六の五
半籬を通り過ぎるころには先ほどの美青年は姿は張見世になく、扇たちはその後、交差した太刀に花模様の暖簾をくぐり、二階へ上ったところの小部屋にいる遣手爺に引き渡された。
丸い縁の眼鏡をかけた五十過ぎの男だったが、昔は張見世にいたのだろう。顔立ちは整っていて、腰も曲がらずしゃんとしていた。身ごなしや口調から外しきれていない堅さを見ると、武芸を長くやっていたようだ。ひょっとすると、逆原の花魁たちは武芸を教養として、やっているのかもしれない。天原の太夫が茶や花、歌に通じているのと同じ理屈で。
天原であれば、扇たちは引付部屋へ通される理屈だが、逆原では違った理屈が通っている可能性がある。それに今回はあの遊夫の身揚げということになっているのだ。
見世は半籬だが、位としては中の上の格式があるらしく、人にも座敷にも活気があった。石炭を原料とする新しい紫染めを着流した花魁の後を青い水干の禿が白銀仕上げの太刀を旗のごとく捧げ持ち、影のようについていく。中郎にあたる女たちは寝不足の目を腫らしながら、曲がり角に置かれた行灯の皿に伊賀焼きの灯油差しで油を足していた。どこに目を向けても襖の縁や汁椀に宿る形で漆と蒔絵のきらめきが扇たちの目を射抜いた。襖を取っ払って、水墨の鶴の屏風で区切った大部屋では鼓の音とともに衣ずれを鳴らしながら、屏風片手にひとさし舞う花魁がいて、と思えば、逆に花魁が笛を吹き、客の女のほうが舞うこともあるのが、実に対照的だった。だが、どちらにしても女性を心からくつろがせるための工夫が楽の音にまで染み入っているのが分かる。ただ、無粋というか、遊び下手な客もやはりいるらしく、いかにも一代で財を築いた女傑らしい大柄の女が童顔の花魁相手に絵入り新聞を手にして、どこか外国の疑獄事件の解説をしているのだが、その新聞に描かれていたのは、あの不思議な縦穴を落ちているときに火薬中毒者が見た麦藁帽から降る紙切れを上流人士が手につかもうと跳ねている風刺画だった。女傑はその紙を買えば、その利息だけで一生遊んで暮らせると声を大にして振るわせているが、その儲け話、よほど退屈な内容らしく、芸者の一人はあくびを噛み殺し、禿はうつらうつらと船を漕いでいた。
そのうち、松の葉のように色鮮やかな畳が敷かれた座敷に通された。座敷まで案内した下女が、花魁はもうじき参ります、と言い残して、去っていった。
部屋の調度を見ると、やはり引付部屋とは思えない。床の間には宋代のものと思われる青銅の長剣か鹿角の刀掛けに置かれていて、違い棚には翡翠で作った高台があって、瑠璃で美麗に彩色し羽を広げた鳳凰の姿を結ぶように砕いた紅珊瑚を緻密に埋め込んだ卵の殻が紫のビロードに鎮座していた。障子に力なく揺れる柳の影が映っていて、時おり灯の具合で道を横切る人の影がほんの少しだけかするように浮かぶことがあった。
花魁がやってきた。
赤地に虎を描いた羽織を両肩外して肘のところまで脱ぎ、黒い羽二重の長着の胸もとをわざと広げて網の目生地の襦袢越しに肌を見せる着崩したふうの着こなしが堂に入っていた。きっと見世一の花魁なのだろう。物腰や口調に余裕をたたえた気だるさが乗っている。漆塗りの鞘に螺鈿を施した脇差を落とし差しにしていて、着流しの衣から見える足は雪のように白く肌理細かいが、剣客のものらしく引き締まっている。
花魁は脇差を抜いて、右に置きつつ、膝をついて、三つ指を揃えて、頭を下げた。
「お呼びに応えていただきありがとうござんす。こちら太刀華屋でお職を張らせていただいております。春王と申します。どうぞ、よろしく」
挨拶が終わると、春王はすぐに姿勢を崩して、あぐらをかいた。禿が漆仕上げの煙草盆を持ってきて、煙管を一本取り、刻みをつめた。それを春王に手渡すと、マッチをすり、火を火口に近づけた。一服つけると、春王はご苦労さんと大きな銀貨を一枚禿につかませた。禿が下がると、春王は、ふーっ、と紫煙を吹いた。蒼みがかった煙は扇たちの目の前で、牡丹、手投げ矢、宙返りする軽業師と姿を変えながら、ぬるい空気に染み込むように消えていった。
「さて、と。じゃあ、天原とやらのことを聞こうかね」
扇は天原について知っていることをざっと説明した。空を飛び、日本中に顧客を持ち、料理屋専門の万膳町や職人町、ガス工場、飛行船発着場があり、経師ヶ池という大きな池があり、そこには籬堂という建物があり、総籬株といわれる三十名の有力者によって天原の運営が担われている、などなど。
扇の説明に時おり、寿が天原白神神社と常咲きの桜の仲町のことを挟んだ。意外にも常咲きの桜の話に春王は驚かなかった。ここにもすでに常咲きの桜があるという。
「一応、逆原の名勝だからね。あとで見に行ってみるといい。そっちの書生さんは? さっきから黙っているけど?」
「気にしないでくれ。頭のなかで発破解体の予行演習をしているんだ」
「そうか。まあ、気にするなというなら、しないことにする。けれども、あんたたちの話は聞けば聞くほど面白い。しかし、その天原とやらに戻るといっても、どうやって戻るね?」
「それは今、考えている」
「まあ、その前に少し腹ごしらえしていきなよ」
すると、計ったように襖が開き、四人分の土鍋が運ばれてきた。黒く柔らかな輪郭をした土鍋は南部の産らしい黒鉄の五徳に支えられていて五徳の下に敷かれた鉄の皿では固形燃料が燃えていた。蓋を取ると、ぼわりと白い湯気の玉が上り、脂が分厚く乗った鴨肉が切った葱とせりが添えられてぐつぐつと煮立っていた。次にざる蕎麦が運ばれてきた。一緒に食べろということらしい。
飲み物は酒かと思ったが、酒の他に陶製の水差しが用意されていて、中は梅の風味をつけた蜜をこめかみが痛くなりそうなくらい冷たい水で割ったものだった。
ずっと上り坂を歩いていて、すっかり空腹だった扇は遠慮なく戴くことにした。熱い鴨すきを食べつつ、冷たい蕎麦をたぐるというのは鴨南蛮や鴨せいろとはまた違う、なかなか通好みの食べ合わせだ。
「よしっ」
と春王が言ったのは、蕎麦湯で割ったつゆを飲み干し、とん、と蕎麦猪口を置いたときだった。
「その天原とやら、おれもついていくことにしたよ」
扇は驚いた。遊廓の仕組みをよく分かっていない寿と、そもそも知るつもりのない火薬中毒者は別段驚かない様子だが、もう半年以上、白寿楼の用心番をしている扇にとって、見世の花魁が揚屋に呼ばれるわけでもなく外に出るというのは〈鉛〉で言えば、脱走であり、許されることではない。いくら、全てがあべこべの逆原でもこの理屈は曲がっていないはずだった。
扇の案じ顔を軽く笑い飛ばして、春王は言った。
「おれの年季はとっくに明けてるから、いつだって出られるんだ。ただし、ここを出たところで行くあてもなし、ここの生活もそこそこ気に入ってたから、籠の鳥をやってきたが、あんたたちの話を聞いて、おれも腹を決めた。ここは一つ、外の世界で飛んでいき、天原とやら、見てやろうじゃないの」
「年季は明けていても――」扇がちょっと待ったと制しつつ言う。「楼主に話は通さないと駄目だろう?」
楼主と聞いて、一瞬、春王は困った顔をしたが、すぐ取り直し、
「なに、ちょっくら行ってくらの一言で済むさ。ただ、まあ、買われた身とは言え、世話になったわけだし、義理もある。時間が欲しいところだ……。で、相談なんだが、とりあえず、あんたたちは見世を出てくれ。で、この太刀華屋の裏にちっちゃい稲荷さまがあるから、そこで待っていてくれ。使いの女を一人よこす。そいつについて行って逆原八幡へ言ってくれ。そこで落ち合うとしようや」




