六の十一
下りの道の真ん中にその穴は開いていた。
直径は二間ほど、湿った石壁、灯明皿、そして苔がうっすら生えている木の下り階段。
肝心なことはこの穴が書生風の眼鏡にマント姿の青年が火薬で明けたものであり、その書生は狩衣を着た少年と赤い傘を手にした美少年とともにこの階段を降りていったということだった。
「へえー」春王は穴を覗き込んで関心している。「こんなもんが逆原の地下にあったんだねえ」
「関心してる場合じゃない。おれたちも降りるんだ」
「そいつぁ、なんとも。この階段、大丈夫なんだろうな?」
「分からないが、寿たちがここを降りたのなら、おれたちもここを降りる。とりあえず合流は果たしたいからな」
「まあ、毒を食らわば皿まで。おれも逆原を飛び出して一つ世界を見てやろうと心に決めた身だ。このくらいの危険に尻込みしちゃあ、かっこがつかないよな」
木の段を踏むと、釘が鳴くような軋みが聞こえた。やはり大丈夫ではないな、この階段は、と思って見上げて見ると驚いた。ほんの数段しか降りた覚えがないのに、入口の穴は針穴ほどの大きさに縮んでいるのだ。
これはアタリの道だ。というのも、ちょうど逆原にやってくることになったあの不思議な縦穴と性質が似ているのだ。
そうと分かれば、急いで降りるのが吉だ。トントントンとまな板で味噌汁の具を切るような音を鳴らしながら、階段を降りていく。ほんの数段が降りたのが数十、いや数百段に増えていくのは、目に見えない不思議な力が扇と春王を地下へと誘っていくようだ。
願わくば浦島太郎のごとく、元の世界での時間が恐ろしい速さで過ぎ去っていないことを。空っぽの天原など哀しくて見ていられない。
階段はついに底に着いた。鋲を打った扉があり、それを開けると、赤銅色の巨大な蒸留器が神殿の柱のようにずらりと並んでいる巨大な部屋につながっていた。蒸留器が左側にあり、そのてっぺんから細い金属管が天井へ迂回して、右側の背の高い鉄の箱の並びにつながっていた。鉄の箱の底には蛇口がついていた。ひねると透き通った緑の液体が流れ落ちた。
「ここがあぶさんの工場か」
予想していたよりも遥かに大きな規模の建物で、しかも働いている人間が一人もいなかった。労働者や技師、会計係がいて然るべきなのに、無人の工場は自動機械の働きのみで運営されていた。蒸留器の管理、壜詰め、ラベル貼り、逆原へ出庫するためのトロッコへの荷上げとトロッコそのものの運行。全てがパンチカードと呼ばれる穴のあいた紙で管理されているのだった。そして、そのカードは両端をつなぎ合わせて、半永久的に読み取り装置にかけられつづけている。誰がこんな大がかりな生産の仕掛けを作ったのか知らないが、これが逆原を静かに苦界へ落とそうとしていることだけは確かだ。
青い金属板に白の塗料で細く線を引いて工場の見取り図を描いたものが壁にかけられていた。奇妙なことにその地図には第一蒸留室、第二蒸留室、動力室といった工場の生産にかかわるもの以外にも、食堂、仮眠室、図書室、給与計算室など人間が使うための部屋も合わせて記載されていた――まるで、この工場も建設された当初は人間が働くことを想定していたように。
「寿たちを探そう」
それから扇と春王は壜に貼りつけるラベルが床から天井まで積み上げられた部屋やあぶさんの原料になるニガヨモギが樽詰めされている部屋、払われることのない給料を計算し続ける自動計算機関の部屋を通り過ぎた。部屋から部屋へ移動するあいだも、この毒酒の生産を止めるためにバルブやレバーを適当に閉めたり、開けたりしてみたが、異常が発生した際にはその根源を特定して調整する自動機械があるようで、扇たちの努力もほんの数分で元通りに改善されていた。
「こうなると、一番の大元を断つのがいいんじゃないかい?」
「大元?」
「そうだ。動力室ってのが、この工場を動かすための力を作ってるんなら、そいつをぶっ壊せばいい」
壁の青い地図を見ると、動力室は廊下を二本ほど歩いて曲がった先にあった。
動力室は高さ十丈はある巨大な円柱部屋で屋内にも関わらず、あちこちにニガヨモギが生えていて、森のようになっていた。苔がついた巨木の根に似た鉄製の導管がいくつもつながった巨大な機械が聳え立っていて、そのてっぺんには緑に光る液体を湛えた円柱型ガラス水槽が固定されていた。ガラス水槽と同じ高さには壁に沿って回廊があり、この巨大動力装置を操作するための操作盤が取りつけてある。水槽の中には操り人形くらいの大きさの小さな少年が一人浮いていた。薄い真珠層のような羽を背中に生やした妖精のような少年で、美を具現化したその顔は閉じ込められた憂いに陰っていた。扇は本能で分かった。あぶさんの材料はニガヨモギではなく、この透き通った翠の妖精なのだ。あぶさんに溺れたものが見る幻影の本体がこの少年なのだ。
「おや? 奇遇だね」
回廊には既に先に来ていた寿と火薬中毒者、それにもう一人傘を差しているので顔の分からない連れが立っていた。
「ここで何をしている?」
「階段を降りたらここに来て、彷徨ってたんだ。扇たちこそ、ここで何を?」
「この装置を止めるためと、後はここに天原に戻る方法がないか探るために来た。上でお前たちが先に下りていったと聞いたから、合流できるかと思ってな」
「それならほとんど達成したようなもんだ。この工場の奥に桟橋があって、地下の湖があるらしいんだ」
「湖か……確かに怪しいな。調べてみる価値はありそうだ。ところで、そっちの傘を差しているのは?」
「ああ。彼は知りたがり屋。おれたちの道案内をしてくれたんだよ。名前は夜叉丸って言って――」
「夜叉丸だって!」
突然、春王が素っ頓狂な声を上げた。
傘を差したまま、夜叉丸が振り返る。
「やあ、春王。ぼくのきみに対する気持ちを知っていながら、逆原を出て行くなんて。ちょっと傷ついちゃったよ」
「おや?」と寿。「二人はお知り合い?」
「……楼主だ」
春王が答えた。
「ということは――」いつもは火薬以外のことに興味を示さない火薬中毒者が言った。「夜叉丸さんは女性だったんですか?」
「そういうこと」
夜叉丸が答えると、回廊の出口や天井裏から次々と黒衣の少女たちが現れる。
「ここに降りる前に居場所をこっそり人に頼んで、電信で援軍を呼ばさせてもらったよ」
「寿。お前、まんまと間者に引っかかったな」と扇が言った。
「そう責めないで欲しいもんだね」
扇は鯉口をパチンと切って、寿と背中合わせになり、少女たちに相対する。
「間者に引っかかった失敗はご利益で挽回するから」
「神さまは何もできないんだろ?」
扇、寿、火薬中毒者、春王は一ヶ所にかたまり、四方を少女たちに囲まれた状態だ。
「神さまは確かにできないことも多い」寿がしれっと言う。「でも、できることもあるんだ。たとえば――」
寿は口の端を上げた。
「縁結びとかね」
ハレルヤ! の叫び声が森の空洞のような部屋に響き渡った。少女たちはもちろん夜叉丸や頭目たちもその声に色を失う。
「じゃあ、お嬢さん方。この素敵な瞬間にぴったしの素敵な人物との縁を結んであげよう」
「か、かかれ!」
頭目が部下に命じ、春王を取り戻そうとする。
そのときには斧男が短い手足であぶさん製造装置にしがみつき、パイプをよじ登りながら、誇らしげに高々と叫んだ。
「マリアは天上に導かれたり、天使たちは喜びに打ち震え、主の寿ぎの言葉を称えるなり!」そして、妖精を閉じ込めたガラス水槽に斧の刃を――「ハレルヤ!」――叩きつけた。
ガラスにヒビが入ったかと思ったら、水槽のなかの妖精が高い笑い声を上げながらガラスを砕いて外に飛び出し、その衝撃で工場全体が激しく揺れた。立っている回廊が斜めに傾く。無茶な圧力がかかって鉄の壁が紙のように破れる。いつの間にか、みなバラバラになって崩れかけた建材にしがみついていた。
扇は体が工場から転がり出て、暗い空間へと投げ出されるのを感じた。




