□ 第5話
その日、昼間の特訓で床に大の字になってへばっているところに、カンリカは現れた。
「やあ、久しぶりだね。てっ、何やってるのつむぐくん」
カンリカはどうやって家の場所を突き止めたのか、当然のような顔でつむぐの家へと押し掛けると、呼鈴もなしに堂々となかへと入ってきた。
「カンリカ、どうやってここに来たんだ」
「んっ、歩いて?」
つむぐは思わぬ来訪者に驚くと、床から起き上がった。
「馬鹿が来たぞ」
コルトは椅子の背もたれに呑気に腰かけたまま、カンリカのことはたいして気にしていない様子で、口を開いた。
「コルトは痛烈だね。まあ、いいけど。それはそうと、君達のことが噂になってるよ」
カンリカは仁王たちをしたまま、二人へと顔を向けた。
「えっと、僕らが噂になってるって、何が」
「ああ、つむぐくんさ。ちょっと前に何かしなかった」
つむぐは「ああ」と言いながら、コルトに視線を配りながら頷いた。
「派手というか、正当防衛だ。向こうからやって来たんだ」
「やっぱりか。なんかそんな感じがしたんだよね」
カンリカは思った通りというような顔をすると、苦笑いを浮かべる。
「そんなに派手だったか。確かに多少の大立ち回りはしたけど、ただ一発撃っただけだぞ」
つむぐは当然のような顔をしながら、それ以外は何もしていないといった顔でカンリカとコルトに同意を求める。
「いや、多分なんだけど。この国だとそれだけでもずいぶんな騒ぎになるんじゃないかな。ほら何て言ったっけ、銃刀法だっけ、拳銃は普通の人には持てないでしょ」
カンリカは困ったような顔をすると、優しく喋った。
コルトは笑いをこらえながら、つむぐに顔を向ける。
「君ももう、魔法使いになったということだ。まあ、確かにただでさえこの町の人間が喧騒としている時に、銃声の一発でも響けば大騒ぎだろうからな」
「まあ、たしかに噂にはなったんだろうけど。かくたる根拠もないし、人だって死んでいないんだから事件にはならなかったろ」
「少し前の君なら言えない台詞だぞ。魔法使いとしては、いい進歩だ」
コルトのその言葉に、つむぐは少し考える素振りをすると苦笑いを返した。
「それよりも、情報が入ったからこうして来たんだけど」
カンリカは思い出したように言葉を挟んだ。
「えっ、何かわかったのか」
「前に話した奴のことで、ちょっとね」
「そいつが、どうかしたのか?」
「いや、どう話したらいいのかな……」
カンリカは声を不意に小さくさせると、その表情を暗くさせる。
つむぐはどうしたのかと、黙ったままカンリカのことを見つめている。
「その、助けてほしいんだ。助けてください、お願いします」
するとカンリカは、二人へと深く頭を下げた。
「おい、いきなりどうしたんだ」
つむぐは急に下げられた頭に戸惑いを見せる。コルトもそれを見てはいたが、とくに口を出すつもりはないのか、黙ったままで成り行きを見守っている。
カンリカは頭を下げたままの姿勢で、話を続けた。
「ごめんね。急にこんなことを言って驚くだろうけど、本当に困ってるんだ、もうどうしたらいいのかわからないんだよ」
「カンリカ、いったい何があったんだ」
つむぐは辛そうに話すカンリカの声に心配した顔をすると、肩に手を置いた。そして下げた頭を上げさせると、その悲しげな瞳を見つめる。
「いなくなっちゃったんだ……」
カンリカは顔を俯かせて呟くと、辛そうに口を結ぶ。
「いなくなった、それってまさか」
つむぐは言葉の意味を考えると、やがて顔を曇らせる。
「友達だったのに、何もしてあげられなかった。良い子だったんだよ、優しくて料理が上手で、泣き虫で、花が大好きで」
カンリカは唇を噛み締めると、肩を震わせた。
「あんな、あんなふうに餌食にされる理由なんてない」
つむぐは目を見開くと、顔付が変わっていく。
「それって、つまり殺されたってことか」
「いや、話からするに、その存在を消されたのだろう」
つむぐの言葉に、続けるようにコルトは口を開くと話を続けた。
「影が死ぬことはない。しかし、その存在が消滅する場合がある」
「存在が消滅って、僕たちは向こう側に送り返すだけなんだろ」
「そうだ、私たちの行為は向こう側に送り返すだけにすぎない。しかし影の者が影を喰らえば、その一方は消滅する。向こう側に、決して戻ることはない」
つむぐはその表情を強張らせると、カンリカへと顔を向けた。
「コルトの言った通りだよ。あの子は、あいつの餌にされたんだ」
カンリカは怒りを露わにすると、その瞳に涙を浮かべる。
「あいつっていうのは、この前僕に話した男で間違いなのか」
カンリカはその言葉に黙って頷く。
「襲われるのは人間だけじゃないってことなのか」
「人間を襲っているのが、そいつと同じ奴ならそうなるだろうな」
コルトは何かを考える仕草をすると、そのまま口を閉じた。
「多分、間違いないよ。私も事件のことについてや、その噂話とかを聞いたりしたけど、あの子が喰われた場所は、同じだったから」
カンリカは悲しげに目を細めると、その瞳を閉じた。
「それで、どうするんだ?」
コルトはカンリカを見つめる視線をつむぐへと移した。
「カンリカとっては、その子は大事な友達だったんだろ」
カンリカはその言葉にしばらく口を閉じたままいると、徐に口を開いた。
「私はずっと前から色々な所を転々としててさ。一つの場所に留まるってことをしないから、知り合いや友達なんてできるわけもなくて。でも、べつに寂しいわけじゃなかったんだけど、何故か今回に限ってはその子とは馬が合っちゃって、友達なんてものをいつの間にか持ってた」
カンリカは優しそうな笑みをふと浮かべる。
「でも、大事だなって思った時には、いなくなっちゃった。助けを求める、その言葉も聞いてあげられなかった」
カンリカの声は震えていた。震えながら、それを必死で我慢しているのが目に見えてわかる。悲しさや絶望が溢れている。それでも頬に涙が一筋流れるのを、つむぐは見逃さなかった。
「わかった。でも、そいつは僕達の探している奴と同じだ」
つむぐはその瞳に強い意志を宿らせる。
「だから、僕に力を貸してくれないか。僕に協力をしてほしい」
つむぐのその言葉にカンリカは一瞬目を見開くと、力強く頷いた。
「ありがとう……」
「気にするな、よろしく頼むよ」
つむぐは遅れてその視線をコルトへと向けると、彼女は口の端を上げて呆れ気味に笑みを浮かべた。
「首を突っ込むのが好きな男だな、君は。それで、何か手がかりはあるのか?」
「ああ、あるよ。手がかり」
カンリカは気持ちを切り替えるように涙を拭うと、右手に何かの切れ端を取り出した。
「これは」
つむぐはカンリカの手にしている切れ端を手に取る。その黒ずんだ切れ端はボロボロで、所々擦り切れており、感触は革のようだが妙に滑らかで気持ちが悪い。
「多分、そいつが着てたコートの切れ端だと思う。あの子が抵抗した時に、千切れたんだ」
「そうか」
つむぐは切れ端を持つに手に自然と力が入る。
「でも、これでどうやってその男を探せばいいんだ」
「君は魔法使いなんでしょ。だったら、きっと何か方法はあるはずだよ」
カンリカは魔法使いであるつむぐへと期待するように、その瞳を向ける。
「ああ、いや」
つむぐはカンリカの視線から目を逸らせると、コルトへと顔を向けた。
「影を探し出す術か。たしかに、その影の一部でもあれば可能だが」
「それだよ、それ」
つむぐは頷くと、カンリカと目を合わせる。
「わかった。とりあず、それは預かっておく。おまえはひとまず帰れ」
コルトは溜息をつくと、つむぐの手から切れ端を奪う。
「何かわかれば、必ず知らせてやる」
そしてカンリカが何かを言う前に、コルトは黙ってカンリカを睨み付けた。
「わかった。よろしくお願いします」
カンリカは静かに深く頭を下げると「じゃあ、ね」と、足早に立ち去った。
やがて、玄関の扉が閉まる音を確認すると、コルトは椅子に疲れた様子で腰かけた。
「まったく、つくづく君は面倒事が好きらしいな」
「ほっとけないだろ。大事な人がいなくなるって気持ちは、僕もわからないわけじゃない」
つむぐはカンリカの心情を、両親を失った自分と重ねているのか、表情を曇らせる。
「まあ、それはそれとして。今の君の力量で探している影を見つけたところで、はたして勝てるかどうか」
「それは、何とかするさ」
「何の根拠にもならん。相手の力は、おそらくは想像以上だ。苦戦を強いられるとは考えてはいたが、気合と根性だけで乗り切れる程に甘くはないぞ。影を探すだけの術式の知識も持ち合わせていない、そんな未熟な状態では無駄に死にに行くようなものだぞ」
つむぐは溜息をつくと、ソファーへと腰を落とした。
「じゃあ、どうすればいいんだよ。必殺技でもあるならいいけど」
「その奥の手も、大概は経験から学ぶなかで身につけるものだぞ。そう簡単にほいほいと、特別な術や技があるわけがないだろう。だだしかし、つむぐに関しては命を削る覚悟があるのならば、その方法はある」
つむぐはコルトの言葉に反応すると、少し身を乗り出した。
「僕の命を削れば、何とかなるのか」
「安易に決めるべきことではない。しかしそんな手段は、できるなら使わない方がいい」
「でも、何とかなるんだよな」
「まあな、しかしそれは本当の意味での最後の手段だ。使えば文字通り、命を削る。君の命の天秤は削った分だけ、別の何かへと傾くが、その傾きは決して戻ることはない」
コルトはそういうと、つむぐを見据えた。あえて冷静に、冷たく言葉を発する。
つむぐは喉を鳴らし、やがて「肝に銘じておくよ……」と、静かに口を開いた。
おおよその場所については判明した。
「今日で三日目だな」
つむぐは人気のない夜の町中をとぼとぼと歩きながら、自然と愚痴をこぼした。コルトが影の居場所についてをおおよその範囲で導き出すと、あとは全て運任せに町中を歩き回っていた。しかしその範囲は広大で、遭遇するまで町中を捜索しなければならないというのだから、魔法というのもあながち頼りにならない。
「そうだね。まあ、そう簡単には見つからないよ。それでも範囲が定まっているだけありがたいんだけどね」
その横をカンリカが歩きながら、何ともぎこちない笑みを浮かべた。
「そりゃ、簡単には見つからないだろうとは思ってたけど」
つむぐは夜の町並みを眺めながら、変わらないんだなと素直に感じていた。誰かが命を失って、人間じゃない何かがいて、がらりと世界が変わってしまったように感じていたのに、目の前にある町並みや夜風に星空も何一つそのままなのだ。
「ああ、僕が変わったのか」
つむぐは思わず呟くと、自身の言葉だというのに苦笑いをした。
「何が?」
「いやいや、静かすぎるのもなんだか不気味だなと思ってさ」
「ああ。まあ、そうだね」
カンリカは不思議そうに首を傾げたが、特にそれ以上は何も思わかったのか、すぐに辺りに目を配っていた。
やがて何かに気が付いたのか、その視線をある一点で止めると指をさした。
「ねえ、あれ」
「あれ?」
つむぐはカンリカが指をさした方向へと顔を向けた。
その方向には、ちょっとした高台に頑丈そうな白い壁をした三階建ての建物が、広大な土地に堂々とかまえながら下界を見下ろしている。
「あれは、学校だよ。ちなみに僕が通ってる学校でもある。三鷹高等学校っていって特別にどうってこともない学校だよ」
つむぐは自身が通学している学校を見上げながら、自然と溜息をついた。
「ああ、そうなんだ」
カンリカはつむぐの話には特に興味を持っているわけではないらしく、校舎をじっと見つめながら体を左右に動かしている。
「何やってるんだ」
「いや、何か人影が動いたように見えたから」
「人影?」
つむぐも校舎の窓を見つめながら、なかの様子を窺うように目を凝らせるが、そこには暗闇があるだけでなかの様子まではわからない。
「いやいや、警備は意外に厳重だし。それに夏休みっていっても、昼間は部活の学生やその顧問がうろついているんだぞ。そんなところに、わざわざ隠れるような奴はいなだろ」
「いや、でも確かにあそこの窓の所で……」
カンリカは特に意味もないのに背伸びをすると、何とか見えないかと必死になっている。
「学生はこんな時間にいるわけもないし、教師だってさすがにいないだろ」
つむぐは校舎全体を眺めるように見つめると、そこである疑問が頭に浮かび上がった。
「あれ、そういえば」
つむぐは頭の片隅で浮かんだ妙な違和感を持つと、首を捻った。
「何がそういえばなの」
カンリカはつむぐの言葉に反応すると、その視線をつむぐに向ける。
「いや、それが何なのか、どうも思い浮かばないというか。思い出せないというか、何か引っかかりはしたんだけど」
つむぐは一歩後ろに下がると、校舎をじっと見つめる。
「あっ、そうか。明かりが一つもついてないんだ」
つむぐはようやく疑問が解けたというような、すっきりとした顔をする。
「そんなのは昼間とは違うのだから、当たり前ではないのか」
黙っていたコルトは口を開くと、さんざ考えた末に当たり前のことを喋るなと言わんばかりに少し冷めた目で視線を送る。
「いや、違うって。何一つ明かりがついてない方がおかしいんだって」
「ごめん、話が見えないんだけど」
カンリカは小首を傾げると、困った様子でつむぐの話に耳を傾けている。
「いや、うちの学校って防犯対策に、夜中でも一部では明かりをつけたままにしてるはずなんだよ。それにさ、いくら夜っていっても廊下には非常灯も点灯しているところもあるはずだから、あそこまで暗いってことは普通ないだろ」
そう言って見つめる校舎には、確かに明かりはなく、どこか霞がかったようにも見える。
「つまり、普通じゃないってこと」
カンリカは理解したのか「なるほど」と頷く。
「確かに、よく見れば人避けがされているな」
コルトは目を細めながら、そう言うと歩き出す。
「人避けって、おい待てよ。どこに行くんだ」
「決まっているだろうに。疑わしい場所なら調べるだけだ」
「まあ、それはそうなんだけどさ」
つむぐは先を歩くコルトを追いかけると、その後に続いた。
その空気は重苦しいものだった。濁った水を通して、見るように目の前にあるはずの、いつも校舎は夜の暗闇に紛れるようにどんよりとそこにあった。
つむぐ達は学校の門の前まで来ると、校舎を見つめていた。
「なんか、妙な威圧感だな。なんかこう、入ったら負けみたいな」
「負けてどうするつもりだ」
コルトは横目でつむぐを呆れた様子で見ると、溜息をついた。
「ああ、でも気持ちはわかるかも」
カンリカも何かを感じているのか、その笑みを引きつらせる。
「馬鹿を言ってないで、行くぞ。どのみち向こうはおそらく、こちらにもう感づいている」
「向こうってことは、やっぱり誰かいるわけか。カンリカの見た人影っていうのも、見間違いじゃなかったわけか」
「まあ、私は昔から目だけはいいからね。それに幻惑の類は、私にはあまり効果がないから、人避け程度になら惑わされないよ」
「そうなのか」
つむぐは感心したような顔をすると、その視線を再び校舎へと向けた。
「それじゃ、行くか」
つむぐはそう言うと、校門をよじ登りなかへと向かう。校庭を横切り、校舎の目の前で立ち止まると、暗闇に立つ校舎を見上げた。しかし特にこれといった様子はなく、校舎のなかへと入るにも、意外な程にあっけなかった。
つむぐ達が確認の為に校舎の回りをぐるりと回った時に、窓の一つが施錠されていなかったからだ。無論これが、罠ではないかと考えもしたが、つむぐ達はそこからなかへと侵入した。
校舎のなかは夜の静けさのなか、ひんやりとした空気が漂っていた。静まりかえった廊下に降り立つと、かすかな足音が反響する。
「まるで肝試しだな」
つむぐは苦笑すると、廊下の先を見つめる。
「覚悟を決めろ。いくら喚いたところで、ここには助けなど来ないぞ」
コルトはいつもの調子でいたって冷静な態度のまま、辺りを見回した。
「肝試しか。私はどちらかといえば、試す方の側になっちゃうけど。確かにこういう雰囲気は嫌だよね」
カンリカは冷や汗を拭うと、深呼吸をする。
「やっぱり妖怪とか、幽霊とかもこういうのは嫌なのか」
「嫌っていうか。この場の空気がね、ピリピリするというか。あまり居心地のいい場所とは言えないよ」
つむぐもその言葉に納得するように「ああ、確かに」と頷いて見せる。
そして、先へ行こうかとその一歩を踏み出した時だった。
その足元がまるで柔らかなゴムでも踏みつけたかのように、気持ちの悪い感触が足から伝わったのだ。
「うわっ、なんだ」
つむぐは思わず足元から飛び引くと、床を睨み付けた。
「どうしたの」
カンリカはすぐさま横から顔を覗かせると、視線を床に向ける。
「いや、今何か踏みつけたような気がしたんだけど、おかいしな」
つむぐは床を見つめなら、小首を傾げると「確かに、こう、ぐにゃっとした」そう言って後ろを振り返った。
「あれ、おい」
しかしそこには先程までいたはずの二人の姿がなく、まるで自分だけが最初から一人であったかのように、そこには先の見えない廊下と静けさだけが残されていた。
「コルト、カンリカ……。冗談だろ」
つむぐは辺りを見回しながら、必死に二人の姿を探すが、姿はおろか声さえも聞こえない。つむぐの声が廊下にかすかに木霊すると、やがて聞こえなくなる。
「勘弁しろよ」
つむぐは肩を落とすと、まんまと二人と引き離されたと考えながら、とにかくその場を離れる為に足早に歩き始める。当然のことながら一旦外へ出る為に、窓をいくつか確認したが、まるで溶接したかのようにその窓は動かずガラスはコンクリートのように固い。
一階を端から見て回り、ちょうど時間にして三十分程経った頃だった。つむぐは二階へと続く階段の前で腕組をしながら、その階段の先のことを考えていた。少なくとも出られない以上は、このまま進むにしかないにしろ、カンリカとコルトが気にかかるつむぐはどうするべきか考えていた。
コルトは心なで呼びかけても返事はなく、カンリカに至っても携帯電話といった連絡手段を持ち合わせてはいない。大声で怒鳴ったところで、かすか返事さえも聞こえはしない。
つむぐは携帯電話をポケットから取り出すと、時刻を確認した。時刻はちょうど後数分もすれば、午前二時になる。何気なくそこで電波状態を確認すると、そこで電波が圏外になっていることに気が付いた。
「マジかよ」
つむぐは思わず声を出すと、肩を落とした。
しかしそこでつむぐがその視線を携帯電話から上げて階段の踊り場を見上げると、かすかにだがそこで人影が動く姿をつむぐは気が付いた。
つむぐはすぐに携帯電話をポケットにしまい込むと、階段を駆け上がった。二階へと上がり、廊下の左右を確認するがそこには人影はなく、誰の姿もない。つむぐは廊下の先を睨みつけると、眉間に皺を寄せた。
「おい、誰かいるのか」
つむぐは誰もいない廊下に声を出すが、特に変わったことはない。つむぐは深呼吸をすると、一旦冷戦さを取り戻して足を進めた。
普段から通い慣れ、ほとんどの平日を学校で過ごしているというのに、つむぐはまるで今いるこの校舎がどこか別の場所に思えた。歩く廊下も壁も、そして教室さえもどこか違う場所を自分は歩いているのではないだろうか。つむぐは廊下の先に広がる暗闇を見つめながら、そんな錯覚を起こしていた。
しばらくしてもつむぐは、コルトとカンリカに会えないでいた。周囲に目を凝らしながら歩みを進めていると、やがてその先の暗闇から自分の足音に混じって別の足音が響いているのに気が付いた。始めはコルトかカンリカとも思ったが、つむぐはすぐにその思考を止めた。
何故なら、どう考えてもその足音が二人の足音ではなかったからだ。二人にしてはその足音は重く、そして何よりその足音に混じって滴る水音と、鼻を衝く異臭がその先から漂ってきたからだった。
踵を返して廊下を戻るべきか、自身へと一歩一歩と近づく足音に聞き耳をたてながら、ゆっくりと歩みを進めていた。時間はない、もう少しすれば相手の姿が見える。
つむぐは、喉を鳴らすと、暗闇を睨み付けた。おそらくもう相手も自分に気が付いてる、そもそもここに来た理由からして逃げるわけにはいかない。コルトやカンリカにしても、このまま引き返したところで会える保証もないのだ。
つむぐはコルトがいないことで不安もあったが、カンリカの友人のことや、事件のことが頭によぎると、もう戻る理由は見つからなくなっていた。
「ああ、匂いがする」
やがてそいつはの声は、暗闇から囁くように響いた。まるで正気のない、どこか感情が欠落したかのような嫌な声だった。
そして異臭と、足音が大きくなるにつれて、そいつは姿を現した。
「ああ、間違いない。あれの匂いだ、あれはどこにある」
薄汚れ所々が擦り切れた黒いレインコートに、目深に被った黒いカウボーイハットの下には汚らしく伸びた無精髭が口元が動かすごとにかすかに動いていた。黄ばんだシャツには染みができ、下は靴もズボンも真黒な全身黒ずくめの男がそこで足を止めた。
「おまえが、ここ最近の事件の犯人か」
つむぐは以前にカンリカに聞いた男の風貌から、すぐにこいつが目当ての人物だということを理解していた。
「魔法使いか。あれは、あれは死んだはずだ。どうしておまえが持っている、何故おまえからは、あれの匂いと同じ匂いがするんだ」
男はつむぐの声が聞こえていないのか、急に頭を抱えて叫びだした。
「ああ、ああ、あれがあのお方を殺した。あれが私達の希望を奪った、何故だ。あのお方は誰よりもお強い方であったのに、ああ……」
男は叫び声を上げながら体を捩じらせると、急に思い出したかのようにぴたりと体の動きを止めると、そのままの姿勢で首を曲げるとつむぐに視線を向けた。
つむぐは思わず、一歩下がるとその顔を見つめた。
目深に被った帽子からは見えないでいたが、その眼球のあるはずの場所は窪み、光を通すことのない闇が眼球のないそこに、深い闇の瞳を作っていた。
「おまえも、あれと同じ匂いがする。ああ、憎い憎いな」
男は先程のように叫ぶわけではなく、ただその口の端を吊り上げると不気味で不吉な笑みを浮かべる。喜んでいるのか、それともただ狂っているだけなのか、ただ歪んでしまっているその男は笑い声を上げた。
つむぐは一歩下がった姿勢のままで体を硬直させると、目の前の異常な男を見つめたまま動けないでいた。
「おまえは、何を言っているんだ」
つむぐは緊張とした面持ちで、かろうじて声を絞り出すと目を細めた。誰かと勘違いをしているのか、それともただ正気ではないのか。どちらにしろ、危険な相手には違いないことをつむぐはひしひしと感じていた。黒犬と遭遇した時とは、比べ物ならないぐらいの狂気にも似た殺意を相手は間違いなく、今つむぐへと向けているのだ。
「やっと見つけた、やっと見つけたよ、魔法使い。さあ殺そう、さあ殺し合おう。おまえからは、あれと同じ匂いがするよ」
そう言うと男は狂ったように声を張り上げて笑いながら、つむぐとの距離をただ一直線に進みながら縮めてくる。
「ふざけるな。そんなわけのわからない理由で殺されるなんて、御免こうむる」
つむぐは一直線に突き進んで来る相手に、自ら突っ込むような形で正面へと走りこんだ。
眼球のない瞳がつむぐを空虚に見つめながら、男はどこから取り出したのかその懐からステッキを取り出すと、その隠された刀身を鞘から引き出した。頬がまるで裂けたかのような不気味な笑みを浮かべる。
「死ね、死ね」
男は狂ったように笑いながら、細いその刀身を、つむぐへの喉元へと向けて突き出した。
「単純なんだよ、あんた」
つむぐはただ馬鹿正直に狙ってくる相手の刃を、喉元にわずかなところで横に避けてかわすと、そのまま転がりながら男の脇をすり抜けた。かすかに切れたのか、喉元に痛みを感じるが、つむぐは即座に起き上がるとそのまま全力で男とは反対側へと走り出した。
しかしすぐ後ろから男が何かを叫びながら、迫ってきている。いくら全力で走ったとしても時間の問題であることには違いない。つむぐは、先に見える二つの校舎を繋ぐ渡り廊下を渡ると、向こう側にある校舎へと走りこんだ。
そして脇にある階段を駆け上がると、そのまま三階へと向かう。校舎としては最上階に当たるそこでコルト達に会えなければ、今のつむぐには男と戦う術はない。つむぐは息を切らせながら廊下を走ると、ある程度進んだところで教室の一室へと転がり込んだ。
教室の隅へと身を隠すと、つむぐは乱れた息を抑えながら、身動きをしないよう身をかがめて廊下側の方をじっと見つめた。
しばらくすると、刀身を引きずっているのか。床と鉄の擦れる甲高い音を出しながら、男の歩く足音が徐々に近づくと、やがて教室の前をそのまま通り過ぎていく。
つむぐは息を吐き出すと、そこでようやく一旦気を落ち着かせることができた。まだ息が荒く、心臓の音が早鐘のようにうるさく鼓動をしているが、ひとまずはしのげたことをつむぐは安堵した。そしてふと額の汗を拭った時に、つむぐはその手が妙に濡れていることに気が付いた。ぬるりと、それは汗や水といった類ではなくどちらかと言えば、油のようなべっとりとした触感がある。
つむぐはポケットから携帯電話を取り出すと、明かりを隠しならが自身の手を照らした。
「なっ、なんで」
つむぐは自身の手を見つめながら、愕然とした。
暗闇に映し出されたその手は真っ赤に染まりながら、手から赤い滴がしたたり落ちていたからだ。つむぐは自身の体を思わす確認する仕草をするが、すぐにふと思い出しのだ。あの男から漂っていた異臭と、何かが滴る水滴の音を、そうあの異臭は血の匂いだったのだ。そして男の脇を抜け床を転がった時に、床に滴った血が付着していたのだ。
つむぐは動揺すると、焦りながら血に染まった手を必死に服で拭う。それと同時につむぐは口元まできた吐き気を手で抑え込んだ。
「あいつは……」
つむぐはそう呟くと、苦虫を噛み潰したような顔すると、苛立たしげに壁を叩いていた。誰かを殺していた、その考えが頭をよぎると、つむぐは心に怒りだけが湧いていた。以前に訪れた事件の現場のようなことを、あの男は繰り返しいている。
つむぐは肺の空気をゆっくりと吐き出すと、拳を握りしめた。
その瞬間、教室のなかに男の声が響いた。
「みみ、み、見つけた」
男はどこから現れたのか、壁を背にしたつむぐの脇に立ちながらそう呟くと、その刃を振り下ろしていたのだ。
つむぐは咄嗟にその場から飛び引くと、鼻先を刀身が掠める。しかし咄嗟に避けたとはいっても男は間近に迫り、再び切り付けられれば避けようがない。
つむぐは尻餅をついた状態で下から男を見上げると、睨み付けた。男は変わらずに不気味な笑みを浮かべながら、その刃を振り上げると、その笑みを獲物をいたぶる獣のように無邪気で邪悪なそれに変えるとその刃を楽しげに振り下ろした。
その瞬間、つむぐは覚悟を決めると目を閉じていた。しかし一向に待ったとしても、振り下ろされたはずの刃がつむぐを切ることはなく。変わりに金属と金属がぶつかり合う、鈍く響いた音がするとつむぐは、そこでゆっくりと瞼を開いた。
そこにはコルトを手にしたカンリカが間に入ると、つむぐに振り下ろされた刃を防いでいた。鈍色に光る鋭い刀身が、コルトとせめぎ合いながら小刻みに動いている。
「コルト、カンリカ。よかった無事だったのか」
つむぐは絶妙なタイミングで現れた二人に驚くと、無事でいたことに心から安堵した。
「いやいや、それはこっちのセリフだよ」
カンリカは必死に刀身を防ぎながら、力の入った声でつむぐに答えた。やがてタイミングを計りのコルトを使って刀身を横に滑らせると、そのままの勢いで隙のできた男を回し蹴りで蹴り飛ばした。
男は一瞬苦しげな声を上げると、蹴られた反動のまま教室の端へと転がりながら飛ばされていく。
カンリカはその姿を見届けると、つむぐの手を掴むと強引に立たせて教室を飛び出した。
「ありがとう、助かったよ」
つむぐは手を引かれながらカンリカに感謝すると、後ろを振り返った。男はまだ教室からは出てきてはいないようで、その姿は見えない。
「本当にずいぶんと探したよ。突然消えちゃうんだもん、もうコルトはつむぐくんを探すって大騒ぎするし」
『うるさいぞ、無駄口をたたいている暇があるのなら、さっさと走れ』
コルトの顔を見ることはできないが、その口調は照れ臭いのか、恥ずかしさを隠しながら普段よりも早口に捲し立てる。
つむぐはそんな普段聞き慣れない口調に、こんな状況だというのに微笑むと「ああ、そうするよ」と返事を返した。
カンリカをつむぐを引っ張りながら階段を駆け上がると、屋上への扉をこれまた強引に蹴り飛ばして開け放つと、すぐさまに扉を抑え込んだ。
「とりあえずは、ここまで来れば一安心かな」
もう逃げ場もない屋上で、カンリカは普段通りの笑みを浮かべると、額の汗を拭った。
『まったく、一人で急にいなくなったかと思えば、おまえは何をやってるんだ』
すぐさまにカンリカの手から離れたコルトが、人の形になるとつむぐに駆け寄った。
「悪い、なんか気が付いたら二人がいなかった」
「それはこっちだ。まんまとあいつの張った罠に引っかかりおって、一人で先に行こうとするからそういうことになる。ああいった類の連中と戦うには、つむぐは魔法使いとして対峙しなければ殺されるだけだぞ」
コルトは苛立ち気に言い放ちながら、つむぐの体をあちこちと触りながら怪我をしていないか確認をすると、すっと離れた。
「わかってるよ。だから僕も逃げ回ってたわけだし」
つむぐは申し訳なさそうな顔をすると「ごめん」と、一言呟いた。
「一人で無茶なことを、もう、しないでくれ」
そう言ったコルトの顔は俯いてつむぐからは見ることはできない。しかしかすかに震えた声が、どれだけコルトはつむぐのことを思っているのか。それがつむぐに伝わるには充分だった。
「ごめん」
つむぐはもう一度そう言うと、コルトの頭に手を置くと、優しくなでた。
「そのお二人さん。いいところ悪いんだけど、これからどうするか考えた方がいいと思うんだけどな」
カンリカはどこか困った顔をすると、そのまま真剣な眼差しでつむぐを見つめた。
「もう女の子に、心配をさせちゃ駄目だよ。君までいなくなったら、本当にどうしようかと思ったよ」
そう言って優しく微笑んだカンリカの瞳は悲しげで、いなくなってしまった友人のことを思い出しているだろうか。後悔をしているような、どこか儚くも見える。
「大丈夫だよ。僕はいなくなったりはしないよ」
「そっか……」
カンリカの目を細めると、そう呟いた。その言葉を信用するとまでは言わなかったが、つむぐはその言葉に「ああ、約束だ」と付け足した。
「それで、これからどうしようか?」
次の瞬間にはカンリカはいつもの調子に戻ると、つむぐに問い掛けた。
「もちろん、やることは一つだ。あいつをぶっ飛ばす」
「ぶっ飛ばすのいいけど、方法はあるの」
「ないわけではない。方法ならあるぞ、おまえはつむぐが何者が忘れたのか」
不安気にするカンリカの言葉にコルトは割って入ると、つむぐに右手を差し出した。
「こいつは、魔法使いだ」
まっすぐにコルトがつむぐの瞳を見つめる。
「ああ、そうだな」
つむぐはそう言うと、ゆっくりとコルトの差し出された手を握りしめた。
つむぐの姿が魔法使いのそれになると、つむぐはその右手に持ったコルトをゆっくりとカンリカ抑え込む扉へと向ける。
「ちょっ、危ないって」
カンリカは思わず驚くと、声を上げた。
「大丈夫、まだ弾は入れてないよ」
「それでも、銃口を動物や人に向けちゃ駄目だって」
「エアガンじゃないんだから」
つむぐは真面目に話すカンリカに苦笑いをすると、扉に向けたコルトを下した。
「カンリカ、きっと僕の、コルトならあいつを仕留められる。でも生憎と撃てる弾は今のところ一発しかないんだ。だからこれは確実に当てなきゃならない」
「扉を出てきたところを即座に撃つっていうのは、これって避けようがないんじゃない」
「いやそれじゃ不十分だ。それだと後ろに跳び引かれたら隠れられるし、あいつが素直にその扉から出てくるとも限らない」
つむぐは先程の教室で男が、自分に気が付かれることなく、すぐ脇に立たれたことを考えていた。少なくとも扉の開いた音もしなれば、歩く音も気配され感じることができなかっったのだ。何らかの方法があるには違いない。
「じゃあ、私があいつの気を引いておくから、その間に撃てばいいよ。今さっきやりあったけど、あいつの動きはそう早いものじゃないし。何とか隙は作れると思う」
「あいつはどう動くかがわからないんだぞ。それに危険だ」
カンリカはそんなつむぐの心配をした顔に「大丈夫」と答えると、
「その代わりに、外さないでよ」
そう言ってはにかむと扉に向き直した。
しかし次の瞬間、扉から来るであう考えていた男は意外なところから現れた。
「いたいた、あれの匂いがする」
そう呟くように囁かれた言葉は、つむぐの真上から聞こえると、そのままつむぐは前方に向かって倒れかかると何とか踏みとどまった。
「つむぐくん」
カンリカは目を見開くと、声を張り上げた。
つむぐは肩越しに男を振り返り睨み付けると、再び振り下ろされようとしている刃を目にすると前へと飛び出した。
前のめりに倒れ込みながらも、何とか立ち上がって男と対峙したつむぐだが、その背中は肩から切り付けられており、左手からは血の滴が滴り落ちている。
「こいついったいどこから」
そう言うつむぐの顔は痛みで歪み、息が荒くなっている。黒犬などとは違う、目の前にいるものは正真正銘の化物なのだと、つむぐは改めて認識していた。
『こいつは、まさか』
つむぐが男と対峙すると、驚いたのか思わずそう口にしていた。
「何だ、こいつのこと知っているのか」
つむぐはコルトの言葉に聞き返すが、コルトは口を噤んでいる。
男は体を左右にゆっくりと揺らすと、その仮面のように張り付いた不気味な笑みのまま一歩一歩と歩き出した。
「こっちにもいることも、忘れないでほしいんだけどな」
横からカンリカの声がすると、カンリカは男に突っ込むと右手を突き出した。
男はカンリカに気が付いていたのか、その突き出された拳を横に避けると、その懐を左足で蹴り込んだ。
「かはっ」
カンリカは膝をつくと、咳き込むと苦しげな表情を浮かべる。
「おまえ、邪魔だ」
男はカンリカへは興味がないのか、膝をついたカンリカから視線をつむぐ達へと移すと再びゆっくりと歩き出した。
「ようやく、み、見つけた。おまえのせいで、あの方は、いなくなった。でも世界は、きっときっと、壊さないと」
「カンリカ。くそ、だから、何のことだかわからないって言ってるだろ」
『あいつの名は、ドク(どく)だ。ずいぶんと様変わりをしているがな』
つむぐの言葉に続けるように、コルトがそう呟くと、つむぐは目を見開いた。
「やっぱりあいつを知っていたのか。こいつはいったい何なんだ」
「時計塔の職人と、私達はそう呼んでいた。世界時計の下僕共だ」
「時計塔の職人、世界時計。それっていったい」
つむぐはコルトの言っている言葉の意味がわからず、困惑した顔をする。
「話は後だ。今は目の前のあいつに集中しろ、あれは相当に危険な奴だ」
コルトの言葉につむぐは男を睨みつける。男は相変わらずに何かを呟き、にやつきながら一歩一歩とつむぐに近づいてきていた。
どうすべきか、つむぐは頭のなかはそれだけを考えた。コルトの言う以上に、得体の知れない奴に迂闊に何度も突っ込んでうまくいくとは限らない。しかし何もない、回りを柵で囲まれたこの状況では、逃げることも派手に動き回ることもできない。
つむぐはもう間近に迫る男を見つめながら、ちらりとカンリカに視線を移した。倒れているカンリカの四肢には力がなく、意識を失っているように見える。幸いドクには切られることはなく血が流れてはいないことだけが、つむぐを安堵させていた。
「どうするかな。コルト、おまえは何か良い案はないのか」
『とにかく動き回れ、今のあいつは動きが悪い。それに知性や理性といったものがなくなっている。単調的な攻撃を避けながら、何とか隙を見つけるしかない』
「隙ね、それはそれで、結構難しそうだけどな」
つむぐは切り付けられた背中の痛みを感じながら、どこまで持つかと考えていた。
しかしそう言っている間に、男はつむぐの目の前まで迫ると、ゆっくりとした動きから俊敏なものへと変わるとつむぐの懐へと飛び込んできた。
つむぐは瞬時にその動きに反応をすると、後ろに跳び引いた。例え怪我をしていたとしても、魔法使いとしての今の自分になら、何とかしばらくは逃げるきれるだろうと、そうつむぐは考えていた。
「ぐはっ」
次の瞬間つむぐは、男の動きに驚きを隠しえなかった。自分が跳び引いたそれに、男はつむぐに追従するように跳躍すると、そのままつむぐの右肩を刃で貫いたのだ。男は地面へと降り立つと、つむぐは体勢を崩して勢いよく転がると金網に衝突した。金網はその衝撃で外側へと歪むと、鉄の軋む音を上げる。
つむぐは全身に痛みを感じながら、右肩の焼けるような痛みを左手で押さえつけた。人の動きではない、つむぐが始めに思ったことはそれだった。相手が人間の形をしていたから、相手も人間と同様の動きをするわけではない。ましてや今までのらりくらりと動いていた相手が、急に俊敏に動いたことにつむぐは瞬間的に動きが遅れのだ。
つむぐはコルトを左手に持ち帰ると、だらりと右手を下げた状態でなんとか立ち上がった。たった数撃を受けただけでこんなにもあっけなくぼろぼろになってしまう、自身の弱さにつむぐは内心今ほどに嫌気がさしたことはない。
「何の為に、色々とやったんだか」
つむぐは苦しげに自身へと悪態をつくと、口から血を吐き出した。口のなかを切ったらしく、頬の内側に痛みが走る。口のなかに血の味を感じながら、つむぐは男を睨み付ける。
例え魔法使いになっていようが、相手が化物のなら、自身がいくら普段の数倍に上乗せした力を得ていたとしても意味がない。決して優位に戦う為ではなく、人外なものと同等に戦う為の魔法なのだと、つむぐは改めて認識していた。
「もっと鍛えておけば、よかったかな」
『つむぐ、大丈夫か』
コルトの心配した声が響く。
「ああ、何とか。でも悪い、さすがにあいつの攻撃を避けれそうにないわ」
『おまえ』
「気にするな。とりあえず、何とかなるさ」
つむぐは不安気なコルトに、気楽に答えると口の端を上げて笑みをつくった。
「弱い、弱いな、魔法使い。あれはもっと強かった、あれはもっと冷酷だった。おまえは弱いな、脆いな、つまらないな」
男はつむぐを楽しげに見つめながら、狂った瞳で、口の端を吊り上げて三日月のような笑みを浮かべると唇を舌で舐める。
「本当、気持ちの悪い奴だな。あれあれって、いったい何のことなんだよ」
つむぐは目の数歩離れた位置立つ男に、疲れた様子で喋りかけた。
「あれ、あれか……」
男はつむぐの言葉にただそう呟くと、首を前に唐突に曲げると、そのまま動かなくなる。
「それは、今貴様がその左手に持っているものだよ。本来ならそれは、我らの物だった」
「えっ」
つむぐは突然喋り出した言葉に耳を疑った。その声は先程までの狂った声色とは違う、落ち着きどこか紳士的にさえ感じる程に、まるで正反対のそれにつむぐは息を呑んだ。
「おどろくのも無理はないな。私がこうしていられる状態は長くはない、時が過ぎれば私は再びただの狂った人形に戻る。まったく笑える話じゃないか」
『死霊を操り、人を操り、魂を弄んだ傀儡子の貴様が今は自身が人形に成り下がったか』
コルトは突然喋り出した男に特に驚くことはなく、むしろ当然のように言葉をかけた。
「ああ、ずいぶんと懐かしいじゃないか、コルト。貴様が、いやあの女が、我が主の命を奪ってからというものの、私は私を保つことができなくなってしまってね。日々狂っていく自身を眺めながら、気が付けば私の自我はもうないに等しい状態となってしまった」
男は首を曲げたまま微動だにせず、まるで本当に糸が切れた人形のような動かない。
『多くの命を奪った貴様だ。貴様にはその末路がふさわしい』
コルトの声は冷徹に、どこまでも突き放した感情のない声でそう告げた。
「ずいぶんとした物言いだ。おまえとて我らと何も変わりはしない。我らが多くの命を奪ってきたというのなら、貴様は多くの神と呼ばれる存在を滅したではないか。もはやこの世界に神など存在しないというのに、人間は愚かな生き物だ。いない存在に祈りを捧げているのだからな、まったく愚かで本当に馬鹿な生き物だ」
『黙れ』
コルトは苛立たしげに声を張り上げた。
「あの女、そう、夏樹と言ったか。あの女も愚かな女だ、貴様に関わったあげくに最後は命を落としたのだからな。そして貴様は今もこうして存在しているというのだから、まったく我らと何が変わらないというのだ。今度はそこの小僧を贄とでもするというのか」
『貴様が、夏樹を語るな。その口、閉じなければその体を吹き飛ばすぞ』
コルトは男の挑発とも言える言葉にすっかりと頭に血が上ってしまい、そこには普段の冷静な口調はなくなっている。
「なるほど。しかし今の貴様では、そこの小僧の力量では、私を吹き飛ばすだけの力を使うだけが限界ではないのかな。そう、精々一発の精製がいいところだ。それ以上はそこの小僧の体はおろか、精神がもたないだろうに。よかったではないか、私が弱くなっていて」
男は静かに笑うと、しだいに体を震わせ始めた。
「おやおや、そろそろ時間のようだ。悪いが私は失礼をさせてもらうよ」
男はそう最後に言い残すと、体の震えが大きくなると、曲げた首を元に戻した時にはその形相には狂った瞳と、不気味な笑みを浮かべたそれになり、体を動かし始めた。
『撃て、つむぐ』
コルトがそう叫ぶが、利き腕が使えず、左手で構えたコルトの照準は小刻みに揺れて、その照準を合わせることができない。
悠長に話に耳を傾けているうちに撃つべきだったかなどと、少し後悔をするつむぐだが、すぐそこにカンリカの声が響いた。
「だから忘れてもらっちゃ、困るって言ったでしょ」
カンリカの意識が戻ったのか、動く男の足にしがみつくと、その動きを止める。
つむぐはその機会を逃さなかった。
瞬間、黒犬を相手にした時と同様に、一発の弾丸を精製する。それはつむぐの脳を沸騰させ、神経を麻痺させ、意識を奪い取るには充分だった。しかしそれでも霞む目を見開いて食い縛ると、撃鉄を起こした。
足に必死にしがみつくカンリカに意識を取られたのか。男は動きを止めると、カンリカへと振り下ろす為に手に持った刃を振り上げた。その間、男が刃を振り上げた刹那、つむぐはその引き金を引いた。
轟音と共に、黒い弾丸が放たれる。左手に持ったコルトは反動によって、つむぐの手から力なく離れると、そのままアスファルトの地面を転がっていく。
放たれた弾丸は、一直線に男へと吸い込まれるように突き進み、どうしたとしても避けることなどできない。つむぐはもちろん、全員がそう信じていた。
しかし、その望みは寸前のところで砕かれる。
男に弾丸が当たる直前、男の姿が突然目の前から消えたのだ。それは避けたわけではなく、ただ忽然とその場から姿を消したのだ。まるでそこに始めから誰もいなかったかのように、カンリカの必死に掴んでいた手が空を切った。
「危ない、危ないな」
男は次の瞬間、屋上の隅へと姿を現すと、にやつきながら楽しげに笑みを浮かべている。
つむぐは唖然とした顔をする。カンリカも同じ気持ちだったのか、口を開けて目を見開くと声にならない声を出している。
「空間を移動しただと」
そんな二人の後ろから、人の姿に戻ったコルトが驚いた声を上げる。
「あいつ、瞬間移動みたいなことができたのか」
つむぐはコルトの言葉にそう聞き返した。
「いや、あんな状態では……」
コルトは目を細めると、カンリカとつむぐに視線を移す。
「おい、つむぐを連れてここから離れろ。結界の方は私が何とかする、だからここからなるべく遠くへ逃げろ」
コルトはそう言うと、つむぐを守るように男と対峙する。
「そんなこと、できるわけ」
「いいから行け」
カンリカの言葉をコルトは遮ると、声を張り上げた。
「逃がさないよ、駄目だよ。せっかく楽しいのに」
男は相変わらず不気味な笑み浮かべているが、その視線をカンリカへと向ける。
「まずは、君がいいかな。君は邪魔だから、邪魔だから」
「逃げろ、カンリカ」
思わずコルトがそう叫ぶが、誰もカンリカへの手は届かない。コルトは叫び、つむぐはかろうじて留めている意識はあるものの、もはや動くことができない。
カンリカは覚悟を決めると、男を睨み付けた。最後のその瞬間まで、自身を殺す相手の姿を目に焼き付けようと考えたのだ。
男は跳躍とすると、カンリカへと向けてその刃を突き出した。
しかし、次の瞬間その刃は宙を舞うと、乾いた金属音を立てながらアスファルトの上を転がり、男は突然間に割り込んだ人物に吹き飛ばされた。
そしてその間に入った人物は、すかさず短刀をアスファルトの地面へと突き刺した。すると辺り一帯に無数の光が走ると、何かが割れたような激しい音をたて、やがて屋上に夜風が吹き始める。
「逃げられた」
短刀を抜き取り、その人物はそう呟くと、つむぐの元へと駆けて行く。
つむぐは朦朧とする意識のなか、霞がかった目で、駆け寄ってくる人物を見つめるがぼやけた視界では視認することができない。
「大丈夫ですか、先輩」
しかしその耳に聞こえた声は、どこかで聞いたことがあるんじゃないかと、消えかかる意識のなかで最後にそう考えながら、やがてそこでつむぐの意識は途絶えた。
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