六の七
春王と二人で逃げてからというもの、まるで騙し絵にかかったように上へ進めなくなった。確かに階段を上っているはずなのに、上りきってみると上り階段の入口で見かけた辻行灯や屋台のカンテラがはるか上に瞬いているのだ。
「こりゃ、下へ下がれってことじゃないか?」
春王が言う。まるで万膳町のような性悪の町に迷い込んだと思いつつ、扇は下への道を取る。それに火薬中毒者の仕業と思しき爆音が下のほうから聞こえてくる。寿と火薬中毒者の二人も似たような形に陥り、やはり下に降りているのだろうか?
「なんだい、花火かえ?」
「どこの見世だろうねえ」
街路をゆく遊客たちは暢気なことを言っている。死人は出すなと一応命令してあるので、そこまでひどいことにはならないと思うが、建物を見たらまず頭のなかで吹き飛ばしてみるという火薬中毒者のことだ。心配にはなる。
そんな扇の心労をよそに春王はまるで逆原を遊覧しているかのように行く先行く先で顔見知りの芸者や遊客に声をかけている。例の青の手ぬぐいを頭に乗せて、片方を口にくわえているので、やや顔は隠れているが、雰囲気までは隠せない。半籬とはいえ、売れっ子の花魁なわけだから、ただ、そこにいるだけで空気が華やいだ。
きっと虎兵衛なら興が乗っているとでも言うのだろう。
地下に落ちたのならば、戻るためには上に行くのが常道。
しかし、ここは逆原である。となると、常道の反対で、戻るためにひたすら下を目指すのが常道ということになるのかもしれない。
しかし、下には何があるのだろう? ちょうど漏斗の底のようにどんどん町が収縮していき、最後は小さな点にまで縮まるのかもしれない。
扇が春王と下っているのは雛壇状の通りで歩道も屋台も張見世も石敷きの通りにあわせて一段ずつ低くなっていっていた。時おり、横道に入り、竹薮を通って、別の通りへ抜けたりしながら、太刀華屋の追っ手をかわす。
裏道のような小路でも軒にはガラスの洋灯が吊るされていた。表を開けっ放しにした撞球場では袴姿の若い女たちが水を入れると白く濁る緑の洋酒を飲みながら、緑羅紗の上に転がる数字入りの玉に白い玉をぶつけていた。店の奥にある酒場には緑の酒壜が並んでいる。壜の形は底から上へ、末広がりに幅広くなり、ある点を越えると壜の栓へと急な角度で収束し、壜らしい形になる。壜の表に貼りつけられた紙には中央に旗のようなゆらめく字体で『NARKISS Absinthe』とあり、そのすぐ下に『Quality Spirits since 1829』と小さく字が並んでいた。カウンターの上には角砂糖が山と盛られた皿が一つ、穴だらけのスプーンが差し込まれたガラスの入れ物が一つ、そして銀の一本脚で支えられたガラス製の八角柱水槽があり、八分目まで水の入ったガラスの表面が冷たい水滴で曇っていた。水槽の上は水を入れるための銀の蓋がかぶさっていて、銀貨の形をした取っ手の根元に緑のリボンが結ばれていて、水槽のすぐ下にはギリシャ神話に出てくる美少年を模ったほっそりとした蛇口が四本伸びていた。自分の番が終わった女たちは緑の酒の入ったコップの上に穴だらけのスプーン、そして角砂糖を一つ置いて、水槽の蛇口をひねる。冷たい水が角砂糖を溶かしてコップに落とし、澄んだ緑の宝石のようだった酒はあっという間に白く濁った。
「あの酒をやると――」と春王がこっそり説明する。「オツムがいかれるらしい。見えないものが見えたりするようになる」
「何が見えるんだ?」
「たいていは美男子。ただし、体も目も服も緑色で宝石みたいに澄んでいる。そこまでいったら、もう手遅れだそうだ。幻の美男子に会いたい一心であの酒をやっちまう。魂まで酒の虜にされるのさ」
「ぞっとする話だな」
竹薮や柳のある通りはどうもこの背徳的な愉楽と手を切ることができないらしく、蛇口付きのガラス水槽と緑の酒壜が、下駄屋の奥、辻洋食の屋台、低く吊るされたハリケーン・ランタンのそば、遊夫が座る張見世のなかにまで置いてあった。
「ああいう酒を見ると――」春王は少ししょげた様子で話す。「おれたちの力不足なのかなあって思うんだよな。おれたちも相手に夢のような時間を売る商売をしてるわけだし」
「別にあんたが気に病むことはないんじゃないか?」
「それにしても、この緑色の酒はいったいどこから来たのかな? いつの間にか、逆原で流行り出して、気づいたら、あちこちに緑の壜とガラスの水桶が置かれるようになった。この毒みたいな酒をそのままにしておくことが、ここを去るにあたっての心残りだな」
春王はそうつぶやき、ため息をつく。
扇は秘かに、ぐっと堪える。
虎兵衛好みの興がせっつくようなうずきを扇の胸に与えてきた。
そんなことされても、何もできないぞ。
できないったら、できない。
そう思う。
思うのだが……




