六の十二
「う……」
扇は瞼を開けた。砂地のような場所に寝かされていた。そばには寿がいた。
「気がついた?」
「おれは……気を失っていたのか?」
「うん」
「どのくらい?」
「ほんの数十秒だよ。安心して。立てる?」
「ああ」
工場の残骸が遠くに見えた。扇がいるのは地底湖の水辺で冷たい砂浜が弧を描いて、工場のある埋立地へと伸びていた。
夜叉丸を初めとする太刀華屋の追っ手たちはあちこちに倒れて目をまわしていた。ただ一人、斧男だけが工場内に残るあぶさんの樽や壜を叩き割るためにうろついていて、ハレルヤ!の声が時おり残骸から響いてきた。
「船を見つけたんだ」と寿。「そこの桟橋の先。舟板に何て書いてあったと思う?」
寿は勿体つけて、コホンと咳をした。
「お戻りやす、天原。そう書いてあったんだ。やっぱりこの道はアタリらしい。さあ、帰ろう。天原へ」
「……ああ、そうだな」
扇は立ち上がった。よろめいたが、手を貸そうとする寿を制して、目まいを払った。桟橋の先にはもう春王と火薬中毒者が待っている。火薬中毒者の手には松明の代用品としてゆっくり燃える火薬の試験管が握られている。
「これが最後の一本なんだ」
桟橋に着くと、火薬中毒者がそう告げた。
「ちょっと火ィ、貸してくれ」
春王が懐を探った。煙管が見つからないらしい。
「これじゃないか」
そばに落ちていた羅宇に螺鈿細工が施された煙管を手に扇がたずねる。
「いや。それだけど、それじゃない……ああ、あった」
春王が取り出したのは潰れた紙の箱だった。最後の一本、と言って、ニカリと笑って、試験管の火で紙巻煙草をつけた。
「見世じゃ煙管以外で煙草を呑ませてくれないんでね」
扇と寿が舟に乗り、春王はゆっくり一服しながら、見納めになるであろう逆原を感慨深げに眺めている。火薬中毒者も桟橋に立っていたが、つい先ほどあぶさんの工場を吹き飛ばした爆発を頭のなかで再現して感動に浸りながら、自分の火薬がその爆発に関与できなかった悔しさを噛みしめているのだった。
春王っ、と叫ぶ声が岸辺から聞こえてきた。
意識を取り戻した夜叉丸が抜き身の脇差を片手に下げて桟橋を歩いてきた。
「行くな、春王」
「悪いな、夜叉。お前の期待に、おれは応えられない」
「なぜ、ここを出て行く? 外の世界は何があるかも分からない。なのに――」
「何があるか分からないから出ていくんだ。分かりきったこの世界を自分から切り離して、分からない世界で一花咲かせてみたい」
「行くな、春王。頼む……」
夜叉丸の目が涙で潤んでいた。
「おれはもう太刀華屋の春王じゃない」
春王は首をふった。
「名前は虎兵衛。ただの虎兵衛さ」
虎兵衛、の名を聞いて、思わず、扇は顔を上げた。だが、そこからでは春王の顔は見えない。
うわああ! と泣くように叫びながら、夜叉丸が脇差で切りかかった。春王が舟に飛び降り、それに火薬中毒者が続こうとした瞬間、火薬中毒者の手から松明代わりの試験管が滑り落ちた。
扇は咄嗟に春王を引っぱって、舟から水へと落ちた。舟が破裂し、細かい白い泡で視界を塞がった。息苦しさに焦りながらも、虎兵衛をしっかりつかみ、光のあるほうへ進むべくと水を蹴った。
光はどんどん大きくなり、やがて目の前いっぱいに水面越しに見えたのは青空で――




