六の四
全てが逆であった。朱塗りの張見世でしなをつくっているのは羽二重を着流した美貌の男たちで、それを道から眺めるのは老若の女たちであった。みつ子という計算女史の言ったとおり、あたりには小柄でまるまるとした幇間らしき女が声真似や駄洒落で笑いと取って、客からおひねりをもらっている。かと思えば、桜花散らしを着流した二人組の若衆が二挺三味線で新内流しをしている。遣手は婆ではなく、爺であり、たいていは客に押されて、言い返すことができずにいる。もちろん楼主は女なのだろう。
見世と見世のあいだは人で混雑していた。軒に並んだ赤提灯の吐き出した光がこずんで、三歩も離れれば人は影のように薄ぼんやりとしてしまう。光が物事の輪郭をぼかすのは天原とかわりがない。ただ、すやり雲のような霞がかかるはるか遠くへ目を凝らすと、遊廓の上にさらに別の遊廓が重なるようにして、上へ上へ続いている。遠い景色は全てがぼんやりとしていて、建物の輪郭と瓦屋根のぎらりとした閃き、揺れ動く竹薮、灯の連なりだけがかろうじて見えるのだが、障子を開いた部屋だけはどんなに遠くてもくっきりと部屋の中が見えていて、若い男を侍らせた老婆の宴や誰もいない部屋に蚊取り線香の煙が宙で渦を巻いて溶ける様子までがはっきりと見ることができた。
寿は、ふうむ、と関心してつぶやく。
「なるほど。天原とは男女の役割が逆転しているから逆原。納得」
「納得してる場合か?」と、扇。「どう考えてもおかしいだろ? 天原がいくら大きいからってこんな巨大な空洞があるわけがない。嫌な予感がする。ここから脱出する方法を探さないと――」
「あの、扇さん。何だか道を行く人たちのぼくらに対する視線が変なものを見るような目なんですけど」
「そりゃそうだよ」寿が代わりに会話を引き取る。「だって、天原の遊廓に遊女を買いに来ず、かといって幇間や料理人でもない男がぽつんといたら、変に目立つもんね。しかも、一人は狩衣なんか着ちゃっててさ」
「お前の神さまは――」
「何にも。だから、神さまは何にもできないんだってば。しかし、たくさん女の人がいるねえ。ああ、女の人で思い出した。うちの神社に巫女さんを用意しないと。神社っていろいろ雑務があるらしいから、巫女さんを雇えって神さまが言うんだよ。すずちゃんなんて、どう思う?」
「友達として忠告する。絶対にやめておけ」
「でも、他に巫女さんをやってくれそうな娘なんていないじゃないか」
「でも、すずは止めておけ。忠告はした。後になって、なんであのとき止めてくれなかったんだなんて言わせないからな」
「扇さんはすずさんのことを警戒しますね」
「ついでに言えば、お前のことも警戒しているつもりだ」
「ぼく? ぼくはあなたの忠実な奴隷にして、火薬の愛好家です。警戒する要素なんてあるようには思えませんけどね」
三人はここから脱出できる道か助けになりそうなものを探しながら、廓を歩いた。上からやってきたのだから、梯子や上り坂、階段、ゼンマイの力で動く昇降部屋を探せばいいのだ。実際、三人は道が分かれていたら、より高いところへ行ける道を選んでいる。ほんのかすかな勾配も見逃さず、上へ上へと道を進んだ。だが、頭上は相変わらず白けた灯が漂っていて、ここが空洞であれば見えるはずの天井はまったく気配を見せない。かといって、風が吹かず、星も見えず、空気がぬるく一ヶ所に留まっていることを考えると、やはりここは外気から隔絶された空洞のなかなのだ。
三人に寄せられる視線は相変わらず、好奇に満ちている。芸者でもなく、見世の遊女――この場合は遊夫になるのだが、とにかく見世の若衆でもない、そして、一人は狩衣姿で一人は帯刀していて、一人は書生姿。そして、どうも一番珍しいと思われているのは意外にも書生姿の火薬中毒者らしい。その狂気を女性たちが見破ったのかと思ったが、見世に登楼る客のなかに女学校の生徒らしい少女たちの姿を見て、納得した。天原の遊廓に女学校の生徒はいない。それと同じで、逆原には学問を修める男――書生はいないのだ。
それに扇に言わせれば、火薬中毒者は本人もたぶん自覚していない状態で、天下の往来に見世物を提供するという特異的な体質がある。例えば、この歩く火薬庫はある種の火薬を飲み過ぎるとげっぷの代わりに火花を吐く。火吹き男は見たことがあっても、口から花火を吹くのは聞いたこともないだろう。だが、今も火薬中毒者は火薬を飲みすぎで、七色に光る火柱を口から吐き出している。道を行く人々はそれに喝采を送り、火花を吐くために上を向いた拍子に頭から滑り落ちた学生帽に小銭が投げられている。ひょっとすると、女ではなく、男が妊娠するのかもしれない、このあべこべの世界でも口から花火を吹く男は十分観賞に堪える見世物であるらしい。だが、この一帯でお客のご機嫌取りをしている女幇間たちが火薬中毒者のげっぷ花火を縄張りの侵害と見なしたらしく、火薬中毒者に制裁を加えるべく襲いかかろうとするも、げっぷ花火の火花を恐れて近づくことができないでいた。だが、この調子だと扇が火薬中毒者の一味だと思われるのも時間の問題だ。そう思って、火花と理不尽な幇間たちの敵意が降りかからないところへ移動しようと見世の軒へ寄った。その先の張見世の遊夫が一人、格子のなかから扇に声をかけた。
「あんたたち、どこの見世の若衆だい?」
脇息にもたれかかった美男の遊夫は柳葉のようにすっと切れた目をとろけるような笑みを崩してたずねた。
「ここのものじゃない」
扇は言葉短く答えた。どうせ天原と言っても、分かりはしないだろうと思ったからだ。
「ここじゃない? じゃあ、どこから来たんだい?」
人懐っこい顔の遊夫が食い下がる。扇は肩をすくめ、
「上から来た」
「上?」
「この上だ」
美男の遊夫は物憂げな顔に少しばかりの興味を浮かべて、張見世の格子越しに見上げた。その目に映るのは、幾重にも重なる遊廓の幻のような景色。
「上って、どのくらい上だい?」
「とにかく上だ」
「そこは何て呼ばれているんだい?」
「天原」
「天原? そこじゃ何をして暮らしてるのさ?」
「遊廓がある」
「へえ、逆原の上に遊廓ねえ。聞いたことがないなあ。いや、そもそも逆原の外にどんな世界があるのかなんて、考えたこともないや。おれたちは、まあ、籠の鳥だからねえ。あんたも見世で職を張っているのかい?」
「おれは見世の用心番だ」
「男の用心番とは珍しい」
「信じないかもしれないがな、天原では全てが逆だ。張見世には女が座る。花魁は女だ。幇間は男で、芸者は女。楼主は男で、下働きも男がする」
遊夫は袖を手元に寄せて、くすくす笑った。
「その説で行くと、遣手は爺じゃなくて、婆ってことになるね」
「実際、そうだ」
「あはは。そりゃ大変だ。遣手が婆になったら、見世も客も窮屈でしょうがない。しかし、あんたたち、面白いねえ。もっと話が聞きたくなったよ」
遊夫は手を打って禿らしき少年を呼ぶと、その耳にささやきながら、手で格子の外にいる扇たちを指差した。禿が張見世から見世の玄関のほうへ消えると、紺の縞の地味な小袖に垂髪の番頭らしき年増が現われて、
「こちらへどうぞ」
と、三人を見世のなかへ案内した。




