ミハイルの食卓
ロジオンが帰ったあと、オリガが帰宅する。
ミハイルは玄関まで迎えに行った。
「……ただいま帰った」
「おう、お帰り――は!?」
オリガは、全身血塗れだったのだ。
サッと、ミハイルは血の気が引いていく。
「あ、あんた、どうしたんだ? その血は」
「すべて返り血だ。気にするな。怪我はしていない」
「そ、そうかよ」
シカとユキヒョウを狩ったと報告する。
大猟であるはずなのに、オリガの表情は暗い。
眉間に皺を寄せ、口元はきゅっと結び、体も強張っている――ように見えた。
森で何かあったのか。気になるが、とても訊けるような雰囲気ではない。
「――あ、風呂にするか?」
「……」
「それとも、食事?」
「その前に、ユキヒョウの、毛皮を剥がなければ」
「だったら、その間に風呂を沸かしておく」
オリガはミハイルに礼を言うと、再度外へ出て行った。
◇◇◇
帽子を被り、外套を着込んだミハイルは、風呂を準備するために家の外に出る。
庭に刺さっていた柄の長いスコップを手に取り、風呂のある小屋へと向かう。
ふと、解体小屋のほうをちらりと見る。
そこでは、オリガがユキヒョウの皮を剥いでいるのだ。
動物の解体など、手伝おうとは思わない。今まで解体後の肉しか見たことがないのだ。
ふかふかの毛皮に刃を入れて、肉を裂くなど、考えただけでゾッとする。
手を貸したい気持ちはあったが、ぶんぶんと首を振った。
無理なものは無理。
命じられない限り、首を突っ込むのは止めようと心に決める。
風呂場の窓を開け、浴槽に雪を入れる作業に取りかかる。
「――うっ、なんだ、これ!」
ミハイルは思わず叫んでしまう。
掬い上げようとした雪が、信じられないほど固かったのだ。
雪というより、氷である。
オリガはサクサクと雪を浴槽に入れていたが、ミハイルは上手くいかない。
スコップを足で踏み、雪の中へと沈ませる。
ザクっと、音が鳴った。
ふわふわとやわらかいのは、表面にうっすらと降り積もっているものだけである。
これが、針葉樹林の森の雪であった。
苦労の末、浴槽に雪を入れると、今度はかまどに火を点ける。
薪を入れて、マッチで火を点けようとしたが、これも上手く掬えない。
雪で薪が湿り、なかなか着火しないのだ。
「クソ、なんだ、これは!」
数分の間、奮闘していたが、無駄だと諦めた。
ミハイルは庭の中で乾燥している物を探す。
家畜小屋を覗くと、牛と目が合った。
オリガの家の、ペチカの裏にある家畜小屋は暖かい。
寒さをほとんど感じさせることなく、飼育されているようだった。
その牛の足元に敷かれていた藁を、少しだけいただいた。
風呂場のかまどに戻り、藁の上に薪を置いて、火を点けた。
今度は上手くいった。
かまどの火で、雪がじわじわ溶けていく様子を見守る。
ちょうどいい温度になったところで、かまどの中の薪を抜き、火力を弱くした。
ここで、オリガが解体小屋から出てくる。
「おい、風呂の準備、できている」
「ああ、ありがとう」
オリガは毛皮の外套を脱いで地面に置き、周囲のサラサラの雪を集めて毛皮にかけていく。
それを、揉んでいくと血の色に染まった。
オリガは丁寧に毛皮に付着した血を雪ごと払うと、毛皮の外套を洗濯物干しにかける。
その様子を、ミハイルはただただ見ているばかり。
若い女性が、血塗れになって狩りを行い、生計を立てる。
なんて厳しい環境なのかと、切ない気持ちになった。
何か手を貸したいと思うが、都会育ちのミハイルにできることは、多くなかった。
その後、オリガは風呂場がある小屋へと入って行った。
かまどの前にしゃがみ込み、火の番をしているミハイルは、浴室より湯をザバリと被る音が聞こえたので、質問してみる。
「おい、湯加減はどうだ?」
返事がないので立ち上がる。
「おい」
すると、ガラリと窓が開いた。オリガが顔を覗かせたので、ミハイルは過剰なまでに驚く。
「うっわ!」
危うく、胸元が見えそうになった。
慌ててのけ反ったので、足元を滑らせてその場に転倒してしまった。
「痛ってえ!!」
「ミハイル・イヴァーノヴィチ、何をしている?」
「な、何って、湯加減はどうか聞いているんだよ!」
「ちょうどいい」
「そうか、よかったな!」
湯に濡れたオリガは色っぽい。体に張り付く水滴は、肌の白さときめ細やかさを際立たせていた。頬は火照っているのか、ほんのり薄紅色に染まっている。
ミハイルは見てはいけないものを見てしまった気がしたので、サッと視線を逸らす。
「風呂、ありがとう」
「どういたしまして」
扉を閉められたあとも、ミハイルはかまど番を続けた。
湯を掬い、流れる音が、落ち着かない気分にさせてくれる。
歯を食いしばった状態で、ミハイルはかまどの前で待機していた。
オリガが風呂から上がると、昼食の時間となった。
食卓には、ロジオンからもらったパンがどっかりと鎮座している。
「これは、どうしたんだ?」
「仕立て屋から貰ったんだ。結婚祝いだと」
「そうだったのか。奥方が持って来たのか?」
「いや、ロージャが」
「ロジオンか……」
村にはロジオンと同じ年頃の子どもはいないので、よかったら仲良くしてほしいと言われた。
「同じ年頃の、子どもね」
「お前もロジオンと同じ、十七だろう」
「そうだけど」
やはり、オリガはミハイルを子ども扱いしている。
なんとなく、面白くない。
「どうかしたのか?」
「なんでも」
オリガは首を傾げながら、ナイフでパンを切りわける。
ミハエルの皿に、白と黒のパンを二枚重ねて置いた。
スープも温まったようなので、手袋を嵌めてテーブルまで運んでくる。
深皿に装い、ミハイルの前に差し出した。
「このスープは、ジャルコーエか」
「そうだよ」
「好物だ」
「よかったな」
オリガが熱を出すと、村の薬師の妻が作って持って来てくれたのだと語る。
「そういえば、薬師のじいさん、だっけ?」
「ああ。オレーク・エゴロヴィチ・ウヴァーロフという」
「ウヴァーロフ、ねえ」
どこかで聞いた名前のような気がして、ミハイルは名を繰り返す。
しかし、思い出せなかった。
「老師がどうかしたのか?」
「いや、なんか、世話になったみたいだから、礼でもと」
傷や打ち身は全快とは言わないが、だいぶマシになっていた。
薬湯や、傷薬が効いたのだ。
「そうか。だったら、今日か明日、訪問しよう」
「それだったら、なんか手土産でも」
簡単な焼き菓子だったら作れる。
どうかと提案してみた。
「老師はジャムのクッキーが大好物だ」
「だったら、それを作ろう。奥さんの好みは?」
「奥方は、亡くなってしまったのだ」
「あ、そうだったのか」
老齢の薬師の妻は、十二年前に亡くなっていた。
なので、ジャルコーエを食べるのは久しぶりなのだ。
オリガは湯気があがるスープを、切なげに見つめている。
「冷めないうちに、食べよう」
「ああ、そうだな」
手と手を合わせて、森の神に感謝する。
祈りを終えたあと、オリガとミハイルは食事を始めた。
ミハイルは白星の村のパンを食べる。
まずは黒いライ麦パンから。
しっかりとした食感に、香り高い風味。ほどよい酸味があって、噛めば噛むほど美味しくなる。
「これが、食べたかったんだ!」
どっしりみっちりのライ麦パンは、香辛料でしっかり味付けした濃い味のスープとの相性も抜群。
夢中になって食べる。
ふと、視線を感じて顔を上げると、オリガと目が合った。
彼女はパンを握ったまま、ミハイルを見ていたようだった。
「な、なんだよ」
「いや、気持ちいいくらいの、食べっぷりだと思って」
「いいだろう? 午前中は働いて、腹が減っていたんだ」
「そうだな」
「あんたも食え。パン、美味いから」
オリガはスープを掬い、口にする。
わずかに口元が綻んだ。
聞かなくても、味はどうだったかわかる表情であった。
「……老師の奥方の、スープの味に似ている」
「そうか」
「ありがとう。とても、美味しい」
そういえばと思い出す。母親に料理を作って、美味しいと言われたことがあったか? と。
朝は眠たいと言いながら食べ、夜は男と会わなければならないからと、ミハイルの作った夕食を食べない日もあった。
記憶を甦らせて、腹を立てる。
しかし、オリガは違った。
ミハイルの料理をじっくり味わい、美味しいと言ってくれる。
その中で食べる食事は、なんと心地よいものか。
「どうかしたのか?」
そう聞かれ、ミハイルはなんでもないと言い、首を横に振る。
スープを匙で掬って食べた。
いつもより美味しいと感じたのは、気のせいではないだろう。




