六の九
あぶさん。
虫のことを丁寧に呼んだらしい語感がこの緑の酒の名前だった。
人間を駄目にしていくことについては阿片と双璧を成すこの毒酒は全て一つの工場で作られているらしい。いくつかの酒場や撞球場でたずねると決まって、
「あんたたち、禁酒主義者か何かかい?」
と、女店主にたずねられ、うさんくさい目を向けられた。
「いや。ただ、ああいう酒はどこで作ってるんだろうと思っただけだ」
すると、あぶさんは下のほうで買ってくるという答えが決まって返ってきた。
そして、今、扇は春王とともに逆原の底を目指している。そこに出口があるかどうかは分からないが、あぶさんの工場は確かにあるようだ。
「一つくらい善行を積めば、楼主の心証もいいってもんさ」
春王は気楽なものである。追われているのは春王のみであって、扇ではない。だが、おそらく天性の楽天家なんだろう。
あぶさんはいろいろなやり方で販売されていた。コップ、小瓶、大瓶、錫製の酒甕、樽など、店が必要と思う方法で仕入れることができた。あぶさんを置く店は必ずあのガラスの蛇口付き水槽と穴だらけのスプーン、そして角砂糖が用意されていた。見世ではあぶさんはご法度になっていて、持ち込んだものは客であれ遊夫であれ廓に出入り禁止を食らうことになっていたし、楼主が持ち込んだ場合は見世の営業する権利を失うとされていた。
ただし、見世以外の料理屋や居酒屋の販売までは禁止されておらず、本物の男よりも酒の幻影が見せる美男子にはまり込んで、現実と夢の区別がつかなくなる女たちがいたるところにいた。透き通った翠の美青年に誘われるまま、井戸に落ちたり、殺虫剤を飲み込んだり、蒸気自動車に轢かれたりする中毒者は後を絶たず、これを放置するのは――、
「まったくの興ざめだよなあ」
春王がその言葉を口にした瞬間、扇はまるでしゃっくりしたように身をびくっと動かした。
「どうかしたか?」
と、たずねる春王に、なんでもない、と扇は返したが、興という言葉はこの夢とも幻ともつかない場所でも作用するのかと思い、ため息をついた。
あちこちの酒を出す店で聞き込みをしてみると、決まって〈斧男〉なる老人の話が持ち上がった。いわゆる禁酒主義者のなかでもとりわけ極端な意見の持ち主であり、店を襲撃しては酒壜や樽を斧で叩き割るのだという。斧男を語るときの女店主たちの口調は恐るべき妖怪、避けることのできない災害、理不尽にも襲いかかる狂信者の暴力を語る口調とまったく同じものとなる。それは諦めと憤りと誇張によって口伝された物語であり、親が聞き分けのない子どもを脅かすときに使う恐怖の具現者のようでもあった。
斧男は小柄でずんぐりとした初老の男で、白い眉毛、白い口髭、白い顎鬚がそれぞれ上や真横に向かって吹き飛ぶように生えていて、その目で睨まれると大砲の筒先に立っているようで冷や汗をかくという。斧はマントの下に隠して持ち運べるほどの大きさで作りは単純、飾り気のないものだが、その刃は分厚く仕上げられているので、どんな樽でも一撃で叩き割ることができた。女が支配的な地位にあるこの逆原において、唯一恐れられる男がこの斧男であり、キリシタンらしいこの老人は斧で酒樽を叩き割るとき、必ずもう一方の手で銀の十字架(十字が交差するところにはキリストの血を表す赤い宝石がはまっていた)をふりかざし、「ハレルヤ!」と叫ぶ。どんな女も斧男を捕まえることはできず、その大砲の筒先のような恐ろしい目で睨まれると脚がすくんでしまう。女店主のなかには斧男を恐れる余り、居酒屋を聖書の販売店に改装して、斧男の目を欺き、秘密の合言葉を知っている人間だけにあぶさんを販売するものもいた。
斧男の話を聞いていると、扇には、あぶさんのことはそいつに任せてもいいような気がしてくるのだが、体がうずうずして、やはり放っておけない気持ちにさせられる。まったく興というものは、と思いつつも、まんざらでもない気持ちになるのはいつものことだ。
酒屋の女たちはあぶさんは下のほうで買ってくるといって、急な下り階段を指差すばかりだった。伊香保の湯治場のような階段はまっすぐ下へ続いていて、その左右には器用に門を構えた料亭や張見世、浮世絵を売る店、電信であちこちの座敷と連絡をとって芸者を送る進歩的な置屋がある。扇はこうした町並みを下りつつも待ち伏せ、あるいは尾行に注意している。尾行されていると感じたら、横道に身を隠し、黒衣の少女たちが自分を追い抜いていくのを見送る。ただ、このままでは一番下で大人数の敵と相対することになるので、最後尾の一人が通り過ぎるときに素早く飛び出して、当身を食らわせて、横道へ引きずり込み、気絶した少女を放置された納戸なり小屋なりに隠していた。もう、三回この方法で敵の頭数を減らしていた。敵の武器を調べてみると、無反りの忍び刀一振り、鎧通し一振り、握りつぶしてから相手に投げつける目潰しの小さな袋が七ツ(これは使えそうなので失敬した)、それに八方手裏剣が十枚。そして、非常によく似た扇たちの似顔絵が一枚。 春王の楼主はよっぽど春王に執着しているのが窺える。
これから苦労させられるな。扇は空を、とはいってもぼんやりとした花街の輪郭が見えるだけの空なのだが、ともあれ空を仰いだ。出口を探す、あぶさんの製造元を探す、黒衣の少女たちの追跡をかわすとやることは多い。だが、全体としては解決に向かって確実に前進している実感がある。
「天原は空を飛んでいるらしいが――」と春王がたずねてきた。「地上には何があるんだ?」
自分もそこまで詳しいわけではないとことわってから、扇は、シモウサの蒸気要塞、活気のある大阪、異国情緒のある長崎の話をした。春王は熱心に扇の説明を聞いていた。説明する口調は味気ないものなのだが、春王の想像は期待にふくらみ、これはいよいよその天原とやらに行かねばならないと意を強くするのだった。
逆に扇が春王にどうして逆原にいるのかたずねることもあった。
「売られたことは確かなんだよ」春王は記憶の糸をたどりつつ、話した。「ただ、ガキのころ、どんなところにいたのか、親がどんなだったのか、さっぱり記憶にない。物心ついたころにはここで禿をしていた。いや、していたはずなんだけど、その禿時代の思い出やら記憶やらが実は贋物で、おれは生まれたその瞬間から太刀華屋の売れっ子で、そこで時間が止まったまま、今日に至ったような気がするんだ。そんな感覚を味わったことはあるか?」
「いや」
「きっと逆原と天原じゃあ時間の流れ方が違うんだろうなあ」
春王の知識は空が青いこと、ここが日本のどこかであること、地球は丸いこと、蒸気機関が外国からもたらされたことは知っていた。だが、逆原の外にどんなものがあるのか具体的な知識は全く欠いていた。これは奇妙な話だった。というのも、客は逆原の外からやってくるはずであり、その客を通して、外の世界の知識に具体的なものが加わって然るべきなのに、客たちも外の世界についてはぼんやりとしたものしか知らないらしい。まるで、客までもが時間の止まったまま、ずっと逆原にいるかのようだ。
そんな馬鹿な話があるものかと笑い飛ばしたくもなるが、そもそも天原のなかに広大な逆原が存在するということ自体が既に馬鹿な話なのだ。時間が止まっていても、別におかしくはない。
ただ、いつもどおり抜け目なく、注意を配って、進むのみだ。
ずっと続いていた階段が終わり、平坦な板敷きの道が現われた。中央に柳の並木を植えた歩道の板は動いていた。どうやら地面の下に機械が仕込まれているらしく、歩道の板は人を乗せたまま前へと滑るように進んでいた。
自動歩道のある通りは張見世が隙間なく並んでいて、横町が存在しなかった。あと六間進めば歩道が尽きるところで扇と春王は待ち伏せを食らった。
また、あの投網が投げつけられ、扇はかわしたが、春王は網にからめとられてしまい、そのまま上へ引っぱり上げられてしまった。
「わ、わ」
驚いたまま連れて行かれる春王を追うべく、扇は横に飛び、花魁たちが騒ぐのも構わず、張見世の格子をつかむと、次に軒に飛んでつかまり、庇屋根によじ登り、見世の中をかけた。中郎の叫び声と台の物をひっくり返す音を残して、扇はちょうど宴もたけなわの座敷に飛び込み、そこの障子窓を破りながら抜刀し、街路へ飛び降りた。
予想通り、十人ほどの黒衣の少女が抵抗する春王を投網のなかに入れたまま引っぱって運び去ろうとしていた。その引き縄を扇の剣閃が断ち切る。
「おのれ、貴様。まだ邪魔をするか!」
と、叫んだのは頭目だった。
「そっちこそいいかげん諦めろ。楼主が年季明けした花魁に惚れるなんて、野暮のすることだ」
十人の特殊な戦闘訓練を積んだ少女たちに囲まれた状態で扇が答えた。少し挑発が過ぎたかな、と反省する。というのも、左に五人、右に五人、傾斜のある街路は幅一間ほどで通り抜けるには難がある。
「これで勝てると思っているのか?」
「さあ、どうかな?」
たずねる頭目に扇は不敵な物言いで答えるが、勝てるとは思っていない。十対一。春王は戦力に数えられない。投網のなかでもぞもぞと動いていて、ようやく体の半分が網の外に出たところだった。
こんなことを認めるのは癪だが、今こそ火薬中毒者がいてくれればと思う。
だが、いないものをどう言っても仕方が無い。
「そうだ。仕方がない」
扇は剣を地面に突き立てて、両手を上に上げた。
「賢い選択だな」
頭目の自信にあふれた顔を扇は冷めた目で見据える。彼女は扇が指のあいだに挟んだ四つの目潰しの袋に気づいていなかった。扇は両手の人差し指と中指のあいだに挟んだ袋を潰して、頭目の顔に放った。
効き目は抜群で相手は崖から突き落とされたような叫び声を上げて、顔を押さえながら卒倒した。中指と薬指に挟んだ残りの目潰しを握りつぶして、左右に放つ。少女が二人、目を押さえて泣きながら倒れる。
残り七人をどうやって料理するか。
その下ごしらえを扇はまったく考えていない。とにかく三人潰す方法が浮かんだだけで、後は坂に刺した刀を抜いて、出たとこ勝負で切り抜けるしかない。
そのとき、坂の上手から高々と叫び声が上がった。
「ハレルヤ!」
扇に襲いかかろうとしていた七人の少女がぴたりと動きを止める。それどころか、その顔に恐怖の色が浮かんでいた。大きな樽が三つ、ごろんごろんと転がってきて、避けた扇たちを通り過ぎた。その後を大きな帽子をかぶった老人が斧と銀の十字架を手に駆け下りてきた。
「斧男だ!」
斧男が逆原の全女性の恐怖の的であるという言い伝えは事実だったらしい。その証拠に黒衣の少女たちは恐慌をきたし、すっかり狼狽して、顔を押さえて転がっている頭目をほったらかしにして逃げてしまったのだ。
扇も春王に手を貸し、その場を逃れるべき坂を駆け下りた。
すると、扇よりも速く、まるで雷のように斧男が駆けていき、燃える燐のように目をぎらつかせながら坂を転がっていく三つの酒樽を追いかけていった。
ハレルヤ、と祝福の言葉を残して。




