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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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22/85

夫婦の夜

 オリガの発言に、ミハイルはギョッとする。


「な、何言ってんだよ! つーかあんた、俺のこと、子ども扱いしているだろう?」

「子ども扱い?」


 何を怒っているのだと聞かれる。


「私は、人の気持ちを察することは上手くない。だから、何を思って、何を感じたか、教えて欲しい」


 オリガは自らが腰かける寝台の上を叩き、隣に座るように勧めた。


「ゆっくり、たくさん話をしよう。幸い、私達には時間がある」


 ミーシャと、落ち着いた低い声でオリガがミハイルの名を呼ぶと、暖炉の火がパチリと音を立てる。

 灯りに照らされた表情は、とても美しかった。

 ユスーポヴァ公爵家で見た宗教画の聖母のような、清廉で慈愛に満ちた雰囲気がある。


 ミハイルはしばらく逡巡していたが、大人しくオリガの隣に座った。


「少し待て」


 オリガは立ち上がり、棚の中から瓶と小さな鍋を取り出し、暖炉の天井部分より吊り下げる。

 瓶の中の液体を入れて、さらに小さな壺の中身を垂らしている。

 しばらくすると、くつくつと、沸騰している音が聞こえた。

 鍋の底が焦げないように、オリガは木の匙でくるくるとかき混ぜる。


 仕上げに、香草か何かを入れ、二人分のカップに注いでいた。それを、ミハイルのもとに持って来て手渡す。


 湯気からは、ふわりと甘い匂いが漂っていた。


「なんだ、これは?」

「モルスという、コケモモのジュースだ。これを飲んだら、ぐっすり眠れるだろう」


 ミハイルは小さな声で礼を言い、ふうふうと冷ましてから口にする。

 甘くあっさりとした味わいが口の中に広がった。香草のぴりっとした後味が、体をホカホカと温めてくれる。


「……え、これ、すごい」


 体温がどんどん上昇していくのを、ミハイルは実感する。

 胸の辺りからじわじわ熱くなり、冷え切っていた手先も温かくなった。


 隣に座るオリガも、一口飲んでちらりと隣を見る。何かと、首を傾げていたが、その様子を見たミハイルの胸は、バクンと大きく鼓動を打った。

 慌てて、胸を押さえる。


 体がどんどん熱くなる。それは、異常なまでに。

 詰襟状になった首元が苦しくなって、ボタンを外したつもりだったが――ブツンと、糸ごと外してしまった。


 孤を描いて飛んでいくボタンを視線で追ったあと、ぼそりと呟く。


「……いや、ちょっと待て。なんかおかしい」

「大丈夫か?」


 そっと、額に白い指先が伸ばされたが、さっとミハイルは避けた。


「ミーシャ?」

「……」


 頭の中がくらくらしている。

 オリガを見ると、もっと酷くなった。


「俺、どうして――」

「元気がないようだから、老師からもらった、元気になる薬を入れたんだが、やはり、効かなかったか?」


 軽い滋養強壮効果のある薬だと思い、オリガはモルスに入れたのだと話す。


「クッソ! それだああああ~~!」


 ミハイルは頭を抱え寝台から離れると、床の上で転げ回る。


「な、なんだこれ!!」

「ミーシャ、どうしたんだ?」

「薬のせいだよ!!」

「元気に、なり過ぎてしまったのか?」

「違う!! いや、違わないが……」


 ミハイルは己の意思とは関係なく、浮かんでくる欲求から気を逸らすために、地面を転がっていた。

 想定外の異変に、オリガはオロオロと、落ち着かない様子を見せている。


「老師は、いったい何を?」

「媚薬だよ!!」

「え?」

「媚薬だ、媚薬!!」


 大切なことなので、二回言った。


「媚薬、だと?」

「そうだ!」

「それは、いったいどういうふうになる?」

「お前を死ぬほど襲いたくなる!」

「……」


 まことに明快な回答であった。

 その欲求から抗うために、こうして床の上を転げ回っているということも、理解いただけた。


「私は、どうすれば……」

「俺を縄で縛れ! 今すぐに!」

「いや、それは……」

「襲われたいのか!?」

「……」


 オリガは困惑の表情でミハイルを見下ろす。

 ここに来た当初に見せていた、勇ましい様子は鳴りを顰めていた。


「ミーシャ、私は……」


 口元に手を当て、心から困惑しているのがわかる。

 眉尻は弱々しく下げられ、目が潤んでいるようにも見えた。

 その様子を見てしまったミハイルは叫ぶ。


「な、なんだよ、その、かわいい仕草と表情は~~!! 猛虎じゃねえのかよ~~!!」


 もう、混乱していて、ミハイルは自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。


「いいから、縄で縛れ! 俺は、こんな馬鹿みたいなことで、あんたを襲いたくない!」

「わ、わかった」


 オリガは棚から縄を取り出す。

 なんで自室に縄を常備しているのか、というミハイルの指摘ツッコミは無視して行動に移した。


 素早くミハイルの腕を掴み、捻り上げて腹這いの姿勢にする。

 もう片方の腕も掴んで、縄でぐるぐる巻きにした。

 同じように、足も縛り上げる。


「これで満足か?」

「いや、もっと強く縛れ。縄が、解ける」


 今度は容赦なく、力いっぱい縄を縛った。


「――クッ!」

「ミーシャ」

「いい、続けて、くれ……」


 オリガは要望どおり、きっちりと縛り上げた。


 ここに一晩転がしておいてくれと頼んだが、オリガは首を横に振った。

 床に布団を敷いて、ミハイルの体を転がし、掛け布団を被せてくれる。


「寒かったら、暖炉の近くに運ぶが?」

「いや、いい」

「わかった」


 気まずい沈黙が、部屋を支配する。

 オリガは部屋の灯りを消し、布団に潜り込んでいた。

 そして、囁くような声で、「おやすみなさい」と言う。


「……おやすみ、オリガ」


 それは、ぶっきらぼうだけど、優しい囁きだった。

 ハッと、オリガが息を呑んだことに、ミハイルは気付いていない。


 本人は意識が曖昧な状態で、初めてオリガの名前を呼んだ。

 二人の距離が、また一歩近くなる。


 こうして、夫婦は危機を乗り越えた。


 翌朝、ミハイルは欠伸を噛み殺しながら台所に立つ。

 体はどうもない。

 苦しくないよう、ミハイルが眠ったあと、オリガが縄を解いてくれたようだ。


 それにしてもと、薬師を恨めしく思った。

 あの媚薬のせいで、酷い目に遭ったと。


 幸か不幸か、記憶は酷くおぼろげである。

 何か言わなくてもいいことを叫んだ気もした。

 しかし、覚えていないので、気にしようがない。

 両頬を打って気合いを入れて、朝食の準備に取りかかった。


 作るのは、朝食の定番『ブルヌイ』。

 北国風のパンケーキである。


 ボウルに小麦粉、砂糖、酵母を入れ、途中で牛乳、塩、卵、油を加えてよく混ぜる。

 生地が混ざったら、一度濾して、ボウルに布を被せて三十分ほど寝かせた。


 ラゥ・ハオと部下が起きて来たようだった。

 居間から賑やかな声が聞こえる。

 オリガが台所に顔を出し、湯を沸かして紅茶を淹れる。


 媚薬事件から一晩。

 なんとなく、気まずい雰囲気であった。


 ミハイルはひたすら、ブルヌイを焼いていく。

 鍋にバターを落とし、生地を入れた。

 じゅわっと音がなり、バターの香ばしい匂いが漂う。

 生地がふつふつと気泡を立てたら裏返し、綺麗な焼き目が付くまでしっかりと焼く。


 ◇◇◇


 一時間後。

 ミハイルはこれでもかと、積み上がったブルヌイをラゥ・ハオの前に出していた。


「ワアオ! 美味しソウダネ!」


 ブルヌイと合わせるものは、バター、スメタナ、チーズ、ジャム、それから――赤と黒のイクラ。オリガはテーブルの中心に、一列に並べていく。


「これは、まさか……!」


 ミハイルは訝しげな表情で、魚の卵が入った二本の瓶を交互に見る。

 イクラは針葉樹林タイガの森で暮らす者にとって、ごちそうだ。

 間違いなく美味しいので、オリガはきちんと説明しておく。


「それは、三日月湖で獲れた魚の卵を塩漬けにしたものだ。ブルヌイに合わせるのは、イクラが一番美味しい」


 それを聞いたラゥ・ハオは、迷わず黒いイクラの瓶を取って、ブルヌイにひと匙落とす。

 手のひら大のブルヌイに黒のイクラを包んで、パクリと一口で食べていた。


「ン、美味イ!」

「こちらの赤イノモ、美味シイですネ!」


 部下までも、イクラを絶賛していた。

 そうなると、ミハイルも気になっているようである。

 ジロリと、疑うような視線を向けていた。

 その様子に、オリガはくすりと微笑む。

 黒イクラのブルヌイ巻きを作る。食べやすいように丸め、ミハイルの口元へと持って行った。


「ミーシャ。いいから一回、食べてみろ」

「え!?」

「美味しいから」


 そう言って、口の中に詰め込んだ。

 もっちり食感の生地はほんのり甘い。素朴な味わいである。

 その中に、塩味の効いたイクラのプチプチとした食感が口の中に広がる。

 甘すぎない生地に、しょっぱいイクラが良く合う。


 ミハイルの顔を覗き込むと、サッと逸らされた。

 頬が僅かに赤くなっているので、照れているのだろうと思うことにした。

 しかし、気になることはしっかりと聞いておく。


「ミーシャ、どうだ?」

「う、美味い、確かに」

「だろう?」


 続いて赤いイクラを巻いて、ミハイルに食べさせてあげた。

 またしても照れているのか、目が泳いでいる。

 その様子を微笑ましいと思い、じっと眺めていたが、同じように、オリガもラゥ・ハオから見られていることに気付いた。


「ラゥ・ハオ、何か用か?」

「イヤ、仲良シダト、思ってナ」


 ここで、オリガも照れてしまった。

 他人の目を気にせずに、恥ずかしいことをしていたなと。

 顔を逸らしながら、ぶっきらぼうに返した。


「一応、私達は新婚だからな」

「ソッカ、イイネ!」


 ラゥ・ハオは続けて話しかけてくる。


「そういえば、昨晩は、タイヘンお楽しみダッタ、ヨウデ」


 彼の一言に、凍りつく食卓。

 それは、針葉樹林タイガの森の北風よりも、冷え切っていた。


 昨晩のお楽しみとは、うっかり媚薬を飲んだミハイルが、部屋でのたうち回っていたことだろう。

 もちろん、媚薬について話をするわけにはいかない。


「イヤハヤ、ナカナカ、激しクテ……ネ?」


 一拍間を置いてから、ミハイルが顔を真っ赤にして、猛烈に怒ったことは言うまでもない。


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