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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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20/85

おかえりなさいと、ただいま

 ラゥ・ハオは自由市に連れてきていた部下の馬を二頭、オリガとミハイルに譲った。

 三人のうち、二人の部下達は黒星の村に待機させ、後日迎えに行くようだ。


 帰りは、オリガは犬ゾリに乗り、ミハイルはラゥ・ハオの部下と共に馬に跨る。


「よろしく」

「はい、よろしくお願いいたします」


 同乗するのは同じ年頃の少年。

 丁寧な態度で頭を下げてくれる。


 残った一頭は、ラゥ・ハオが引いて連れて行くことになった。


 初めての乗馬に、ミハイルは緊張の面持ちでいる。

 都で馬を所有していたのは富裕層のみで、下町の者は驢馬ろばを飼育していた。かつて勤めていたパン屋でも同様に。 

 荷車を引いてくれる驢馬は、小麦粉の買い出しやパンの配達をする上で、なくてはならない存在ものだった。


 そんな慣れ親しんだ驢馬と違い、馬は大きい。間近で見上げ、ただただ圧倒された。

 太陽の光に照らされて輝くたてがみに、美しい毛並み。腿から背中にかけてのしなやかな筋肉。

 これが、自分のものになると言われ、ドキドキと胸が高鳴った。

 きちんと世話ができるだろうか。そんな不安もあるが、それ以上に、初めてミハイルに与えられた馬に、期待で胸が膨らむ。


 しかし、馬を貰うまでの経緯はなんとも情けない。

 何事もなかったかのように話しかけてくるラゥ・ハオには、冷たい態度でいた。


「ミハイル、私と一緒デモ、イイノニ」

他人ひとに薬盛る奴と同乗なんかしたくねえ」


 ジロリと睨みつけるミハイルに、「哈哈哈ハハハ!」と笑うラゥ・ハオ。

 そんな二人に、オリガは声をかける。


「日が暮れる前に帰る。お喋りはあとだ」

「リョーカイ!」

「わかった」


 オリガの犬ゾリが先行し、馬があとに続く。


 ◇◇◇


 やっとのことで帰宅を果たした。

 辺りはすっかり暗くなっている。


 オリガの家の塀が見えたところで、馬から降りた。


 ミハイルにとって初めての馬に乗った状態での長距離移動は、疲労感を伴うものであった。

 満身創痍状態で葦毛の馬を見上げ、ぽつりと呟く。


「馬なんか、俺に操れるのか……?」

「大丈夫ですよ。練習したら、慣れます」


 ラゥ・ハオの部下が励ましてくれる。

 馬の目はくりっとしていて、可愛らしい。睫毛が長く、美人だった。


「これ、お前の馬じゃないのか?」

「いいえ。取引に使うかもしれないと、連れていた馬です」

「そうか」


 この馬は交易をするために特別な環境の中で育てられた馬で、荷運び用や乗馬用よりも毛並みや姿形が美しくなるよう、手間暇かけて育てた馬だということが発覚した。


「こうやって、美しい馬が生まれたら、取引用にと育てるのですが、おさが今まで馬を交易の材料として使ったことは一度もありません。馬は我々にとって、何物にも代えがたい宝ですから」

「なるほど」


 ラゥ・ハオより贈られた馬は、今回の件に関して最大の謝罪の形だったのだ。


「今回の件は、謝っても謝りきれないことでもあるのですが」

「……」


 ミハイルは首を横に振り、頭の隅に追いやった。

 部下の少年は、消え入りそうな声で謝罪する。


「もういい。これ以上言うな。まずは、家に戻って――はあ?」


 喋りながら塀の前まで辿り着いたミハイルは、ぎょっとする。

 出入り口の扉が、無残な形で破壊されていたのだ。

 まるで蹴破ったかのように地面に倒されており、しかも、中心部からパックリと割れていた。


「な、なんだこれは、賊か!?」


 ミハイルは表情を青くして、先に中に入ろうとしていたオリガを慌てて制する。


「おい、危険だ。相手の動向がわからない。まだ、中に入らねえほうが」

「扉を壊したのは私だ」

「え?」

「家の敷地内に違和感を覚えて、突入したのだ」

「あ、そ、そう」


 ミハイルはオリガと見つめ合い、しばし、気まずい時間を過ごす。


 ヒュウと、北風が吹いた。

 身も凍りつくような、冷たい風である。


「ここは寒い。中に入ろう」

「お、おう」


 ラゥ・ハオとその部下も中へと招き入れる。

 馬は家の裏手に連れて行った。

 昔、オリガの父親が馬を飼育していたので、三頭ほど入る立派な厩がある。そこへ藁を敷いて、馬を招き入れた。水と餌も与える。

 ミハイルは犬に餌を与えた。長距離を頑張って走ってくれた犬の頭を撫でる。


 オリガが扉の修繕をしようとしたが、ラゥ・ハオと部下が代わって作業すると申し出た。

 彼らは移動式の天幕を作って暮らしており、たった一時間ほどで住居を組み立てる。

 手先が器用で、壊した扉の修繕なども得意としていた。


「ミハイル、ここは彼らに任せよう」

「わかった」


 とりあえず帰宅となる。


 玄関に入ると、内部はいつもより寒かった。ペチカの火が消えかけているのだろう。

 一歩足を踏み入れると、木の匂いを感じる。それから臭い取りの役目のある、壁に張り付けてある薬草の束の香りと、僅かな木蝋の匂いも。


 ここで暮らして、半月ほど。

 なのに、やっと家に帰って来られたと、ホッと息を吐いた。


 オリガは玄関の角灯に火を灯す。

 ぼんやりと光り、廊下を照らした。


 オリガは立ち止まったままぼんやりしているミハイルを振り返り、心配そうな表情で声をかけた。


「ミハイル、どうした?」

「いや、なんだろう、これ……?」


 帰って来ただけなのに、じわりと心が温かくなる。


 かつて、暮らしていた家では、こんなことなど一度もなかった。

 帰宅して一番に思うのは、がむしゃらに働いて、やっと一日が終わったという疲労感。

 家で待っているのは、冷たい部屋と母親の脱ぎ散らかした洗濯物、灰が積み上がった冷たい暖炉。

 迎えてくれる人も、帰りを待つ人もいなければ、心安らぐものなんて、何一つもない。

 今までは家に帰っても、何もなかった。

 それが普通だった。

 なのに、オリガの家は違った。


「なんか、俺、家に帰ってきて初めて、よかったっていうか、ホッとしたというか……。これ、なんなんだろう。わかんねえ……」


 家に帰って来て気持ちが落ち着くなんて、知らない感情だった。

 気持ちの整理が付かずに、ソワソワしてしまう。

 嫌な感情ではない。むしろ、良い感情だ。

 けれど、今まで感じたことのないものだったので、疑問に思う。

 そんな混乱状態であるミハイルに、オリガは言った。


「おかえりなさい、ミーシャ」


 オリガの言葉に、微笑む美しい表情に、ミハイルはハッと息を呑む。

 生まれて初めての、おかえりなさいの言葉だった。

 さまざまな感情が入り乱れ、瞼が熱くなって、パチパチと目を瞬かせた。

 頬からじんわりと温かくなり、しだいに顔全体が熱くなる。

 胸が早鐘を打って、落ち着かない気持ちになった。


 けれど、そんな不可解な気持ちはさておいて、ミハイルはオリガの「おかえりなさい」に、言葉を返す。


「……ただいま」


 そう言ったら、オリガは笑みを深めた。


 こうして、ミハイルは帰宅を果たす。

 まずペチカに薪を入れて部屋を暖かくし、二人で家の灯りを点けて回ることから始めた。


 ◇◇◇


 客人を迎えるとのことで、料理を作ることになった。


「パンは奴――ラゥ・ハオに全部食われた。絶対に許さねぇ」


 ラゥ・ハオの知り合いであるオリガは、申し訳なさそうに顔を背ける。

 しかし、その先で何かを発見したようだった。


「そういえば、そこにあるパンは?」


 オリガは棚の中の丸いパンを指差す。


「あ、あれは――」

「?」


 首を傾げるオリガに、ミハイルはぶっきらぼうに言った。


「あんたのパンだ。一番よく焼けたのを、とっておいた」

「そう、だったのか」


 オリガは棚にパンを取りに行って両手で掴んだ。

 十字の切込みが入った丸いパンは、ふっくらしていて、美味しそうな焼き目が付いている。

 オリガはまじまじと、パンを眺めていた。


「あ、あんまり、じろじろ見るなよ」

「ああ、すまない。ふっくらと焼けていて、美味しそうなパンだと思って」


 ここで、ミハイルはふと気付く。


「そーいや、朝から何も食ってねえ」

「私もだ」


 今になって、空腹を自覚する二人。


「ミーシャ、料理をする前に、このパンを二人で食べないか?」


 先ほどから、オリガはミハイルを「ミーシャ」と呼ぶようになった。

 そのたびに照れているのだが、顔を逸らし、なんとか誤魔化そうとしている。


「い、いや、それはあんたが食えよ」


 そんなやせ我慢を口にしたものの、オリガはパンを二つに割って差し出してきた。


「せっかくの記念すべきパンだ。一緒に味わおう」


 そう言われたら、受け取らないわけにもいかない。

 ミハイルとオリガは、森の神に祈りを捧げたあと、パンを齧る。

 ジャムも何もかけていないパンであったが――。


「美味い。世界一のパンだ」


 オリガは絶賛する。

 ミハイルも、自分で作ったパンだったが、いつもより美味しく感じた。


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