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オリガの食卓

 薬湯は全身の傷を抉ってくれるような痛みをもたらしてくれたが、風呂から上がったあと、鈍痛が治まったような気がした。

 気分もさっぱりとなる。

 オリガの父親の服は大きく、ベルトで縛ったからと言ってどうにかなるわけもなかった。

 ぶかぶかで、まるで子どもが大人の服を着ているかのよう。

 肉体労働と言ってもいいパン屋の仕事をしていたので、腕や腿は太いと思い込んでいたのに、上には上があるものだと、目の当たりにする。

 不格好であることはわかっていたが、どうしようもないので、そのまま外に出た。

 さすがに、風呂上りは寒い。小走りでオリガの家まで戻る。

 中はじんわりと暖かい。ペチカの輻射熱が、家全体を暖めるのだ。

 小麦が焼ける匂いが漂い、お腹がぐうと鳴る。

 パンの匂いに誘われるように、ミハイルは台所兼食堂へ足を運んだ。

 そこはかまどと一体化させた大きなペチカがあり、部屋の半分を占めている。それから、クルミ材の卓子と椅子に、皿や壺が並ぶ棚がいくつか設けられていた。

 ペチカがあるからか、食材は保管されていない。

 天井から吊るされた灯りは木蝋。独特の匂いが漂っているが、悪臭ではない。

 台所もきれいだった。清潔である。

 ミハイルが部屋を覗いた時、ちょうどオリガがかまどからパンを取り出しているところであった。

 丸く平たいライ麦パンは、ゴン! と音をたてて卓子に着地する。

 我が耳を疑ったが、ミハイルは疲れているので聞き違いだと思うようにした。


 卓子の中心には、壺が置かれている。

『ガルショーク』という、素焼きの壺だ。中身はスープのようだった。

 他に、キノコ、キュウリ、キャベツの酢漬けの瓶が置かれている。


「ミハイル・イヴァーノヴィチ、ちょうど朝食の準備ができた。そこに座れ」

「お、おう」


 ミハイルは怪しい音をたてたパンの存在が気になってたまらない。チラチラと視線を向けながらオリガの前に座る。


「まずは、森の神に祈りを」


 ここでの暮らしは森の存在に支えられている。

 感謝の祈りを捧げてから、食事をするのだ。


「――では、いただこう。遠慮せずに食べてくれ」


 オリガはまず、壺の中のスープを柄の長い匙で掬う。中には、大きな肉の塊と、一口大の蕪が皮のまま入っていた。それを、『ミスカ』と呼ばれる深皿に装う。

 壺と深皿は粘土から作った陶器製で、青い着色がなされている。表面に白の雪模様が描かれた、美しい食器であった。

 そんなきれいな器に装われた料理が、ミハイルの目の前に置かれた。

 澄ましスープのようにも見えるが、皿の中心にどんとある肉の存在感がすごい。


「これは?」

「シシ肉と蕪のスープだ」

「なるほど」


 王都では家畜の豚を食べることが多い、イノシシは初めてである。


「もしかして、野生のイノシシなのか?」

「そうだ」


 オリガは自分の深皿にも、同様にスープを装った。

 続いて、木のカップに瓶入りの飲み物が注がれる。シュワシュワと発泡していた。

 勧められたので、一口飲む。お茶と甘い炭酸飲料を足して割ったような、不思議な味わいの飲み物であった。初めての味だったので、質問してみる。


「おい。なんだ、これは?」

「悪くなりかけたライ麦パンで作った物だ」


 口に含んでいたものを、危うく噴き出しそうになった。

 これは『クワス』という飲み物で、各家庭の味がある伝統的な飲み物だとオリガは話す。

 作り方は簡単。鍋に水を入れて沸騰させ、こんがり焼いたパンとリンゴ、柑橘汁、干しブドウ、蜂蜜、砂糖を入れてひと煮立ち。粗熱が取れたあと、酵母を入れ三日ほど放置。

 シュワシュワと泡立ったら、中のパンと果物を濾して、一週間くらい地下の氷室で放置したら飲み頃となる。


「飲みにくかったら、蜂蜜を入れるといい」


 オリガはそう言ったが、なんとなく蜂蜜を追加するのは子どもっぽいと思い、ミハイルはそのまま飲むことにした。完全なるやせ我慢である。


 そして、オリガは問題のパンを切り始めた。

 腰から大振りのナイフを抜き取り、ゴリゴリゴリと、パンとは思えない怪音を鳴らしながら、切りわけられていく。


「お、おい、なんだよ、それ!」

「ライ麦パンだが。珍しいのか?」

「いやいやいや!」


 もともとハードな食感のライ麦パンであるが、切る時にゴリゴリなどと音はしない。

 その点にツッコミを入れる。

 オリガは静かにパンから刃を抜き、すっと目を細める。剣呑な空気に、ミハイルは額にどっと汗が噴き出た。

 一方で、オリガは自らが切っていたパンを見下ろしていた。


「……確かに、白星の村のライ麦パンは、ふっくらしていて、私の作る物よりやわらかくて、美味しい」


 おまけに、自らのパンで作ったクワスはとても不味いと付け加えていた。

 だが、今日はオリガのパンしかないようで、我慢してくれと言われた。


 陶器の皿の上に置かれたパンは、カァン! と小気味いい音を鳴らしていた。


 まず、オリガのパンは後回しにして、スープからいただく。

 卓子の上にあるのは、匙と二本爪フォークのみ。肉が大きいので、ナイフが必要だ。


「なあ、あんた。すまない、ナイフを貸してくれるだろうか」

「ああ、そうだったな」


 オリガは棚の引き出しから、鞘付きのナイフを取り出して手渡した。


「……?」

「今は父の物しかない。これも、あとで買いに行こう」


 ミハイルはナイフを手にしたまま、ポカンとする。

 そんな様子にも気付かずに、オリガは腰のベルトから小振りのナイフを引き抜き、食事を始めた。

 二本爪のフォークで肉を押さえ、ナイフで切りわける。ミハイルの感覚では、鞘付きのナイフは作業用で食事に使用しない。刃部分を潰した、食事専用のナイフを使うのだ。

 けれど、ここの村では当たり前のように、鞘付きのナイフを使っているようだった。

 フォークも、都では三本爪が主流であるが、目の前に置かれたのは二本爪のフォークである。遠く離れた村では、独自の食事文化があるのだと思うことにした。

 ミハイルはオリガに倣って、彼も鞘からナイフを引き抜き、二本爪のフォークで軽く押さえ、肉を一口大に切る。

 スッと、ナイフの刃が肉に沈んだ。

 ナイフが鋭いからか、肉がやわらかいからか、わからない。食べて確認するしかなかった。

 二本爪のフォークに肉を刺す。やはり、やわらかくて、すっと先端が入っていった。

 野生動物の肉は硬くて不味いという話を聞いたことがあったが、それは間違いなのだろうと、認識を改める。

 高まる期待に胸を踊らせながら、肉を頬張った――が。


「薄っ!!」


 肉は薄味だった。

 ほのかな塩味と、ほんのり香草の風味を感じる程度。肉は期待通りやわらかかったが、野性味が強く、おいしさを感じることは難しい。


「いや、これ、味付け、もうちょい、頑張れ……」


 しかし、これがこの村のおいしいスープなのかもしれない。ミハイルは訊ねる。オリガが是と言ったら、この味に慣れるしかない。が、しかし――。


「自分で作っておいてなんだが、正直美味くはない」

「!?」


 なぜ、改良せずに我慢をしているのかと問いかけると、オリガは無表情で答える。


「私は、あまり料理が得意ではないのだ」

「だろうな!」


 悪いと思いつつも、ミハイルは叫んでしまった。


「こんな風に、素材の無駄遣いをしているスープは初めてだ。ひでえ」


 香草を揉み込んで肉は臭み消しを行い、一度焼いて入れたら野性味は半減する。

 スープはもっと塩胡椒を利かせ、香草を入れたほうがいい。

 ミハイルは続けてダメ出しをする。


「それから野菜は皮を剥け。皮のままだと栄養分は取れるが、えぐみが――」


 オリガのアイスブルーの目と視線が交わる。冷たい眼差しを見て、背筋がぞっとした。

 思わず、目線を逸らす。ここで、ハッと我に返った。世話になっている身で、いろいろと物申してしまったと気付いたのだ。

 ミハイルは再度チラリと、オリガを見る。無表情であった。怒っているのか、悲しんでいるのか、見た目からは感じ取ることはできない。

 間が持たなかったので、パンに手を伸ばして口にした。


 ――ガチン!


 パンの食感としては、ありえない歯ごたえであった。


「なんだ、これ……? クッソ堅ってえなあ」

「私のパンは、どうしてかスープでもふやけないんだ」

「もうパンじゃねえ。これは兵器だ」


 会話はそれっきり。二人は黙々と、食事を食べる。


 夫婦初めての食事は、なんとも気まずいものであった。


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