一緒にお風呂?
「とりあえず、風呂に入れ」
「え!?」
「薬師から薬湯を預かっている。体もよくなるだろう」
「あ、ああ、そういうこと。なんだよ、紛らわしい」
「?」
さっそく、子作りを強要されるのかと、勘違いしてしまったのだ。
顔を真っ赤にさせたミハイルは、オリガに早く風呂場に案内するように急かした。
寝台から起き上がると、体のあちこちが痛んだ。傷の他に、打ち身もしていたのだ。
加えて、筋肉痛も酷かった。
普段、パン屋の仕事で使わないような筋肉を使っていたのだろう。
「体が傷むのか?」
「大したことじゃねえよ」
やせ我慢であった。
女性の前では、そういうことをしてしまう年頃なのである。
オリガは二階部分の案内をしながら廊下を進む。隣の部屋は父親が使っていた寝室。あとで掃除をして、ミハイルが使えるようにすると言っていた。
屋根裏部屋に繋がる階段があり、先に見えた扉はドアノブに縄がぐるぐる巻きにされていた。鍵をかけた上に、あのようにしているのだと、オリガは言う。
「厳重だな」
「あそこには、財産がある」
「財産?」
「毛皮だ」
ここの村で生活するには、毛皮は必要不可欠。
パン、魚、肉、乳製品など、生活必需品は毛皮と引き換えに交換するのだ。
「タイガの森にいるのはクロテン、ミンク、ヌートリア、ビーバー、キツネ、ウサギ、リス……」
今の時季は野生動物の毛がもっとも美しい季節。毛皮の価値もぐんと上がっていた。
中でも、黒褐色のクロテンは最高級品で、金にも勝る値段がつけられる。
「お前を見つけた時、クロテンを追っていたのだ」
「悪かったな、仕事を邪魔して」
「いや、いい。クロテンよりも、いいものを見つけたから」
無表情でそんなことを言いながら、オリガは一階に下りて行った。ミハイルは小さな呟きだったので聞き取れなかったが、どうでもいいかと思って、あとに続いた。
一階は台所、居間、物置があり、外に風呂場がある。
物置にあった、かつて彼女の父が着ていた服を手渡された。
詰襟の青いフェルト生地の上着に、黒いズボンであったが――あきらかに大きい。広げてみたら、さらに大きかった。
「お前の親父、クマかよ!」
思わず、ミハイルは指摘する。
オリガは表情を崩すことなく、じっとミハイルを見ていた。
すぐに、失敗したと反省する。故人をあれこれと言うのはよくないことだ。
だがそれも杞憂だった。
オリガは目を細め、口元に孤を描く。氷を思わせる冷たい印象しかなかったが、微笑むとやわらかな雰囲気となった。
笑うこともできるのかと、ミハイルはまじまじと顔を眺めていた。
そんな視線には気付かずに、オリガは父親について語り始める。
「村人も父を、熊と呼んでいた」
筋骨隆々で見上げるほどの巨体を持っていたオリガの父。
森の主と呼ばれていた獰猛なトラと戦い、毛皮を得た話は、村の伝説として語り継がれていた。
「尻尾にだけ模様がある真っ白くて綺麗なトラで、私の夫となる者に贈るようにと、父が言っていた。だから、お前の外套を作ってやろう」
「毛皮は大切な財産なんだろ? あんたが使えばいいだろうが」
「私にはもったいない品だ」
「いやいや、俺にもそうだろう」
「そんなことはない。それに白い毛皮は、その黒髪に似合うだろう」
皇帝との繋がりを表すミハイルの漆黒の髪。
この辺りの者達の髪色は色素が薄いので、珍しいと言っていた。
美しい髪だと褒め、私は「私は黒が好きなんだ」というオリガの発言を聞いて、頬を赤らめるミハイル。
羞恥を誤魔化すために、話を逸らす。
「そういえば、トラって、この森にたくさんいるのか?」
「いいや、私は見たことがない」
針葉樹林の森の奥に棲んでいるトラは、巨大なヒグマを襲い、捕食することから森の主と呼ばれていた。
「森の主、か」
「ああ。気高く美しい、森の化身だ」
だが、滅多に人前に出てくることはないと言う。
「トラが人を襲うことはない。騒いだり、敵意を見せたりした時は別だが」
トラの冬毛は高値で取引される。しかし、村の狩人達は命を懸けてまで狩ろうとはしないのだ。
「なるほどな」
村の毛皮文化を聞き、ミハエルは自分一人ではとても生きていけないと考える。
オリガに頼って生きるしかないのだ。
それも、情けないことであったが、今はどうすることもできない。
ぼんやりしていると、オリガに話しかけられた。
「すまないが、服はベルトで調節して、なんとかしてくれ。あとで、服を買いに行こう」
気まずげに、ミハイルは顔を逸らす。
「どうしたのだ?」
「いや、俺、金持ってねえんだよ」
ここに来る前は、伯父からもらった腕輪や指輪を付けていた。ベルトにも、宝石があしらわれている物を身に着けていたが、どれも没収されてしまった。
「いい、気にするな」
「いや、でも」
「ぶかぶかの服は不便だろう。繕い物は得意じゃないから」
「あ!」
そうだったと思い出す。ミハイルは裁縫ができた。
パン屋時代、店主のおさがりの白衣は大きく、自分で裾を詰めたり、袖を短くしたりしていたのだ。
「針と糸はあるか?」
「ない」
「どうなっているんだよ、この家は」
「いや、あるのかもしれないが、ある場所を知らない」
オリガと父親の二人暮らしの生活に、裁縫道具がでてきたことは一度もなかったのだ。
「今までどうしていたんだ?」
「裁縫師の店があるから、そこに持って行っていた」
「ああ、そういうことなのか」
話はここまでにして、風呂場への案内が再開される。
玄関には黒い毛皮の外套が数着かけられていた。丈はふくらはぎ辺りまでと長い。
血すら凍ってしまうような森の中での暮らしには、毛皮の外套は不可欠なのだ。
「これはなんの動物の毛なんだ?」
「黒トナカイだ」
「黒いトナカイ?」
トナカイの毛色といえば茶色だ。稀に、白い毛皮を持つ個体もいる。
黒いトナカイの話など、聞いたことがなかった。
「黒トナカイはこの付近にしか生息していない、珍しい品種だ」
軽い上に温かく、身軽な動きをする狩人にぴったりな一着なのだ。
「毛並みはクロテンやミンクに劣るがな。防寒着としての機能は申し分ない」
今日はオリガの分を借りることにした。
着心地は抜群。けれど、女っぽい香りがするのが気になった。落ち着かない気持ちになる。
帽子はクロウサギ製。耳当ても付いている。オリガはミハイルの頭に被せてあげた。
じっと見つめられたので、抗議する。
「なんだよ」
「クロウサギのようだと思って。垂れ耳なんだ」
「だからどうした!」
その反応を見たオリガはふっと軽く息を吐き、あわく微笑む。
案外よく笑う女だと、ミハイルは思った。
見とれてしまったことに気付き、ぶんぶんと首を横に振る。
扉を少し開けると、ヒュウと強い風が入ってきた。
昨日の寒さを思い出し、恐る恐る外に出る。
目の前に広がるのは、どこまでも続く針葉樹林と雪原。
太陽の光に照らされ、木や地面に積もった雪がキラキラと輝いている。
目の前の美しい光景に気を取られている中でふと気付いた。トナカイの外套を着ていたら、ぜんぜん寒くないと。
「すげえ、トナカイの毛皮」
その言葉を聞いたオリガは、笑みを深める。
「風呂はあそこにある小屋だ」
「へえ~~って、大衆浴場じゃないのか?」
「ああ。この村の住人は個人の風呂場を持っている」
ミハイルは週に三回ほど、大衆浴場に通っていた。それ以外は家で湯を沸かし、体を洗っていたのだ。
大衆浴場は混雑していてゆっくりできず、家の台所に桶を置いて入る風呂はすぐ冷える。
のんびり入浴したことなど一度もなかったのだ。
「風呂では、浴槽によく浸かれ。疲れが取れるし、薬湯の効果もすぐに出る」
浴槽に浸かるという文化を知らないミハイルは驚いた。けれど、体に良いと言われたら、するしかない。
風呂小屋は脱衣所に浴室と、しっかりした造りであった。浴槽は底だけ鉄製で、側面は木。床は石造りである。
髪を洗う石鹸なども並べられ、大衆浴場よりずっと綺麗で清潔な空間だった。
どうやって湯を溜めるのかと質問すると、その場で待っているように言われる。
オリガは外からガラリと窓を開け――外の雪をせっせとスコップで浴槽に入れていた。
その後、風呂場の外にあるかまどに薪がくべられ、中の雪が溶かされる。
大自然の恵みによる、雪風呂だった。
湯気がたち、ちょうどいい湯加減になったら、オリガは浴室に戻って来た。
浴槽に薬師から預かった薬湯の素を入れる。すると、独特の草花の匂いが浴室内に立ち込めた。
薬湯の中身は傷口に効く、抗菌作用のあるローズマリーに、打撲や捻挫に効果的なラベンダーを煎じ、混ぜ合わせたものである。
「ゆっくり入れ」
「ああ。感謝する」
オリガが出て行ったあと、ミハイルは服を脱ぎ、浴室へ入る。
ここに連れて来られるまで、三日ほど風呂に入っていなかったので、しっかりと体を洗った。
傷口に湯がかかるたびに、ジリジリと突き刺すような痛みが走る。
怪我は崖を転がった時にできたものだけではない。
流刑地までの移動中、乱暴な見張り番が、目付きが生意気だと鞭で叩くことがあったのだ。
「ミハイル・イヴァーノヴィチ、熱くないか?」
突然、風呂場の外より声をかけられて驚く。
言われてみれば、少し熱い気がした。だから、余計に沁みるのだ。
「少し雪を入れよう」
「ああ、頼――」
ガラリと窓が開き、オリガと目が合った。
全裸状態であるミハイルは、ぎょっとした。
「どれくらい必要だ?」
「なっ!?」
答えがなかったのでオリガは浴槽に手を伸ばして、湯の温度を確認して、雪を掬って入れた。柄で湯を混ぜて、雪を溶かす。
「どうだ?」
「いや、どうだじゃねえよ」
首を傾げるオリガに、ミハイルは言った。
「恥ずかしいから、窓閉めろ――いや、閉めてください」
ここで、オリガは様子がおかしい理由を把握したからか、すぐに窓を閉めた。
ホッとしたのも束の間。再度、窓が開かれる。
「!?」
なんの用事かと思ったら――。
「浴槽に浸かる時は、そこに立てかけてある板を敷け。でないと、下が鉄だから、足の裏を火傷する」
ありがたい助言であった。




