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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第六話 不思議の廓の扇と寿と火薬中毒者
94/611

六の八

 しつこく追いかけてくる黒衣の少女たちに「鍵屋ァ」「玉屋ァ」と決まり文句の老舗の名を楽しそうに挙げて、試験管に入った爆薬を投げつけるのを見るのは、そうそうない経験だな。

 寿はそんなふうに見ていた。

 黒衣の少女たちは寿たちを追跡することをあきらめたようだ。

 そりゃそうだろう。ちょっとでも、姿が見えたら最後、試験管に入った爆薬が炸裂するのだ。追っ手としてはたまったものではない。

 ただ、一人の元暗殺者として火薬中毒者を見てみると、彼はぎりぎり人が死なず、一生ものの怪我も負わず、手に軽い火傷をする程度で済むやり方で爆弾を使っていた。まるで爆風がどんなふうに発生するかを自分の体の一部を知るように知り尽くしていて、常に制御し得る範囲に火炎を制しているので、爆薬の火が何かに引火して逆原が丸焼けになることもない。扇はこの火薬中毒者を疫病神か何かのように思っているが、どうしてなかなか考える頭と技術を持っている。

「こんなに火薬に詳しい奴隷がいるなんて、扇もきっと幸せだろうね」

 後で扇がひどい目に遭うのだろうなあ、と暢気に思いつつ、火薬中毒者に励ましの言葉をかける。松林の隠れ屋敷から脱出し、追っ手を撒いたのは火薬中毒者の手柄なのだから、褒めても罰は当たらないだろう。

 火薬中毒者は、うんうん、とうなづいて、

「そうです。扇さんはきっと幸せで頭がどうかしちゃう寸前ですよ。火薬は未来の社会を担う偉大な発明品であり、日々進化しています。未来は火薬のものです。車も船も天原全体も近い未来、火薬の爆発によって動くようになります。その火薬に精通した奴隷を所有したということは、もう世界の半分を手に入れたようなものですよ」

「そこまではどうかなあ」

「いえいえ、そうですよ。寿さんはご存じないでしょうが、ぼくと白寿楼のカラクリ番の久助さんはシモウサ国ですごい発明をしたんです」

「知ってる。火薬を使った自動車でしょ?」

「そうです! あのときは人生最良のときでしたね。きっと扇さんもそう思っているはずですよ」

 と、火薬中毒者は力説した。

 寿は扇からあのときの体験について、〈鉛〉をやめて以来、最悪の出来事だったと聞かされていた。

 ただ、神さまの使いがやたらめったら人の夢を現実で打ち崩すのは控えるべきだと思い、肯定とも否定とも取れない便利な相槌を打って、自分の立場を留保することにした。

 しかし、自分たちはどこにいるのか?

 扇たちとはぐれて以来、寿と火薬中毒者は沓をぱこぱこ鳴らしながら下へ下へと向かっている。あれだけ派手に爆弾をまいた以上、上には行けない。行けば、住人に袋叩きにされる。仕方なく下へ下へと道を選んでいる。まあ、考えてみれば、これだけの廓の入口が一つだけとも思えない。最低でも二つはあるだろう。そうしたら、一つは一番上、もう一つは一番下に作るだろう。

 それに出口がなくても構わない。一声かければ、火薬中毒者が機関車も通れるような大きな出口をこさえてくれることだろう。

 しかし、一番下までどれだけの距離があるのだろうか? あの鳥小屋のような部屋からさらに下った階段が見えていたから、底もかなり深いに違いない。

「こりゃ、苦労するなあ」

 寿の、そんな懸念もよそに逆原は大繁盛している。このあたりで清流があるとは思えないのに、向こう鉢巻をした股引穿きの元気な娘が活き鮎を入れた水桶を二つ、天秤棒の左右に振って、坂をかけあがっていく。細かい網をかぶされた桶の中ではほっそりとした鮎がたがで閉じられた板のなかにかつて棲んでいた川の名残を探して切なげに鰓ぶたを動かしていた。張見世から煙が上がっているので、やれ火事かと思えば、それは串焼き屋の店先格子だった。格子の向こう、焼き台のあいだで木炭が赤々と燃えて、その上では串を打たれた食材――鮎、骨切りにした鱧、車海老、スッポンのヒレ、駿河の軍鶏が炭火に脂を垂らしてじゅうじゅう鳴きながら炙られていた。そこは本物の張見世に負けない魅力に満ちているのだが、そこに脂混じりの幽庵地タレが炭火に落ちて、その香りが外に流れ出た日には大変だ。食い気の勝つ人ならば、廓の張見世より串屋の格子が一等上等と公言してはばからない。それほどうまそうに焼けているので、半分神さまということで何も食べなくとも生きていける寿でもゴクリと喉が鳴った。花魁の張見世を魅力で上回った串焼き屋の主は角ばった顎を持つ中年の女で、今も額に浮かぶ汗を鉢巻に吸わせながら、団扇で炭火を扇いで、仕上げの焼き目をつけている。

 ただ町というのは、面白いもの美味しいものばかりとは限らず、フロックコートを着たへちまのような頼りない紳士が『男子の権利についての意見状』なる小冊子を配り歩いている光景に出くわすこともある。試しにもらって見たが、自然権や公共の福祉といった言葉が退屈そうに綴ってあるだけで山椒のようにぴりっとした名文句はなく、挿絵は一枚。相撲取りのような大女が花魁らしいほっそりとした少年に襲いかかろうとしている単色刷りの絵だったのだが、その風刺絵は英字新聞に目を通すものならば、ポーランドに襲いかかろうとする熊にたとえられたロシアを想起しただろう。文末に〈男子興隆党だんしこうりゅうとう 大河幸隆たいがゆきたか〉と起草者の名前が印刷されていた。党と名乗るのだから、あのへちまのような男たちが徒党を組んでいるわけだ。男子興隆党の本部は表の賑わいから離れた裏町にあるはずだ。その理由は体制転覆を企む組織は人目に立たない場所に本部を持つべきだからだということになっているが、実際は表通りに面した部屋を借りるだけの資金がないからに違いない。党員はおそらく六名を越えることはなく、その六名が貧乏長屋の一部屋にぎゅうぎゅう詰めで住んでいる。彼らの財産は蒸気機関を搭載した印刷機なのだが、旧式な上に排煙装置の不備から十枚刷ると部屋のなかが煤で充満してしまう代物。そうなるたびに、ひいひいとしみる涙を流しながら外に転がり出て、なにくそ大義のためだと自分を奮い立たせて貧乏長屋へ吶喊し、十枚刷っては煤だらけになって、また外に転がり出るのだ。涙ぐましい努力である。寿がその涙ぐましい努力の結晶たる小冊子を火薬中毒者に渡した。彼は「火薬とは体制に不満を持つものが使うことのできる唯一の言葉なんですよ」という、深く考えるとやや恐ろしい感想をつぶやいて、小冊子を返した。火薬中毒者は知る由もなかったが、世界では実際に火薬が世界を変えるための『言葉』として使われていた。『言葉』は、ロシア皇帝の蒸気橇やアメリカの鉄道王に送りつけられる上品な包装の小包み、パリじゅうの金持ちが集まるオペラ座劇場の座席の下に用心深く仕掛けられ、発言の瞬間を待っているのだった。

 だが、ほとんどの男は不平を言うよりも日々の稼ぎを大切にする。若衆は二挺三味線であちこちに唄を売っているし、こちらの義太夫節では天下を取るのは声変わりをする前の美少年である。少年義太夫の追っかけをやる女たちの掟は固く、あらゆる抜け駆け行為を禁止している。天原のある世界では娘義太夫の取り巻きたちは古代中国の宦官のようで、娘の足袋を手ずから履かせることに無上の喜びを覚え、その役目を奪い合うなよなよした男たちの集まりに過ぎない。ところが少年義太夫を取り巻く女たちは猛者ぞろいの近衛擲弾兵連隊のごとく、少年のまわりを固めて、俥に乗るときもその前後左右を一緒に走り、直訴状のごとく差し出される恋文や、あるいはもっと強引な口づけをしようとする不埒者から、か弱く初心な美少年を守るべく、仕込みステッキを持参していた。

 雛壇状の街路を降りていく。道の先は赤い建物の通り抜けに続いていた。遊夫たち専用の通路が二階にあり、その下を通り過ぎると用途不明の巨大な蒸気機関が塔のように威勢を誇っている広場に出た。牛車の車輪のようなバルブや手で囲いきれないほど太い蒸気管が巨大な罐を中心にくっついているその塔はおそらく久助ならば分かるであろう理屈に従って動いているようだった。ときどきゴトゴトと揺れ始めたり、あるいはその揺れる速度がどんどん加速していき破裂寸前まで圧が高まっているらしい危険な水蒸気爆弾があるにも関わらず、広場沿いの見世も遊客たちも別に見慣れたものと澄ましている。あるいは心のなかでは怖いのだが、それを表情に出さないことがここでは粋とされているのかもしれない。もちろん、火薬中毒者はこの蒸気機関を発破解体するにはどうしたらよいかを頭のなかで考えた。慈悲深き彼は発破解体の栄誉を水蒸気にも分け与えてやった。水蒸気の圧力による破壊を火薬による爆発に組み込み、より効率的で、炎の上がり方も見栄えするとびっきりの方法を考えた。まず火薬を爆発させ、次に水蒸気爆発を起こして、火薬による爆炎を画期的な規模に膨らませるのだ。

 ただ、機械に明るくない彼はこの蒸気機関をまず水蒸気爆発させる術を知らなかった。もし、分かれば、逆原は史上類を見ない最高の発破解体を体験することができたのだが。

 火薬中毒者は火薬と吹き飛ばす対象さえあれば幸せなので、逆原でも暮らしていけるが、寿は神社があるので、そうは行かない。はぐれた扇とも合流したいが、道に明るい春王がいないので、この逆原をどう歩いたらいいのか分からなかった。

 こんなことだったら、あの黒衣の少女軍団から一人捕虜を取って案内させればよかった。

 そんなふうに考えている寿の耳にちりんちりんと音が聞こえた。

 それは赤い番傘を差した美少年の編み上げ靴に結ばれた鈴が鳴らした音だった。襟なしシャツに薄灰の行灯袴は脛の丈で切られ、編み上げた長靴の鈴が猫の目のように光りつつ袴の裾で揺れている。シャツの上に桜花散らしの銀朱ぎんしゅの長羽織を右を前にして着て、紫の帯を結んで脇差を一本差していた。琥珀の玉を通した赤い紐で髪を結って、結びの余った紐を右側だけ長くして垂らしていた。齢は十四か五、少女と見間違う顔立ちは涼しげで、触ると陶器のように冷たいのではないかと思える肌の持ち主だった。

 どこかの少年義太夫か、見世の遊夫か。

 少年は傘を畳み、近くの和菓子屋に入ると、手招きをした。

 寿が左右を見たが、どうやら招かれているのは自分と火薬中毒者らしい。

 怪しいとは思いつつも、まあ、ちょっと斬られたくらいの怪我ならなかったことにできるのだから、とのんびり構え、相手に誘いこまれることにした。

 頭のなかで巨大蒸気機関に爆薬を仕掛けることに夢中の火薬中毒者の袖を引っぱって、寿は少年が誘う和菓子屋の奥の部屋へ上がった。

 黒衣の少女の一団が広場を駆けていったのは、寿たちが和菓子屋に入った直後のことだった。

 どうやら追跡を再開したらしい。

 ただ、問題は例の少年がどうして寿たちが追われていることを知っていたかだった。

「逆原にはね」声変わり前の声で少年が答えた。「あちこちに電信所と書類を入れた竹筒を送り出す送風管があるのさ。だから、ぼくは何でも知ることができるんだ」

「まあ、追っ手から匿ってくれたことは例を言うよ」寿が油断なく左右に目を配ってたずねた。「でも、キミは何者なんだい?」

「知りたがり屋」

「知りたがり屋?」

「そう。知りたがり屋さ。この逆原には、どんな些細なことでも細分漏らさず知りたがるぼくのような知りたがり屋がいるのさ。そして、知りたがり屋は何か面白いことはないかと逆原を彷徨う。そうしたら、大見世で太夫を名乗ってもおかしくないあの春王が太刀華屋から逃げ出した。楼主は追っ手を差し向けたけれど、大爆発で見失ったと面白そうな知らせが入った。これは逆原の知りたがり屋としては是非とも間近で見ておきたい事件だ」

「何でも知りたがるって言ったね?」寿がたずねる。「じゃあ、ここから元の世界に戻る方法は――」

「もちろん知ってる。案内するよ」

「で、条件は?」

「あなたたちについていく。そして、事件を間近で見る。ぼくは知りたがり屋仲間に自慢話ができる。これだけ。悪い話じゃないでしょ?」

 悪い話ではない。そもそも道に不案内でこのまま坂を下っているのが合っているのか間違っているのかも分からない状況だ。

 知りたがり屋、というのも、尤もらしい。確かに逆原には天原に負けないほどの様々な物と出来事、そして人がいる。それら全てを知りたいと思う物好きが一人か二人いたところで不自然ではない。

「わかった。その条件で頼むよ。おれは寿。こっちは――まあ、火薬中毒者って呼んで。本名は知らないんだ」

「ぼくは夜叉丸やしゃまる」少年が言った。「まあ、まかしてよ。ぼくについていけば、逆原を遊覧しているうちに元の世界へ帰れること間違いなしさ」

 夜叉丸がとびっきりの笑顔で約束する。

 ふと、寿は思った――自分が〈鉛〉だったころ、相手を油断させてバッサリ殺るためにこんな表情をしていたんだろうなあ、と。

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