた品物を受け取り、代金代わりのリスの毛皮を支払った。
いつもだったら商人はこのまま去って行くが、今日は珍しくミハイルに話しかけてきた。
「そういえば、噂を聞いたのですが――」
その言葉を聞いた途端、胸がドクンと高鳴る。嫌な汗が、じわりと額に浮かんでくるのがわかった。
「都の貴族、ウヴァーロフ家が、ある人物を捜しているらしくて」
もしかしなくても、ミハイルのことだった。
しかも、追っ手はウヴァーロフ家であることが発覚する。
恐怖から肌は粟立っていて、ぞくりと寒気を感じた。
「捜しているのは緑の目に、黒い髪をした容姿端麗なミハイルという名の少年ということだったのですが――ここの旦那様のことではと思い、村長さんに聞いてみたのですが、知らないとおっしゃっていまして」
マカールは何かを察したのか、ミハイルの名前について知らないと言ってくれたようだ。一時期血気盛んで、絶縁状態の村人が数人いるからと、言い訳してくれたらしい。
思いがけないマカールからの援護に、ミハイルは心の中で感謝する。
ホッとしたのも束の間。商人より追い打ちをかけられる。
「でも、緑目に黒髪はたいそう珍しいので、ウヴァーロフ家が捜しているのは、旦那様のことですかねえ?」
ここに来たばかりの頃は、やせ細っていて少年のようだったと言われる。
ミハイルは唇を噛みしめた。
オリガは外の畑で雑草抜きをしている。
今、ミハイルが商人を殴り、失神させたら逃げられるだろう。
先日、薬師は驢馬と共に旅立った
準備はほどほどに整っている。
どうすべきか。作戦開始は今なのか。ギリっと奥歯を噛みしめていると、商人は思いがけないことを言い出す。
「旦那様、大丈夫ですよ」
「え?」
「内緒にしておきますから」
商人はミハイルの按摩のおかげで、痛めていた体が軽くなった。それに、交換してもらう毛皮は質が良い。上客を失ってしまうわけにはいかないので、黙っておいてくれると言う。
「安心してください。他の青星の村の商人達に情報が伝わらないようにもしておきますから」
取引を終えた商人は、呆然とするミハイルの反応を見ずに去って行った。




