夫婦の夜
オリガの発言に、ミハイルはギョッとする。
「な、何言ってんだよ! つーかあんた、俺のこと、子ども扱いしているだろう?」
「子ども扱い?」
何を怒っているのだと聞かれる。
「私は、人の気持ちを察することは上手くない。だから、何を思って、何を感じたか、教えて欲しい」
オリガは自らが腰かける寝台の上を叩き、隣に座るように勧めた。
「ゆっくり、たくさん話をしよう。幸い、私達には時間がある」
ミーシャと、落ち着いた低い声でオリガがミハイルの名を呼ぶと、暖炉の火がパチリと音を立てる。
灯りに照らされた表情は、とても美しかった。
ユスーポヴァ公爵家で見た宗教画の聖母のような、清廉で慈愛に満ちた雰囲気がある。
ミハイルはしばらく逡巡していたが、大人しくオリガの隣に座った。
「少し待て」
オリガは立ち上がり、棚の中から瓶と小さな鍋を取り出し、暖炉の天井部分より吊り下げる。
瓶の中の液体を入れて、さらに小さな壺の中身を垂らしている。
しばらくすると、くつくつと、沸騰している音が聞こえた。
鍋の底が焦げないように、オリガは木の匙でくるくるとかき混ぜる。
仕上げに、香草か何かを入れ、二人分のカップに注いでいた。それを、ミハイルのもとに持って来て手渡す。
湯気からは、ふわりと甘い匂いが漂っていた。
「なんだ、これは?」
「モルスという、コケモモのジュースだ。これを飲んだら、ぐっすり眠れるだろう」
ミハイルは小さな声で礼を言い、ふうふうと冷ましてから口にする。
甘くあっさりとした味わいが口の中に広がった。香草のぴりっとした後味が、体をホカホカと温めてくれる。
「……え、これ、すごい」
体温がどんどん上昇していくのを、ミハイルは実感する。
胸の辺りからじわじわ熱くなり、冷え切っていた手先も温かくなった。
隣に座るオリガも、一口飲んでちらりと隣を見る。何かと、首を傾げていたが、その様子を見たミハイルの胸は、バクンと大きく鼓動を打った。
慌てて、胸を押さえる。
体がどんどん熱くなる。それは、異常なまでに。
詰襟状になった首元が苦しくなって、ボタンを外したつもりだったが――ブツンと、糸ごと外してしまった。
孤を描いて飛んでいくボタンを視線で追ったあと、ぼそりと呟く。
「……いや、ちょっと待て。なんかおかしい」
「大丈夫か?」
そっと、額に白い指先が伸ばされたが、さっとミハイルは避けた。
「ミーシャ?」
「……」
頭の中がくらくらしている。
オリガを見ると、もっと酷くなった。
「俺、どうして――」
「元気がないようだから、老師からもらった、元気になる薬を入れたんだが、やはり、効かなかったか?」
軽い滋養強壮効果のある薬だと思い、オリガはモルスに入れたのだと話す。
「クッソ! それだああああ~~!」
ミハイルは頭を抱え寝台から離れると、床の上で転げ回る。
「な、なんだこれ!!」
「ミーシャ、どうしたんだ?」
「薬のせいだよ!!」
「元気に、なり過ぎてしまったのか?」
「違う!! いや、違わないが……」
ミハイルは己の意思とは関係なく、浮かんでくる欲求から気を逸らすために、地面を転がっていた。
想定外の異変に、オリガはオロオロと、落ち着かない様子を見せている。
「老師は、いったい何を?」
「媚薬だよ!!」
「え?」
「媚薬だ、媚薬!!」
大切なことなので、二回言った。
「媚薬、だと?」
「そうだ!」
「それは、いったいどういうふうになる?」
「お前を死ぬほど襲いたくなる!」
「……」
まことに明快な回答であった。
その欲求から抗うために、こうして床の上を転げ回っているということも、理解いただけた。
「私は、どうすれば……」
「俺を縄で縛れ! 今すぐに!」
「いや、それは……」
「襲われたいのか!?」
「……」
オリガは困惑の表情でミハイルを見下ろす。
ここに来た当初に見せていた、勇ましい様子は鳴りを顰めていた。
「ミーシャ、私は……」
口元に手を当て、心から困惑しているのがわかる。
眉尻は弱々しく下げられ、目が潤んでいるようにも見えた。
その様子を見てしまったミハイルは叫ぶ。
「な、なんだよ、その、かわいい仕草と表情は~~!! 猛虎じゃねえのかよ~~!!」
もう、混乱していて、ミハイルは自分でも何を言っているのかわからなくなっていた。
「いいから、縄で縛れ! 俺は、こんな馬鹿みたいなことで、あんたを襲いたくない!」
「わ、わかった」
オリガは棚から縄を取り出す。
なんで自室に縄を常備しているのか、というミハイルの指摘は無視して行動に移した。
素早くミハイルの腕を掴み、捻り上げて腹這いの姿勢にする。
もう片方の腕も掴んで、縄でぐるぐる巻きにした。
同じように、足も縛り上げる。
「これで満足か?」
「いや、もっと強く縛れ。縄が、解ける」
今度は容赦なく、力いっぱい縄を縛った。
「――クッ!」
「ミーシャ」
「いい、続けて、くれ……」
オリガは要望どおり、きっちりと縛り上げた。
ここに一晩転がしておいてくれと頼んだが、オリガは首を横に振った。
床に布団を敷いて、ミハイルの体を転がし、掛け布団を被せてくれる。
「寒かったら、暖炉の近くに運ぶが?」
「いや、いい」
「わかった」
気まずい沈黙が、部屋を支配する。
オリガは部屋の灯りを消し、布団に潜り込んでいた。
そして、囁くような声で、「おやすみなさい」と言う。
「……おやすみ、オリガ」
それは、ぶっきらぼうだけど、優しい囁きだった。
ハッと、オリガが息を呑んだことに、ミハイルは気付いていない。
本人は意識が曖昧な状態で、初めてオリガの名前を呼んだ。
二人の距離が、また一歩近くなる。
こうして、夫婦は危機を乗り越えた。
翌朝、ミハイルは欠伸を噛み殺しながら台所に立つ。
体はどうもない。
苦しくないよう、ミハイルが眠ったあと、オリガが縄を解いてくれたようだ。
それにしてもと、薬師を恨めしく思った。
あの媚薬のせいで、酷い目に遭ったと。
幸か不幸か、記憶は酷くおぼろげである。
何か言わなくてもいいことを叫んだ気もした。
しかし、覚えていないので、気にしようがない。
両頬を打って気合いを入れて、朝食の準備に取りかかった。
作るのは、朝食の定番『ブルヌイ』。
北国風のパンケーキである。
ボウルに小麦粉、砂糖、酵母を入れ、途中で牛乳、塩、卵、油を加えてよく混ぜる。
生地が混ざったら、一度濾して、ボウルに布を被せて三十分ほど寝かせた。
ラゥ・ハオと部下が起きて来たようだった。
居間から賑やかな声が聞こえる。
オリガが台所に顔を出し、湯を沸かして紅茶を淹れる。
媚薬事件から一晩。
なんとなく、気まずい雰囲気であった。
ミハイルはひたすら、ブルヌイを焼いていく。
鍋にバターを落とし、生地を入れた。
じゅわっと音がなり、バターの香ばしい匂いが漂う。
生地がふつふつと気泡を立てたら裏返し、綺麗な焼き目が付くまでしっかりと焼く。
◇◇◇
一時間後。
ミハイルはこれでもかと、積み上がったブルヌイをラゥ・ハオの前に出していた。
「ワアオ! 美味しソウダネ!」
ブルヌイと合わせるものは、バター、スメタナ、チーズ、ジャム、それから――赤と黒のイクラ。オリガはテーブルの中心に、一列に並べていく。
「これは、まさか……!」
ミハイルは訝しげな表情で、魚の卵が入った二本の瓶を交互に見る。
イクラは針葉樹林の森で暮らす者にとって、ごちそうだ。
間違いなく美味しいので、オリガはきちんと説明しておく。
「それは、三日月湖で獲れた魚の卵を塩漬けにしたものだ。ブルヌイに合わせるのは、イクラが一番美味しい」
それを聞いたラゥ・ハオは、迷わず黒いイクラの瓶を取って、ブルヌイにひと匙落とす。
手のひら大のブルヌイに黒のイクラを包んで、パクリと一口で食べていた。
「ン、美味イ!」
「こちらの赤イノモ、美味シイですネ!」
部下までも、イクラを絶賛していた。
そうなると、ミハイルも気になっているようである。
ジロリと、疑うような視線を向けていた。
その様子に、オリガはくすりと微笑む。
黒イクラのブルヌイ巻きを作る。食べやすいように丸め、ミハイルの口元へと持って行った。
「ミーシャ。いいから一回、食べてみろ」
「え!?」
「美味しいから」
そう言って、口の中に詰め込んだ。
もっちり食感の生地はほんのり甘い。素朴な味わいである。
その中に、塩味の効いたイクラのプチプチとした食感が口の中に広がる。
甘すぎない生地に、しょっぱいイクラが良く合う。
ミハイルの顔を覗き込むと、サッと逸らされた。
頬が僅かに赤くなっているので、照れているのだろうと思うことにした。
しかし、気になることはしっかりと聞いておく。
「ミーシャ、どうだ?」
「う、美味い、確かに」
「だろう?」
続いて赤いイクラを巻いて、ミハイルに食べさせてあげた。
またしても照れているのか、目が泳いでいる。
その様子を微笑ましいと思い、じっと眺めていたが、同じように、オリガもラゥ・ハオから見られていることに気付いた。
「ラゥ・ハオ、何か用か?」
「イヤ、仲良シダト、思ってナ」
ここで、オリガも照れてしまった。
他人の目を気にせずに、恥ずかしいことをしていたなと。
顔を逸らしながら、ぶっきらぼうに返した。
「一応、私達は新婚だからな」
「ソッカ、イイネ!」
ラゥ・ハオは続けて話しかけてくる。
「そういえば、昨晩は、タイヘンお楽しみダッタ、ヨウデ」
彼の一言に、凍りつく食卓。
それは、針葉樹林の森の北風よりも、冷え切っていた。
昨晩のお楽しみとは、うっかり媚薬を飲んだミハイルが、部屋でのたうち回っていたことだろう。
もちろん、媚薬について話をするわけにはいかない。
「イヤハヤ、ナカナカ、激しクテ……ネ?」
一拍間を置いてから、ミハイルが顔を真っ赤にして、猛烈に怒ったことは言うまでもない。




