タイガの森の小熊ちゃん
※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ございません。
作中の用語、歴史、文化、習慣などは創作物としてお楽しみ下さい。
――殺せ、見つけ次第、殺すのだ!!
男の怒号が森の中で響き渡る。
目の前は凄然たる雪景色が広がっていた。
吹く風は刃。積もる雪は体を極限まで冷やし、命を削る塊となる。
樹氷の並木道は美しいが、そんなことなど気に留めている場合ではなかった。
やせ細った青年とも少年とも言えない男は、白い息を吐きながら、凍った道をすべらないよう注意して走って行く。
――どうしてこんなことに!?
じわりと、瞼の上が熱くなる。
下町で母親と暮らし、パン屋の見習いをしながら、静かに暮らしていた。
将来、自分の店を持つのが夢だった。
なのに、その夢は突然壊れてしまった。
――ミーシャ、あなたの黒い髪は、とっても綺麗
母親の口癖だった言葉が、本当は自分ではなく、他人を想って口にしていたことなど、知りたくなかった。
突然駆け落ちし母親は、とんでもない置き土産をしてくれる。
あの売春婦、畜生、豚め、雌犬と、思いつく限りの罵詈雑言を吐き捨てる。
しかし、相手には届かない。
海を渡り、安全な異国の地へと逃げて行ったから。
追って来る男達の声は、だんだんと近付いて来る。
男は選択を迫られていた。
このまままっすぐ進むか、急斜面を下るか。
下手したら死ぬ。
しかし、このまま走っていても、追いつかれて殺されてしまうのだ。
男は――腹を括って斜面に飛び込んだ。
◇◇◇
針のようにそびえる樹木、針葉樹林の深い森を、三頭立ての犬ゾリに乗った妙齢の女性が駆け抜ける。
そこは、地平線も見えぬような直線の道。
氷点下の中、空気を大きく吸い込むと咳き込んで胸が苦しくなる。
そんな状況の中を、女性――オリガはソリに乗って風のように通り過ぎていった。
白い雪に反射してキラリと輝き、風になびくのは、一本の三つ編みにした美しい金色の髪。
すらりと背が高いオリガは、絶世の美女と言ってもいいだろう。
目じりが切れ込んだ青い瞳に、すっと通った鼻、唇はぽってりと厚く、色っぽい。
温度を感じさせないアイスブルーの目は冷たい印象があった。加えて迫力のある美貌は近寄りがたい雰囲気である。
装いは全身黒。
頭からすっぽりと覆うのは『ウシャンカ』という、耳当ての付いた黒毛皮の帽子。それと同じ素材の、黒毛皮の外套を纏っていた。
外套の胸辺りにある青と白のライン模様は、出身の村を表す物である。
この辺にある五つの村の一つ、『青星の村』の証だ。
オリガは青星の村の狩人なのだ。
そんな彼女が追っているのはクロテン。毛皮は触り心地は極上。加えて保温性が高く、さまざまな性能にも優れているので、貴族に絶大な支持を得ている。
特に、黒褐色の艶やかな光沢を帯びた毛皮は『やわらかな黄金』と呼ばれ、高値で取引されるのだ。
あのクロテンを一匹仕留めただけで、しばらく裕福な暮らしができる。
逃すわけにはいかなかった。
ソリと体をベルトで繋ぎ、立ち乗り状態で獲物を狙う。
背負っていた空気銃をくるりと前に持ってきて、銃を構える。チャンスは一度きり。
銃の安全装置を外し、撃鉄を指先で弾いて撃発可能状態にしておいた。
距離が縮まってきたので、そろそろ撃とうかと思っていたが――急に犬達が走る速度を落としていく。
「こら、何をしているんだ、走れ!!」
いつもは忠実に命令を聞くそり犬であったが、どうにも様子がおかしい。
ついには、立ち止まってしまう。
その間に、クロテンは遠くへと行ってしまった。
「いったい、どうしたっていうんだ……?」
そう呟き、ソリから降りる。
犬達は申し訳なさそうに、きゅうと鳴いていた。
雪で霞む景色に目を凝らすと、少し先に雪がこんもりと盛り上がっているところがあった。障害があったので、ソリ犬は止まったのだと気付く。
ここは何度も行き来している道で、あのような障害は数日前までなかった。
なので、雪が盛り上がった下に、何かがいるということになる。
オリガは犬にその場で待っておくように命じ、銃口を向けたまま近付いてく。
まず、遠くから石を投げてみた。反応はなし。もう一度、今度は一回り大きな石を投げてみた。こちらも、反応はない。
さらに接近して、銃口で突いてみる。
差し込んですぐに、何かに当たった。ちらりと、黒い毛が見える。この大きさから推測するに、子グマか。
小グマの毛皮はやわらかく、暖かい。毛布にするにはうってつけだった。
そろそろ新しい物をこさえるのもいい。オリガはそんなことを考えながら、銃で雪を払っていく。
すると、想定外の存在が出てきた。
常にクールなオリガであったが、目を剥くことになる。
雪の中に埋もれていたのは、黒髪の少年であった。
年頃は十六から十七くらいか。
白い頬は赤く染まり、まだ血が通っているように見える。
オリガはしゃがみ込み、手首から脈拍を読み取る。
すると、トクン、トクンと、わずかに鼓動を感じた。まだ、生きているのだ。
生存確認を終えると、すぐさま少年を抱えてソリの荷物置きに乗せる。
普段、生後数ヶ月の小グマくらいならば、軽々と担げるオリガにとって、十代の少年を持ち上げることが容易かったのだ。
犬ソリを逆方向へと変え、走るように指示を出す。
犬達は全力疾走で、村のある方向にまで駆けて行った。
◇◇◇
少年はすぐさま、薬師のもとへと運ばれる。
幸い、切り傷程度で、凍傷などしていなかった。
薬師曰く、落ちてすぐに発見したのだろうと。
被さっていた雪は、降り積もった物ではなく、斜面から落ちてきた物だったのだ。
パチンと、暖炉の火がはぜる。
毛皮の絨毯の上布団が敷かれ、そこに少年は横たわっていた。
老齢の薬師の顔は冴えない。白く染まった眉を、極限まで下げていた。
少年の衣服を指差し、困ったように言う。
「この者は、五ツ村の者ではありませんね」
「だろうな」
オリガはぶっきらぼうに返す。
この針葉樹林に囲まれた森の周辺には、五芒星を描くように五つの村があるのだ。
村人達は、どの村に所属しているかわかるよう、毛皮に家紋のような印を入れている。
しかし、今しがたオリガが拾った少年は、どこの村の所属でもなかった。
「この身なりからすると――」
オリガと薬師は、少年の衣服に再度視線を落とす。
白いシャツに、パリッと糊の利いたズボン。外套は高級品である山羊製。
すぐに、少年が貴族であるとわかる。
加えて、顔立ちも整っていた。
すらりと伸びた手足に、サラサラの黒髪。瞼を縁取る睫毛は長く、鼻筋もすっと通っていた。
閉ざされた唇は薄く、肌はきめ細やか。
十代の少年特有の、危うさが混じった美しさがあるのだ。
「おおよそは、流刑の身となった貴族の子息でしょう」
「そうとしか思えん」
反乱を起こした貴族を収容する施設が、森を出た先にある平原に建てられていた。
ここ数ヶ月は運ばれる人数も増えて、行き来する軍人も多くなっている。
都の治安が悪くなっていると、商人達は口々にしていたのだ。
「オーリ、せっかく助けた命ですが――」
オーリはオリガの親しい者だけが呼ぶ名だ。今は、目の前にいる子どもの時から付き合いのある薬師以外誰も呼ばないが。
オリガは自らの口元に人差し指を当てる。
「オーリ?」
「内密に」
「どうするつもりですか?」
「この男は、私の夫にする」
「そ、それは……!?」
オリガ・アンドレーエヴナ・グラトコヴァ。御年二十五歳。独身。
この周辺の村で結婚適齢期は、十四から十六である。よって、彼女は盛大に嫁き遅れていた。
その理由は、オリガの特別な生い立ちが原因であった。
村一番の狩の名手である父のもとで、男手一つで育ち、彼女は立派な狩人となった。
成人を迎えようとしていたある日、悲劇が起こる。唯一の家族であった父親が他界したのだ。
通常、結婚相手を決めるのは父親の役目。当時、十五歳だったオリガは、天涯孤独の身となり、結婚は難しくなってしまったのだ。
だが、残念なことに、嫁き遅れた理由はそれだけではない。
彼女はクマ猟を得意としており、森でクマを襲う唯一の存在であるトラに例えて、『猛虎』とも呼ばれていた。
絹のような金の髪も、トラの冬毛を思わせる美しいものなのだ。
そんな勇ましいオリガであったが、村の男達は畏怖している。好んで話しかける者は、女子どもくらい。
村の女性は主に、内助の功に務めることを常とする。男並みに狩猟をするオリガに、嫁の貰い手などなかったのだ。
しかし、数年前より状況が変わった。
トナカイの遊牧をしている種族の長に、求婚されたのだ。
もちろん、狩猟の腕を買っていたのだが、オリガは村を離れるつもりはないので即座に断る。
「彼、確か、諦めなかったんですよね?」
オリガは忌々しげに頷く。
その男は毎年のようにやって来て、オリガに求婚し続けた。
去年来た際、翌年に結婚していなければ、攫ってでも娶ると宣言されたのだ。
いい加減、うんざりだったオリガは、虫除けにこの少年を利用すると言った。
「これは取引だ。私は男を保護する。男は夫を演じてもらう。契約結婚だ」
「しかし、貴族が私達に従うでしょうか?」
「賭けだな。しかし、彼は従うだろう」
オリガは少年の手先を掬い上げ、確信するかのように言った。
「どこの者と説明するのですか?」
「他の遊牧民出身にすればいい。彼らは、星の数ほど存在する」
「……」
老齢の薬師は、「困った人だ」と呟く。
一方のオリガは、良い小グマを拾ったと、笑みを深めていた。