おかえりなさいと、ただいま
ラゥ・ハオは自由市に連れてきていた部下の馬を二頭、オリガとミハイルに譲った。
三人のうち、二人の部下達は黒星の村に待機させ、後日迎えに行くようだ。
帰りは、オリガは犬ゾリに乗り、ミハイルはラゥ・ハオの部下と共に馬に跨る。
「よろしく」
「はい、よろしくお願いいたします」
同乗するのは同じ年頃の少年。
丁寧な態度で頭を下げてくれる。
残った一頭は、ラゥ・ハオが引いて連れて行くことになった。
初めての乗馬に、ミハイルは緊張の面持ちでいる。
都で馬を所有していたのは富裕層のみで、下町の者は驢馬を飼育していた。かつて勤めていたパン屋でも同様に。
荷車を引いてくれる驢馬は、小麦粉の買い出しやパンの配達をする上で、なくてはならない存在だった。
そんな慣れ親しんだ驢馬と違い、馬は大きい。間近で見上げ、ただただ圧倒された。
太陽の光に照らされて輝く鬣に、美しい毛並み。腿から背中にかけてのしなやかな筋肉。
これが、自分のものになると言われ、ドキドキと胸が高鳴った。
きちんと世話ができるだろうか。そんな不安もあるが、それ以上に、初めてミハイルに与えられた馬に、期待で胸が膨らむ。
しかし、馬を貰うまでの経緯はなんとも情けない。
何事もなかったかのように話しかけてくるラゥ・ハオには、冷たい態度でいた。
「ミハイル、私と一緒デモ、イイノニ」
「他人に薬盛る奴と同乗なんかしたくねえ」
ジロリと睨みつけるミハイルに、「哈哈哈!」と笑うラゥ・ハオ。
そんな二人に、オリガは声をかける。
「日が暮れる前に帰る。お喋りはあとだ」
「リョーカイ!」
「わかった」
オリガの犬ゾリが先行し、馬があとに続く。
◇◇◇
やっとのことで帰宅を果たした。
辺りはすっかり暗くなっている。
オリガの家の塀が見えたところで、馬から降りた。
ミハイルにとって初めての馬に乗った状態での長距離移動は、疲労感を伴うものであった。
満身創痍状態で葦毛の馬を見上げ、ぽつりと呟く。
「馬なんか、俺に操れるのか……?」
「大丈夫ですよ。練習したら、慣れます」
ラゥ・ハオの部下が励ましてくれる。
馬の目はくりっとしていて、可愛らしい。睫毛が長く、美人だった。
「これ、お前の馬じゃないのか?」
「いいえ。取引に使うかもしれないと、連れていた馬です」
「そうか」
この馬は交易をするために特別な環境の中で育てられた馬で、荷運び用や乗馬用よりも毛並みや姿形が美しくなるよう、手間暇かけて育てた馬だということが発覚した。
「こうやって、美しい馬が生まれたら、取引用にと育てるのですが、長が今まで馬を交易の材料として使ったことは一度もありません。馬は我々にとって、何物にも代えがたい宝ですから」
「なるほど」
ラゥ・ハオより贈られた馬は、今回の件に関して最大の謝罪の形だったのだ。
「今回の件は、謝っても謝りきれないことでもあるのですが」
「……」
ミハイルは首を横に振り、頭の隅に追いやった。
部下の少年は、消え入りそうな声で謝罪する。
「もういい。これ以上言うな。まずは、家に戻って――はあ?」
喋りながら塀の前まで辿り着いたミハイルは、ぎょっとする。
出入り口の扉が、無残な形で破壊されていたのだ。
まるで蹴破ったかのように地面に倒されており、しかも、中心部からパックリと割れていた。
「な、なんだこれは、賊か!?」
ミハイルは表情を青くして、先に中に入ろうとしていたオリガを慌てて制する。
「おい、危険だ。相手の動向がわからない。まだ、中に入らねえほうが」
「扉を壊したのは私だ」
「え?」
「家の敷地内に違和感を覚えて、突入したのだ」
「あ、そ、そう」
ミハイルはオリガと見つめ合い、しばし、気まずい時間を過ごす。
ヒュウと、北風が吹いた。
身も凍りつくような、冷たい風である。
「ここは寒い。中に入ろう」
「お、おう」
ラゥ・ハオとその部下も中へと招き入れる。
馬は家の裏手に連れて行った。
昔、オリガの父親が馬を飼育していたので、三頭ほど入る立派な厩がある。そこへ藁を敷いて、馬を招き入れた。水と餌も与える。
ミハイルは犬に餌を与えた。長距離を頑張って走ってくれた犬の頭を撫でる。
オリガが扉の修繕をしようとしたが、ラゥ・ハオと部下が代わって作業すると申し出た。
彼らは移動式の天幕を作って暮らしており、たった一時間ほどで住居を組み立てる。
手先が器用で、壊した扉の修繕なども得意としていた。
「ミハイル、ここは彼らに任せよう」
「わかった」
とりあえず帰宅となる。
玄関に入ると、内部はいつもより寒かった。ペチカの火が消えかけているのだろう。
一歩足を踏み入れると、木の匂いを感じる。それから臭い取りの役目のある、壁に張り付けてある薬草の束の香りと、僅かな木蝋の匂いも。
ここで暮らして、半月ほど。
なのに、やっと家に帰って来られたと、ホッと息を吐いた。
オリガは玄関の角灯に火を灯す。
ぼんやりと光り、廊下を照らした。
オリガは立ち止まったままぼんやりしているミハイルを振り返り、心配そうな表情で声をかけた。
「ミハイル、どうした?」
「いや、なんだろう、これ……?」
帰って来ただけなのに、じわりと心が温かくなる。
かつて、暮らしていた家では、こんなことなど一度もなかった。
帰宅して一番に思うのは、がむしゃらに働いて、やっと一日が終わったという疲労感。
家で待っているのは、冷たい部屋と母親の脱ぎ散らかした洗濯物、灰が積み上がった冷たい暖炉。
迎えてくれる人も、帰りを待つ人もいなければ、心安らぐものなんて、何一つもない。
今までは家に帰っても、何もなかった。
それが普通だった。
なのに、オリガの家は違った。
「なんか、俺、家に帰ってきて初めて、よかったっていうか、ホッとしたというか……。これ、なんなんだろう。わかんねえ……」
家に帰って来て気持ちが落ち着くなんて、知らない感情だった。
気持ちの整理が付かずに、ソワソワしてしまう。
嫌な感情ではない。むしろ、良い感情だ。
けれど、今まで感じたことのないものだったので、疑問に思う。
そんな混乱状態であるミハイルに、オリガは言った。
「おかえりなさい、ミーシャ」
オリガの言葉に、微笑む美しい表情に、ミハイルはハッと息を呑む。
生まれて初めての、おかえりなさいの言葉だった。
さまざまな感情が入り乱れ、瞼が熱くなって、パチパチと目を瞬かせた。
頬からじんわりと温かくなり、しだいに顔全体が熱くなる。
胸が早鐘を打って、落ち着かない気持ちになった。
けれど、そんな不可解な気持ちはさておいて、ミハイルはオリガの「おかえりなさい」に、言葉を返す。
「……ただいま」
そう言ったら、オリガは笑みを深めた。
こうして、ミハイルは帰宅を果たす。
まずペチカに薪を入れて部屋を暖かくし、二人で家の灯りを点けて回ることから始めた。
◇◇◇
客人を迎えるとのことで、料理を作ることになった。
「パンは奴――ラゥ・ハオに全部食われた。絶対に許さねぇ」
ラゥ・ハオの知り合いであるオリガは、申し訳なさそうに顔を背ける。
しかし、その先で何かを発見したようだった。
「そういえば、そこにあるパンは?」
オリガは棚の中の丸いパンを指差す。
「あ、あれは――」
「?」
首を傾げるオリガに、ミハイルはぶっきらぼうに言った。
「あんたのパンだ。一番よく焼けたのを、とっておいた」
「そう、だったのか」
オリガは棚にパンを取りに行って両手で掴んだ。
十字の切込みが入った丸いパンは、ふっくらしていて、美味しそうな焼き目が付いている。
オリガはまじまじと、パンを眺めていた。
「あ、あんまり、じろじろ見るなよ」
「ああ、すまない。ふっくらと焼けていて、美味しそうなパンだと思って」
ここで、ミハイルはふと気付く。
「そーいや、朝から何も食ってねえ」
「私もだ」
今になって、空腹を自覚する二人。
「ミーシャ、料理をする前に、このパンを二人で食べないか?」
先ほどから、オリガはミハイルを「ミーシャ」と呼ぶようになった。
そのたびに照れているのだが、顔を逸らし、なんとか誤魔化そうとしている。
「い、いや、それはあんたが食えよ」
そんなやせ我慢を口にしたものの、オリガはパンを二つに割って差し出してきた。
「せっかくの記念すべきパンだ。一緒に味わおう」
そう言われたら、受け取らないわけにもいかない。
ミハイルとオリガは、森の神に祈りを捧げたあと、パンを齧る。
ジャムも何もかけていないパンであったが――。
「美味い。世界一のパンだ」
オリガは絶賛する。
ミハイルも、自分で作ったパンだったが、いつもより美味しく感じた。




