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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第一話 〈鉛〉の扇と〈的〉の虎兵衛
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一の九

 雇人たちの食事部屋は〈鉛〉の一膳だけ残して全て片づけられていた。大夜が袴姿で脇差一本を膝の上に乗せてあぐらをかいていた。他の中郎たちはみな仕事に出たらしく、板張りの大部屋には〈鉛〉と大夜の二人だけしかいない。

「まずは腹ごしらえをしな」大夜が言った。「あんた、棒は使えるかい?」

「使えたらなんだ?」

「稽古に付き合えよ」

「おれは〈的〉以外を傷つけることは禁止されている」

「それについては昨日決まりが変わった。あんたが大将を襲ったとき、あたしと半次郎と泰宗は大将を守るために得物を手に取る。それで戦った末に怪我をさせたり、死なせたりしてもお咎めなしってことになった」

「それでなぜおれがあんたの稽古に付き合わなきゃならない?」

「あたしの技とか力量とか測れるうちに測っといたほうがいいんじゃない? 今なら、それもさせてやれる。もちろん、棒の当たり所が悪くてくたばってもお咎めはない。大将の同意は得てる。で、やるの?」

「……ああ」

「じゃあ、さっさと昼飯平らげて、腹ごなしの鍛錬と行こうや」

 白寿楼には大きな池の中庭が二つある。一つは廊下に四方を縁取られ、中央に亭が一つある昨日の中庭で、もう一つは狂言舞台を組んだ池でこれは岩や熊笹に縁取られていて、一年じゅう白い花をつける柳のような樹が植えてあり、その枝花が檜舞台を撫でるか否かの宙をゆらゆら揺れている。

「ここがいいや」

 大夜が八尺一寸の棒をぐるんと振るって、五間四方の舞台に立つ。

〈鉛〉もすでに棒を一本選んだ。長さは自分の体格と身の丈に合った七尺五寸の六角棒、重さもさほどのものではない。

「決まりは簡単」と、大夜が声を張る。「刀と手裏剣はなし。棒だけ。ただ、蹴りと拳はありとする。どちらかが参ったといえば、試合終了。それか、ぶっ倒れて、伸びちまったら、試合終了。死んだら、試合終了。池に落ちた場合、また這い上がって試合再開。どんなに長引いても暮れ六つの鐘が鳴ったら、試合終了だ。客が登楼あがるのに、あたしらが棒で殴り合ってたら、見世の仕事に支障をきたしちまう。他に何かつけくわえることはあるか?」

「殺してもいいんだな?」

「おう。やれるんなら、やってみな」

 な、と言った瞬間、〈鉛〉が前屈みになって大夜へ跳んだ。構えた棒と体の位置を入れ替えるようなこなし方をして、体の重心をまっすぐ保ったまま、足元からの巻き打ちを仕掛けた。

 それが大夜の棒の石突近くで叩き伏せるようにして防がれるが、それは想定のうちで、〈鉛〉は相手の棒の勢いを自分の棒に乗せて、さらに低い場所――大夜の足を草伏せに払う。

 大夜はギリギリで跳んで避けるが、着地するまでに〈鉛〉は三度の浴びせ打ちを食らわせ、それを大夜が打ち返して防ぐ。

 大夜の足が板床についたころには〈鉛〉は間合いを二間ほど空けて、構えを上に直していた。

 予想以上に一撃一撃が重い。お互い、そう思い、戦術を考える。

 相手に息切れするまで打たせて、隙を作らせる。

 だが、打ち込ませ方が難しい。大夜はわざと体の正中線を外すような構えをしている。それが誘い込みなのか、死角からの一撃を用意しているのか分からない。

 しばらく睨み合いが続く。

 先に動いたのは〈鉛〉のほうだった。大夜の顎を狙った突きを繰り出し、それが左へ弾かれると、今度は右手に残った棒の先を横鬢に叩きつけようとする。

 大夜は〈鉛〉の棒を下に押しつけるようにして棒をめぐらせ、自分のこめかみと〈鉛〉の六角棒のあいだに自分の棒をぎりぎりで挟み、致命傷に繋がりかねない一撃をかろうじて棒で受ける。

 その後はお互い、棒を合わせたまま、剣でいうところの鍔迫り合いが続く。

 数瞬後、突然、大夜の目がギラリとずるそうに光った。

〈鉛〉が気づいたときにはすでに遅かった。

 大夜の頭突きが〈鉛〉の額にもろにぶちあたる。

 頭がくらっとした次の瞬間には、螺旋打ちの逆胴の一撃が〈鉛〉の腹にめり込んだ。

「ぐっ――」

 肺の中の空気が全て吐き出され、次の息が出来ず、体が痺れる。

 手から棒が離れた。

 膝をついたまま立ち上がれない。

 このまま、棒の乱打を食らうかと思っていたが、大夜は少し離れたところに立ち、ニヤニヤしている。

「ん? どうした? 参った、って言ってもいいんだぜ?」

 誰が言うか。

〈鉛〉は呼吸を取り戻し、棒を手にして、脇腹に残った痛みを堪えて立ち上がる。

「こんなもの、施設の訓練に比べれば、カスだ」

「おっ、言うじゃねえか。おもしれえ」

 今度は大夜から打ちかかった。膝を曲げてバネのようにしならせた跳躍からの振り下ろし、さらにまわし蹴りに対し、〈鉛〉は棒を体の後ろにまわして、避けに徹する。

〈鉛〉が後ろに飛び、二間半の間合いが空く。

 七尺以上の棒を逆手持ちにして、棒そのものは体の後ろにまわしたままにしてある。これでは相手の打撃を受けることは不可能だが、〈鉛〉も頭突きの返礼として、ちょっとした変わりダネを用意していた。

 大夜はその変わりダネが何なのか、探るつもりでちょこちょこ突きと回し打ちを仕掛けるが、〈鉛〉はあくまで避け続ける。

 大夜の予想は、大夜が七尺の間合いに入ったら最後、〈鉛〉が逆手持ちにした棒をそのまま振り上げて、伸ばしながら叩き伏せるような一撃を見舞うつもりだと踏んでいた。打ち合った感触としては、〈鉛〉にはそれができるだけの握力がある。

 そして、大夜にはそれを叩き返し、棒を相手の手からもぎ取るくらいのことができる。

 大夜は相手の罠にあえて、はまることにした。〈鉛〉の体の中心を狙って、前へ跳び、思い切り踏み込んで一気に突く。もちろん、繰り出される振り下ろしを払うことを前提にして、やや下段を狙って突く。

〈鉛〉はこのときを待っていた。大夜が思い切り突いてくるや否や、膝を曲げ、後ろに回した棒の石突で板床を強く突き、その反動と膝のバネで〈鉛〉は八尺の高さに跳び上がった。

 大夜は突きを外し、前に出すぎた。相手の真の狙いに気づいたころには、〈鉛〉が両手持ちにした七尺五寸の六角棒が大夜の背中の真ん中を激しく打った。

 大夜は何とか体勢を保とうとしながら、たたらを踏み、その場にうつ伏せに倒れた。

 大夜のうなじが見えた。意外にも遊女にも負けない陶磁器のような白いうなじだった。

 そこに突きを食らわせれば、延髄と頚骨が砕けて、大夜は即死する。殺してもいいことになっているのだから、任務をより確実に遂行するための前準備として、いい機会のはずだった。

 だが、〈鉛〉は追い討ちをかける代わりに倒れた大夜から三歩下がり、

「降参か?」

 と、自分でも思ってもいない言葉を口にした。

 しかも、それを楽しんでいる自分がいることに驚く。

「はあ? 降参?」大夜は素っ頓狂な声を上げると、棒を手が白くなるほど強く握り、ガバッと跳ね起きた。「あんなんで、参るか、アホ。ちょうど背中の筋が突っ張ってたから、いい塩梅に凝りが取れたぜ」

「そうか」

 そして、また構え、殴りあい、ぶっ倒れて、虚勢を張り合う。

 大夜が〈鉛〉の鳩尾にまわし蹴りを食らわせると、

「お前の蹴りなどきいてない。足が少しつっただけだ」

 と、返す。

 今度は〈鉛〉が大夜の首筋に回し打ちをきめると、

「あーあ、ちょうど寝違えが治ったぜ」

 と、強がる。

 大夜が〈鉛〉をぶちのめし、地に伏せさせる。

「足がすべっただけだ。中郎たちの掃除が丁寧すぎたせいだ」

〈鉛〉が大夜に逆太刀打ちを食らわせ、倒す。

「今のは、笑って笑って笑い倒れただけだ。お前が逆太刀打ちなんかでくすぐるからだ」

 午後いっぱい、二人はどつきあい、強がりを言い合い、立ち上がり、戦った。

 暮れ六つの鐘が鳴るころには大夜が仰向けに倒れて、〈鉛〉がうつ伏せに倒れて、棒は疲労困憊した手から離れて、まわりの池に落ちていた。体力も強がりの言葉も尽きていた。

 白い花をつけた樹の枝がさらさらと鳴っている。

 大夜が仰向けのまま、肩で息をしながら、

「ゼエゼエ……勝負は……引き分けだ。……まあ、あたしが百歩譲っての話だけど」

「はあはあ……っ、ふざけるな。おれはまだやれる。そっちがやめたがっただけだ」

「はあ? やめるのは暮れ六つで客がやってくるからだ。客に棒でぶっ叩きあってるところなんて見せらんねえだろが」

「やろうと思えば、簡単に殺せた。少なくとも二十八回はその機会があった」

「あたしだって、あんたの脳天をぶち割る好機が四十二回あった」

「その首をへし折る機会が五十九回あった」

「体じゅうの骨をぶち折ってやる追い討ちの乱打を八十一回我慢した」

「わかった。最後の一戦だ。それでケリをつける」

「上等だ、コラ。お月さんまでぶっ飛ばしてやるから覚悟しやがれ」

 と、言葉だけは威勢が良かったが、実際のところ、言葉と言葉のあいだにぜえぜえとあえぐのが挟まり、また体じゅうが痛くて痛くて、とてもではないが二人とも立ち上がることができなかった。

〈的〉がやってきたのは物を言う気力もなくなったころだった。

「ほう、こりゃあ、また。酒の肴になりそうな、ずいぶん面白そうなことをしてるじゃないか。なぜ、おれを呼んでくれなかった?」

〈鉛〉は肩で息をしながら〈的〉を見た。相変わらず直垂に衣を肩にかけていて、〈鉛〉の顔を真上から見下ろしてケラケラ笑っている。体さえ動けば殺せる位置に〈的〉がいるのに何もできないことが悔しくて、呻き声が喉からもれた。

「おーい。誰か」〈的〉が雇人を呼んだ。「二人を羽衣湯はごろもゆまで運んでやれ。こんなザマぁ、お客に見られた日にゃ、いくら小田巻きがあっても足りやしない」

 さっそく籠編みの担架が二つと四人の雇われ人足がやってきて、ボロ切れのようになっている二人を担架に乗せて、移動し始めた。

「羽衣湯てのはな」

 と、〈的〉が扇子で自分の首筋をピシャピシャ打ちながら、〈鉛〉の担架の横を歩いている。

「天原遊廓で唯一の温泉でな。名前の由来は浸かると羽衣に包まれたように、すーっと体が軽くなって、疲れも怪我もぽーんとなくなるってことだ。知る人ぞ知る、天原の隠れた名所だ。だが、混浴じゃないから、変な期待はするな――といっても、その体じゃ女湯を覗くどころじゃないか。まあ、湯治を楽しめ」

〈的〉はオモテのほうへと引き返していった。

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