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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第六話 不思議の廓の扇と寿と火薬中毒者
92/611

六の六

 座敷を後にし、女番頭たちのお帰りになるよおと野太く伸びた声に押されるようにして、見世を出た。

 稲荷社の前で女を待つべく、見世の裏へまわろうと張見世の格子前を横切って、角を曲がった。すると、建物の表を一間ごとに区切った職人店の並びにぶつかった。一つ目の店では米粉と山芋をすり合わせたものを昆布で巻いて、甘めのたれみそで煮ていた。赤い漆器には一口大に切られたトロトロの餅のようなものが乗せてあり、きな粉がたっぷりかかっていた。二つ目の店では武具職人が、遊客がお気に入りの遊夫への贈り物にするのであろう鍔を、花や異国の蝶をあしらった華美なものから、飾り気のない武骨なものまで仕上げて店先に並べていた。三つ目の店は蒸気洗濯請負で店の奥にガラス盤の目盛りがいくつもくっついた金ぴかの大きな罐が鎮座していて、前掛けをした見習いらしい少女が、シャツだの襦袢だの褌だのをその中にポイポイ放り込んでいた。四つ目の店は入口が分厚い暖簾で塞がっていたが、これは着物が着崩れした女性が着付け直しをするための店だった。五つ目の店では代書屋で甘ったるい語彙を光源氏の時代にまで遡って頭のなかに溜め込んだ女代書人が瓶底のような眼鏡越しに香を焚きつけた便箋をつまらなさそうに眺めながら、さらさらと恋文を代書していた。六つ目の店は花火屋でここにきてようやく火薬中毒者が一間店の並びに興味を持った。枝から吊るしてくるくるまわる仕掛け花火を買うと、早速折り畳み式の小刀で花火を分解し、紙火薬をさらさらを口のなかに流し込んだ。

「素朴な味わいだね」

 火薬中毒者はそう評した。

 職人店の尽きた角を曲がると、太刀華屋の裏手へ出た。勝手口は厨房に通じているらしく、仕出し屋が刺身や牛鍋用の肉を手に出たり入ったりしていた。その勝手口と通りに面した裏門のあいだに右へ曲がれるだけの幅があり、煤だらけのガラス軒灯の弱々しい光が奥へと続く道の石畳を照らそうと必死に瞬いていた。見世の裏というと、後はこの道の奥くらいしかないので、扇を先頭に三人は道の奥へ進んだ。数歩も行かないうちに足元も危ういほど暗くなり、さらに数歩進むと、巻物をくわえた稲荷の石像が二つ向かい合った社を見つけた。乏しい光のなかに見える社はひどく不恰好に見えた。屋根は左側のほうが高くなっていて、黒々とした土台の石には苔がつまった亀裂が地面へ斜めに刺さるようにして大きく切り下がっていた。

「こりゃ、稲荷さまのお怒りだねえ」

 いつの間にか神さまの専門家となった寿がしみじみという。

「まあ、お稲荷の総本山は伏見にあるわけだし、伏見のお稲荷さまがどれだけ真面目に分祀を認めてくれているかは微妙なんだよね」

 と、まるで十年来の親友の肩を叩くような気軽さで右肩下がりの屋根をポンと叩くと、石が苔をひねり潰す鈍くて水っぽい音を立てながら、社が土台から真っ二つに割れて、そのまま柔らかい土にめり込み、割れた社の片割れは密度の薄い生垣によりかかってメキメキと音を立てた。

「……おれは知らないぞ」と、扇。

「ばれたら怒られるかな?」

「お前の神さまは稲荷と戦って勝てるのか?」

「正直、微妙……不意打ちとかすれば、勝てるかも」

 そんなとき、突然、暗がりから、

「もし……」

 ――と、声をかけられたので、寿はしゃっくりでもするようにひくっと喉を鳴らして驚いた。

 稲荷さまが化けて出たかと見てみれば、稲荷社の後ろから垂髪すいはつに青の手ぬぐいを頬かむりにした前掛け姿の背の高い女が現われた。手ぬぐいの片端をくわえて、顔を隠し気味にしていた。

「春王さまに言われました。ご案内いたします。まずはこちらへ」

 手ぬぐいの端をくわえたまま、細い声で告げる。稲荷社の後ろには人が横になって何とか通ることのできる隙間のような小路があり、芸者街の裏手につながっていた。腰丈の網代垣で区切られた裏庭が並んでいる。古梅や柘榴の鉢物、水草を浮かべた水瓶、苔をかぶった小さな石仏で塞いだ猫の額ほどの庭の向こうは常盤津の師匠や愉快売卜師の住処だ。障子には三味線を必死に鳴らす男の影が映っているが、「かんぶりあん、かんぶりあん。落としても消えない。倒しても消えない。魔法のカンテラはいかが。かんぶりあん」と表の道で洋灯を売る声が聞こえてくるだけで肝心の三味の音はこれっぽっちも聞こえてこない。

「こちらへ」

 案内の女は静かなものである。黒襟に控えめの紫の着物に前掛けと地味な下働きの身なりだが、その顔の美しいことは天原でも太夫が務まりそうなほどであった。何だか、女の造作の人間離れした美しさから、この女は実際、稲荷と何か関係のあるものかもしれない。寿だって、半分人間で半分神さまなのだ。似たようなことがこの逆原で起きてもおかしくないではないか?

道を挟んでいた網代がいつの間にか原料の竹に戻って、葉をさらさら鳴らしていた。狭い道が少し余裕を持ち、行き先にはどうやら神社への参拝をするらしい人の群れがぼんやりと像を結んでいた。

「あちらが逆原八幡宮の参道でございます」

 竹薮は屋台に挟まれた石の階段の横っ腹へ口を開けていた。大きな天狗のお面を背負った女修験者、遊夫連れの女、一人歩きの女、二人歩きの女、乗馬用ドレスの女、若衆髷の女武芸者と女だらけの参道は縁日の出し物に時おり足を止めながら、上へ上へと段をゆっくり上がっていた。その自信たっぷりな鷹揚さは夜はまだ始まったばかりだという余裕から来ているのか、あるいはこの夜は二度と明けることがないという確信から来ているのか、どちらにしても扇たちには関係のないことではやいところ逆原八幡で春王と落ち合い、ここから逃れる算段をつけねばならない。春王が同行すると聞いて、初めは訝しんだ扇だったが、こうして女だらけの石の参道を上っていくうちに、悪くない考えに思えてきた。とにかく、この土地に不案内なのだから、多少は地理を心得ている春王の参加は喜ぶべきものだ。

 ただ、一つ不安があるとすれば、春王は本当に年季明けをしているのかどうかだった。

 こんなふうに女を一人、案内にさせて、後で落ち合うなんて、いかにも見世から逃げるようなやり口ではないか。年季明けせず見世を逃げると、当然のごとく追っ手がかかるわけだから、こうなると、扇たちものっぴきならない立場に追い込まれる。他の廓に雇われて花魁を引き抜きに来たと勘違いされたら最後、怒れる女たちの手で生きたまま八つ裂きにされるに違いなかった。

 女にたずねても、ただ春王さまに言われて、を繰り返すばかりで埒がない。祭りの賑わいは漏斗に押し込まれるようにだんだん狭くなるかと思えば、突然開けて、参道の中央を鉄道馬車が下っていた(客車の後ろには家畜車両がつながっていて坂を上るときに使う駄馬が二頭乗っていた)。扇の右側には覗きカラクリ屋が二つあり、一つは代金を受け取った番人が紐を引いたりして絵を動かす旧式のもの、もう一つは銅貨を入れて、客が自分でクランクをまわす西洋式でどちらにも幻灯機が仕込んであり、機械ごとに『カスター将軍かく戦えり』『トルコ皇帝の美少年奴隷たちの踊り』『壮絶! 樽女対桶女』と内容に合わせた彩色看板がかかげてあった。旧式の覗きからくりは重ね貼りした紙で出来ていて、長年の使用による疲弊で分解しないようにあちこちを糊で止めていた。ところが、西洋式のほうはまだ工場から出てきたばかりのごとくぴかぴかで、磨き上げて柾目とつやを出した木製の細長い箱に覗き口は真鍮、クランクは銀でできていて、どうしても旧式のほうは機械としての出来の悪さが目立ってしまう。旧式覗きカラクリの持ち主である女は自然ジトッとした陰気な目で商売敵を見るのだが、西洋風の覗きカラクリはそもそも名前も西洋でキネトスコープと名乗っていて、女店主もそれに合わせて西洋化して袖が気球みたいにふくらんだブラウスと山道散策用の婦人ズボンで溌剌としたで客を呼び込むもんだから、厚紙を貼り合わせた覗きカラクリでは到底かなわなかったのだった。

 このまま逆原八幡の社のあるところへ行くのかと思ったが、女は飴玉を売る屋台で向きを変えて、参道から横道へそれて、扇たちを松の林の砂地へと導いた。祭りのお囃子がずいぶん遠くに聞こえるようになると、廊下の入口が松の木陰から現れた。

「春王さまはこちらでお待ちです」

 土足のまま通りぬけになっている土間を歩くと、左手に人気のない座敷、部屋に組み込まれた緑の楓と岩風呂、また人気のない座敷と続き、中庭に出た。手ぬぐいがかかった竹のけたかけいがちらちらと細水を垂らす手水鉢が一つあるだけで屋根瓦の上には相変わらず積みあがるような廓のぼんやりとしたのが見えている。だが、春王はどこにも見当たらなかった。

「春王さまを呼んでまいります」

 と、女はくるりと向きを変えて、手水鉢の前に立つと青い手ぬぐいを竹にかけて、手水鉢の水を両手ですくい上げて、ばしゃばしゃと二度やって、竹にかかった白い手ぬぐいで顔を念入りにぬぐった。

「ばあ」

 と、女が振り向くと、そこにある顔は間違いなく春王のものだった。

「意外とばれないもんだな。でも、素直に驚いたのは、そこの狩衣のにいさんだけかい?」

「素直に驚けない理由がある」扇が淡々と答える。「まず、こっちの火薬中毒者は火薬以外に何の関心も持てない男だ。気にしなくてもいい。おれが驚かないのは嫌な予感がするからだ。あんた、ひょっとして年季が明けてないんじゃないか?」

「いや。きっちり明けたし、どっかよその土地で廓を開けるくらいの金は稼いだね」

「じゃあ、どうして見世から出るのに、女に化けるなんて、まどろっこしいことをする?」

「まあ、それはもてる男はつらいってやつで、深いワケがあるのさ。実は楼主が商売抜きでおれに惚れて、手放そうとしないんだよ。これまではそれでもよかったけど、あんたたちから天原の話を聞くと、何だかいてもたってもいられなくてね。見世を出て行くなんて、素直に伝えても、絶対許可がもらえないだろうから、こうして女に化けて、ずらかったわけだ」

「追っ手は?」

「かかる。太刀華屋は半籬の中見世だけど、用心番だけはしぶといのを揃えてる。まるで忍者の里からくノ一をごっそり雇い入れたようなもんで――」

「じゃあ、やっぱり後ろからつけてる連中はおれたちを狙ってたんだ?」  と、寿が言った。

ああ、そうだ、と言いつつ、扇が刀を抜く。

「げっ、ばれてたのか? こりゃ参ったな」さほど困った様子もなく春王が言った。

「来るぞ。なるべく殺すな」

 と、扇が言った刹那、中庭を囲う屋根の上から鋼鉄の線で作った網が投げられた。扇が春王を、寿が火薬中毒者を庇の下へと押し込んで、網から逃れると、忍び刀を手にした黒衣の少女たちが次々と中庭に舞い降りてきた。

「春王さま。楼主の命です。見世へお戻りください」頭目らしい少女が放つ声に譲歩を許さない響きがあった。「場合によっては少々手荒なことをしなければいけなくなります。そうなる前にお戻りください」

 扇は少女の後ろをちらと見た。寿と火薬中毒者は厨へ逃げたらしく、そこにも黒衣の少女たちが三人ほど厨の入口で刀や苦無を構えて止まっている。寿が抗う構えを見せているのだろう。

「ご返答は?」頭目がたずねる。

「残した手紙にあったとおり」

「では、御免!」

 頭目が刀を返して、峰で春王の首筋を打とうとした。

 そこに扇が割り込み、顔を狙って斬撃を放つ。だが、それは相手の刀身を上に釣り上げるための見せかけで、扇はすぐ刀を寝かせ、刀身を自分のほうへ引きつけたまま、刀の柄を相手に向けて、前へ半歩進んだ。

「あっ!」

 頭目の狼狽した声。気づけば、頭目は春王へ跳んだ勢いをそのままにして、自分から鳩尾を扇の刀の柄頭にめり込ませることになった。

「ぐう……」

 頭目が沈み込むようにうつ伏せに倒れる。

「おのれ!」

 黒衣の少女が二人、扇を狙って飛び込んだ。二人とも数合打ち合わせるまもなく、扇の峰打ちを受けて倒れた。

 扇はすぐ後ろに跳んで、次にやってくる少女たちに構える。今度は四人で一斉にかかるつもりらしい。一人一人は勝てない敵ではないかもしれないが、人が多すぎる。囲み打ちにされたら一溜まりもない。

「太刀華屋って、雇ってる女の半分が用心番なんだよ。そんなんだから、いつまで経っても半籬なんだよ」

 春王が不平を唱える横では、不用意に打ち込んできた少女の一人を当身で気絶させ、その体を横にいなした扇がいる。

「全部で何人いる?」

「数えたことなんかない。まあ、五十を下回ることはないと思う」

 中庭や通り抜けの土間から次々と少女たちが現れ、波状攻撃の陣形を整えている。厨の寿も善戦しているようだが、このままではジリ貧だ。

 扇は舌打ちした。あまり気乗りしないが、最後の手段に頼るしかないようだ。

「春王」

 扇は春王にだけ聞こえるようにささやいた。

「ん?」

「耳を塞いで目を閉じて伏せろ」

 そう言うや否や、

「火薬中毒者!」

 扇は叫んだ。

「好きにやっていい! ただし、死人は出すな!」

 歓喜の叫び声のようなものが一瞬聞こえたかと思った次の瞬間には閃光、爆音、つんとくる匂いがいっぺんにやってきて、瓦ががらがらと落ち、屋敷の半分が吹っ飛んだ。

 聴覚と視覚をやられた少女たちがうずくまっているあいだに、扇は春王を連れて、爆風で開いた壁の穴から外に出て、走った。

 松の砂の道を走りながら、第二、第三の爆発とその風圧を背中に感じた。

 あいつを解き放つのははやまったかもしれないな。

 飛び切りの第四の爆風に体をあおられながら、扇は後悔と逆原に対する罪悪感のようなものを覚えた。

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