ミハイル少年の、なげやり人生
突然、見ず知らずの女性との結婚が決まっていた。
いくら、見とれるほどの絶世の美女相手とはいえ、受け入れることなどできない。
「ど、どういうことなんだよ」
「お前はタイガの森で倒れていた。そのままだったら、おそらく肉食動物に食われて、死んでいた」
「!?」
その言葉を聞いて、ゾワリと肌が粟立つ。
針葉樹林には、多くの肉食動物が生息している。
生態系の頂点に立つのは、トラである。他にも、凶暴なクマやオオカミ、ユキヒョウなどもいる。
「あのあたりはオオカミが多い。良かったな。生きたまま抗う術もなく、肉を食われなくて」
オリガが無表情で淡々と言うものだから、余計に恐怖を煽られる。
あの森で逃げ出すことは、大変危険なことだったのだ。
迫りくる死は、追っ手や寒さだけでなく、野生動物も含まれていた。
知らずに、とんでもないことをしたものだと思う。
「あんたが、助けてくれたんだな」
「ああ、そうだ」
「その、なんだ、ありがとう」
オリガは命の恩人であった。
斜面に飛び込んで転がり落ちる途中に、木に頭をぶつけて意識を失ってしまったのだ。
その時の記憶があいまいになっている。
また、落下地点から村まで結構な距離があるらしく、満身創痍状態ではたどり着けなかっただろう。
本当に、運が良かった。奇跡的に、助かったのだ。
再度、お礼を言う。
「感謝している。その、詫びとして、渡せる物など、何もないが――」
ここに来る前に、私物はすべて没収されていた。身一つ状態なのに、殺されるとわかったので、逃げ出したのだ。
いったい、どうやって恩を返せばいいのか。
頭を抱える。
ふと、ここで名乗っていないことに気付いた。
「あ、俺、名前……ミハイル。ミハイル・イヴァーノヴィチ・リューリク、です」
「歳は?」
「十七」
「なるほど。八も年下か」
オリガの呟きで思い出す――結婚がどうたらと言っていたことを。
「そうだ、結婚! あんた、いったい、どういうつもりなんだ?」
「お前は私が拾った。だから、夫にする」
「いやいやいや、それで納得するかよ」
「少々、事情があってな」
「それを話せと言っているんだ!」
オリガは包み隠さず話す。遊牧民の青年に求婚されて困っていることを。
「というわけで、お前は夫の振りをするだけでいい」
オリガはミハイルを保護する。その代りに、ミハイルはオリガの夫を演じる。
悪い話ではないだろうと、サラリと言ってのけた。
「……言っておくが、俺はワケありだ」
「ああ、だろうな」
オリガはミハイルにぐっと接近し、耳元で囁いた。
「お前は、皇帝の子だろう?」
耳元にふっと熱い息がかかるのと同時に、核心を突く言葉を聞かされ、ミハイルは瞠目する。
ドクンと、心臓の鼓動が大きく跳ねた。
「昔、父が言っていたのだ。皇帝の子は皆、美しい黒髪に緑の目である、と」
黒い髪に、緑の目は皇族の証である。
ミハイルはその特徴を綺麗に受け継いでいたのだ。
むろん、それは上流階級の者のみが知りうることである。オリガの父が知っていた理由は謎だ。
「あんた、この村の近くにある大規模な建物について、知っているのか?」
「ああ。突然やって来て、なんの許可も取らず、建築したのだ。村長は、責任者がクマに襲われ、トラに食べられるよう、毎日祈っていた」
そこは都で反乱を起こした貴族を収容する施設だと、ミハイルは説明する。オリガは驚きもせずに、冷静な声で「そうか」と答えた。
「俺は、そこに運ばれる途中だった。奴らはまだ、探しているかもしれない」
自分は面倒事なのだと、オリガに説明をする。
「そもそも、こんな森の奥で、役に立たない男なんかを夫にして、どうするつもりなんだ」
十七年間下町育ちで、高貴さの欠片もない。
半年前にとある貴族の家に保護されていたものの、優雅な生活習慣にはどうしても馴染めなかった。
ミハイルは自らの人生をぼんやりと振り返る。
母親は働かず、男をとっかえひっかえして暮らしていた。
恋人である男からもらったお金で、親子は長い間生活していたのだ。
母親は夜になったら着飾ってでかけ、昼間は寝て過ごす。
そんな暮らしに嫌気がさして、ミハイルは八歳の頃から働きだした。
雇ってくれたのは、下町のパン屋。
最初はかまど番から始まり、材料の買い出し、パンの配達、粉の計量と、段階を踏んで仕事を覚えさせてもらった。
半年前、やっと一人前と認めてもらった。人気のパンを焼くのは、ミハイルの仕事だった。
仕事は順調。お金を貯めて、独立して、いつか店を出そう。
そんなささやかな夢を見ていた中で、悲劇が起こる。
一生懸命働いて貯めていたお金と共に、母親が失踪したのだ。
今までも、生活費で服を買ったり、鞄や靴を買ったりと使い込むことはあったが、ミハイル個人の貯金に手を出すことはなかった。
けれど、今回は最後だからと書かれた手紙一枚を残して、いなくなってしまった。
男と逃げたのだと、近所の人から話を聞く。
近年、都も治安が悪くなっていた。
政策の一環で物価が高騰し、市民たちは悲鳴をあげているのだ。都では毎日のように、暴動が起きている。
そんな状況なので、田舎に逃げたのだろうと。
しかし、奪われたのはそれだけではなかった。母親は勤め先のパン屋に、親が病気で倒れたと嘘を吐いて借金をしていたのだ。
母親の駆け落ちの噂が流れると同時に、嘘も発覚する。
パン屋の店主は、貸したお金は返さなくてもいいという条件のもと、ミハイルを解雇した。
善き店主であった。幼いミハイルを雇い入れ、根気強く指導してくれた。
パン屋には感謝しかない。
しかし、ミハイルは家族もお金も仕事も、なにもかも失ってしまった。
けれど彼には、パンを作る能力がある。まだ絶望していなかったのだ。
それから、ミハイルはパンを作り、中央広場で路上販売をする日々を過ごす。
物価が上昇する中、粉屋と仲がよかったこともあり、原料である小麦粉を特別価格で売ってもらって、なんとかやり過ごしていた。
売り上げが増えていくと、パンの種類を増やしてみた。
リンゴの甘露煮を包んだ『ピローク』に、鮭と野菜の炒め物を巻いた『クレビャーカ』、乾燥果物とチーズを使った『ワトルーシキ』など。
ミハイルのパンはおいしいと評判になり、飛ぶように売れた。
たった一人で経営するパン屋は順調だった。
なのに、ある日の夕方、ミハイルは貴族の家に連れて行かれた。誘拐である。
ユスーポフ公爵家。
驚くべきことに、そこはミハイルの母の生家だったのだ。
公爵令嬢で、厳しい教育を施したにもかかわらず、手が付けられないほど奔放だったと、現公爵であり母親の兄である男が当時を振り返る。
そして、衝撃的なことに、ミハイルの母親は皇帝の愛人の一人だったのだ。
妊娠したが、認知はされなかった。母親は皇帝だけでは飽き足らず、側近や親衛隊の男性とも関係があり、誰の子どもかわからなかったのだ。
ユスーポフ家では、そんな彼女を一家の恥として、生まれた子共々家から追い出し、下町のボロ屋を与えて暮らせるようにした。
その後は放置である。
なぜ、今になって保護者を名乗り出たのかと問うと、とんでもない答えが返ってくる。
皇帝を始めとする皇族を皆殺しにして、ミハイルを新たな皇帝として据えると言うのだ。
彼が持つ、黒い髪に緑の目は皇帝の子の証。
ミハイルは間違いなく、皇家の血を引いていたのだ。
現在、皇帝の悪政に抵抗するため、反乱軍が結成されていた。その中心となる存在が、ユスーポフ公爵家である。
国を救ってくれと懇願されたが、ミハイルは断った。そんな大変な役目を引き受ける器など、欠片もなかったからだ。
その後、半年間しつこく説得された。
最終的には、女で陥落させようとしたので、耐えきれなくなったミハイルは屋敷を逃げ出す。
しかし、反乱軍の者と勘違いされ、皇帝軍の兵士に捕まり、最果ての収容所へと、流刑されてしまったのだ。
そんな波乱ばかりの人生であったが、詳しい事情はオリガには語らなかった。
ただ、自分が皇帝の血を引く流刑者であると、それだけ伝えた。
「だから、ここにいても、迷惑をかける」
「たった一枚の山羊の外套で、タイガの森に迷い込んだ者を生きていると、思うだろうか?」
「さあな」
逆に、オリガの夫にならず、これからどうするのかと聞かれる。
ミハイルには、帰るところなどどこにもなかった。
「あんたはどうして、俺にこだわる?」
「私は、お前が貴族でも、白い手の持ち主ではないから、連れて来た」
オリガはそっと、ミハイルの手を握って呟く。
ベラルチキとは、手が汚れるような労働を嫌う、綺麗な手の持ち主のことである。
一方で、毎日パン屋で力仕事に明け暮れていたミハイルの手は、ごつごつしていて、節くれ立っていた。とても、貴族の坊ちゃんの手には見えない。
「なんだよ、働けと言うのか?」
「働かないと、生きていけない。ここは、そういう場所だ」
「でも、トラのいる森になんか、行きたくねえ」
「狩猟は私の仕事だ」
そもそも労働を強いるために、連れて来たのではないと言う。
「お前の働き者の手が好ましいと思ったから、夫になってほしいと思ったのだ」
「そ、そうかよ」
そんなこと、言われたことがなかったので、ミハイルは盛大に照れていた。目が合ったので、ふいと視線を逸らす。
オリガはミハイルを見ながら、話を続けた。
「父が死んで、独りで暮らすようになり、私は灯りの点いていない、真っ暗な家に帰ることになった」
冬は昼過ぎになると、陽が沈む。
そんな中で、家族のいる家は、ポツポツと灯りが点いている。
けれど、父親が死んだオリガは一人、真っ暗な冷たい家に帰るしかなかった。
それはとても空しく、悲しいことであると、無表情のままで告げる。
「だから、お前は私の家に、灯りを点しておいてほしい。それが、一番の仕事だ」
ミハイルはその話を聞いて、胸がきゅうと締め付けられる。
彼も、同じだった。
どんなに疲れて帰っても、家に灯りは点いていない。母親は毎晩のように、夜遊びをしているからだ。
周囲の家では温かい灯りが漏れ、夕食のいい匂いがする。
いつも、一人だった。
母親の作った温かいスープが、暖炉にあったことなんて一度もない。
どうせ、帰る場所もないのだ。受け入れてくれる職場も、迎えてくれる家族すらも。
だったら、この申し出はありがたいことなのではと考える。
瞼が熱くなって、ミハイルは両手で顔を覆った。そして、震える声で答える。
「――わかった。俺はこの家に毎日、灯りを点す」
こうして、オリガとミハイルは夫婦となる。
二十五歳の妻と、十七歳の夫の生活が始まるのだ。