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タイガの森の狩り暮らし〜契約夫婦と東欧ごはん〜  作者: 江本マシメサ


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もてなしの心

 昼食後、オリガはシカの解体をすると言う。


「あんた、また血塗れになるつもりか?」

「いや、血抜きはしてあるから、返り血は浴びないだろう」

「そんなもんなのか?」

「ああ」


 そのまま、オリガの後ろ姿を見送るはずだった。

 けれど――。


「お、おい」

「ん?」


 振り返ったオリガに、ミハイルはなけなしの勇気を出して言った。

 シカの解体を、見せてほしいと。


 動物の解体なんて、絶対見たくないと思っていた。今も、できるならば、「やっぱり止める」と言いたい気持ちが大半である。

 ならばなぜ、申し出たのかといえば、オリガの仕事が知りたかったからだ。

 それに、血塗れになった姿を見て、女性一人に背負わせていい仕事なのかと、疑問に思ったこともある。

 理由は単純に、それだけ。

 加えて、暗い表情で帰って来たオリガの様子も気になっていた。

 食事を食べたあとは、いつもの彼女に戻っていたが。


「見ていて面白いものでもないが」

「好奇心で言ったわけじゃねえよ」

「ではなぜ?」

「……」


 それは、一言で説明できない。いろいろと複雑な思いが絡んでいた。


「理由なんてどうでもいいだろ。いいから見せろ」

「わかった」


 庭に出て、解体小屋の前で横たわらせているシカのもとに行く。

 大きいので、中に運ぶことはできない。オリガはこのままここで解体すると言う。

 武器庫より、数本のナイフを持って来る。

 皮剥ぎ用、骨スキ用と、用途によって異なる刃を使うとオリガはミハイルに教えた。


「では、始める」

「お、おう」


 まず、シカの毛皮に雪を被せ、擦りこむようにして洗う。


「ここのシカは水浴びしないので、かなり汚い」

「なるほど」


 時間をかけて、丁寧に洗っていく。

 それが終わったら、解体作業となる。


 オリガは皮剥ぎ用のナイフを鞘から抜いた。シャキンと、金属の音が鳴った。

 それだけで、ミハイルは全身に鳥肌が立つ。

 目を背けたかったが、ここまで来ておいてそれも情けないことだ。

 歯を食いしばって、オリガの手元を見続ける。

 仰向けにして、腹から刃を入れた。

 脂肪はなるべく皮と一緒に剥がないように、毛皮を破いてしまわないように、慎重に剥いでいく。

 血が噴き出るかと思っていたが、そんなことはなかった。

 脂肪に覆われた肉が、どんどんと露わになっていく。

 腹回りの皮を剥いだら、身に刃を入れる。

 切れ味がいいのか、肉がやわらかいからか、すっと身に刃が沈んでいく。

 オリガはナイフを変える。

 のこぎりのような刃で骨を断って、内臓を取り出した。

 部位ごとにどんどん切りわけていく。雪の上に、肉塊が並べられていった。

 肋骨にも刃を入れ、力を入れて開く。

 骨を外し、身を切りわけた。最後に、皮一枚が綺麗に残る。


 オリガの額には、玉のような汗が滲んでいた。

 それだけ、大変な作業なのだ。

 背後で見ていたミハイルも、ひと時も目を離してはいけないと、拳を握りながら見守っていた。


「――とまあ、こんな感じだ」

「……ああ」


 肉は革袋に雪と共に入れて地下の氷室に保存。肉は数日置いて、熟成させると美味しくなる。


 オリガは爪の中まで真っ赤になった手を見下ろしながら、憂鬱そうな表情を浮かべる。


「結局、血の臭いが染み付いてしまった」

「もう一回、風呂に入れよ」

「そうだな」


 一度、体を綺麗に清めたあと、ひと休みする。


 午前中に焼いていた、シャルロットカを囲んでのお茶の時間となる。


「これは――すごい」

「そこまで手の込んだお菓子でもねえからな」


 丸めたケーキなど初めてだと、見た目だけで驚かれる。

 期待をされても困るので、大したものではないと言っておく。

 オリガは二本爪のフォークをケーキに滑らせる。

 一口大にわけて、パクリと食べた。


「――っ!」


 いつもは温度のないアイスブルーの目が、キラリと輝く。

 右手にフォークを握ったまま、左手を頬に当てていた。


「どうだったかって、聞くまでもないか」


 オリガはコクコクと頷く。

 それから美味しそうにケーキを食べ進め、あっと言う間に完食した。


「これはなんというお菓子なんだ?」

「シャルロットカ。異国の王女様の大好物で、名前を冠して名付けられたらしい。異国風に言ったら、シャルロッテ」

「シャルロッテ、か」


 今まで緩みきっていた顔が、急に真面目なものになる。


「どうかしたのか?」

「いや、父の遺品に、シャルロッテへと書いた手紙があったなと……」


 それは差出人の書いていない、未開封の手紙だった。

 勝手に触ってはいけないと、そのままにしているらしい。

 シャルロッテとは誰なのか。

 長年忘れていたが、ケーキの謂れを聞いて思い出したのだと語る。


「あんたの母親の名前、ではないんだよな」

「母……ああ、そう、かもしれない」

「まさか、母親の名を知らないのか?」


 ミハイルの言葉に、オリガは頷く。


「な、なんで知らないんだ!?」

「物心付いた頃から父と二人だった。それが当たり前だったから」

「いや、普通親の名前なんだから――」


 言いかけてミハイルはハッとなる。


「どうした?」

「いや、そういや俺も、父親の名前を最近まで知らなかったし、気にしたこともなかった」

「そうだろう?」


 母親がいなかったオリガと、父親がいなかったミハイル。

 互いに、同性の親がいない生活が当たり前で、今の今まで名前すら気にしたことがなかったことが発覚した。


 父親に育てられて男勝りの仕事をするオリガと、家事ができない母親の代わりに家事をせざるを得なかったミハイル。


「なんつーか、妙な巡りあわせだな」

「本当に」


 オリガはポツリと呟く。

 そして、こんな風にゆっくりとお茶を楽しむ時がくるとは思わなかったとも。


「私はずっと、生活に追われていたんだ」


 早起きをして家畜や犬の世話をして、家にある簡単な物で朝食を済ませ、狩猟に出かける。

 昼、もしくは夕方に帰宅をして、元気があればパンを焼き、腹を膨らませるだけの食事を作って食べる。


「重たい体を引きずって、風呂に入り、布団に倒れ込むようにして眠る。だいたい、そんな感じだった」

「なんだよ。俺達、似たような生活をしていたのか」


 ミハイルもオリガと同じだった。

 日々、忙しく過ごし、のんびりする暇などない。

 慌ただしく暮らしていた。


 ゆっくり座って、お菓子を楽しむことなどあまりなかったように思える。

 今日、初めて知った。午後、お菓子を食べながら、ゆっくりとお茶を飲むひと時を。

 なにものにも代えがたい、穏やかで心休まる時間だった。


 しばらく、静かな時間を過ごす。

 オリガに二切れ目のシャルロットカを渡していると、ミハイルは大変なことを忘れていたことに気付いた。


「あ!!」

「どうした?」

「あいつ、ロージャにお菓子のことがバレたんだよ」

「それは……」


 一応、口止めしていることは伝えておく。


「気を付けていたつもりだったけれど、つい、忘れていて……。すまん」

「いや、まあ――大丈夫だろう。ロジオンはきっと、約束を守る子だ」

「でも、気を付けないと、この村の立場もあるのに……」


 ミハイルは結婚の祝いを持って来たロジオンをもてなしたのだ。その心は素晴らしいものだと、オリガは評する。


 そう言っても、ミハイルの表情は晴れない。

 オリガは強く拳を握ったミハイルの手に、指先を重ねた。


「この村では『フレープ・ソーリ』と言って、丸いパンと塩を出して客を歓迎する習慣がある。覚えておいてほしい」

「パンと、塩……?」

「そうだ」


 手巾にパンと塩を出すことは、客に対して最大の敬意を示す意味がある。


「パンと塩は、農耕と採取を象徴する、タイガの森暮らしの中での最大の贅沢とされているのだ」


 それは針葉樹林タイガの森で暮らす人々の、共栄共存の形だった。


「長年、この家に客が来ることもなく、こういうことがあったのを、すっかり忘れていた」


 すまなかったと、オリガは頭を下げた。

 ミハイルはとんでもないと首を横に振る。


「いや、なんつーか、びっくりした。すごいな。そういう、もてなしの心は」


 婚礼の際にも、大きな丸パンを用意する。

 結婚式の当日に参列者に配り、幸せを皆と分かち合うのだ。


「パンにそんな想いが込められているなんてな」

「ああ。だから、パンを焼くことは、神聖な仕事と言われている」


 なので、パンを焼けるミハイルはすごいと、オリガは微笑みながら言った。


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