五の十九
壁一面にはまっている白く滑らかな砕石が縦に伸びた光を映していた。それは西の壁に細長く切られた窓を埋める夕暮れの光だった。
仙十郎はその窓に立った。見える海は光をかぶった波頭とうねりの紫の影が複雑に混じり、蠢き、滲む。炉からこぼれる溶鉄のような夕光が海に注ぎこまれ、金色に泡立っているようだった。
こうして立って目を細めていると、仙十郎は夕焼けを眺めているように見えるだろう。
だが、実際はこの窓から誰かが侵入して、誰にも気づかれることなく紗枝の脱衣籠に手紙を置いて、また立ち去るようなことができるか、半ばすがるような心持ちで確かめていた。
そして、分かったのはこの窓は細すぎたこと、出入りできるのは猫くらいのもので、しかも気づかれずに通るのは無理だということだった。どうやったって、ここで休んでいた紗枝と椿、それに立ち合いをしていた扇とすずに姿を見られる。しかも、窓の下は崖でその下には鋳物工場がある。
後ろへ体をめぐらせるようにして窓から離れて、横の壁に背をつけると、そのまま座り込んだ。
ここから全てが始まったのだ。紗枝が幽閉され、椿が自分を裏切り、そして、二人の騎士団幹部が殺された。
最良の友が最愛の妹に罪をなすりつけたという事実を、仙十郎は今から受け入れなければならない。
そして、裁きをつける。
そばの長椅子には四本のレイピアが並んで置いてあった。突くのに特化した西洋の刺突剣で、そのうち二本は切っ先を丸めた練習用の剣で、二本は重い鍔籠をつけた真剣だった。
白いフェンシング用の稽古着を着た椿が現われた。防護用のマスクを脇にかかえて、歩いてくる。
「こんなときに剣の稽古を?」
「むしろ、こんなときだからこそ稽古をして、平常心を得たいんだ」
「そうか。それもいいのかもしれないな」
「ああ。今日はレイピアを付き合ってくれ」
「よし。引き受けた」
防護マスクをつけて、練習用の剣を手に取る。右肘を軽く曲げて、切っ先は下から上へ相手の喉を狙う位置にすえる。左手は曲げて顔のすぐ横で構える。
仙十郎が右足を大きく踏み込んで身を入れた突きを繰り出す。椿がそれを弾きながら右へ避け、顔を狙って剣を一振りする。
仙十郎は刀身の根元でそれを受けつつ、後ろへ身を引きながら、相手の剣を巻いて牽制の突きを繰り出す。
刹那、牽制の突きへ自分から刺さりに行くように椿が前へ身を移し、ギリギリのところでまた右へ体を反らしながら、仙十郎の右腕の下へ剣を突き、右の脇腹を捉えた。
「もう一度頼む」
「ああ」
もう一度、剣を相手の喉に向けて構える。
剣を打ち込むときだけはあの書類に記された残酷な真実を忘れられる。
いっそ、このまま剣を振り続けていたい。
そうしないと、阿片への憎悪で頭がおかしくなりそうだ。
体だけでなく、心まで蝕む悪魔の薬が、椿の復讐と憎悪を正当化し、実の姉のように慕ってきた紗枝を生贄にし、何も知らないふりをして自分を騙し続けさせてきた。
なぜ?
仙十郎の切っ先が椿の剣を巻き上げ、そのまま胸と首のあいだを突いた。
衝撃を受け損ねた椿が危うく後ろへ倒れそうになる。
「いい突きだ。まだ、やるか?」
仙十郎は背を向けて、間合いを取り、構えるかわりに壁際の長椅子へ向かい、そこに置いた書類を手にした。マスクを取って放り捨てる。そして模擬剣を置いて、真剣を手に取った。
「仙十郎? 一体――」
同じようにマスクを取ってたずねる椿に、仙十郎がコルク板に止めた書類を投げる。
椿はそれを拾い、目を通した。
「あのとき、紗枝に偽の手紙を置くことができたのはお前だけだ」
椿は紙面に目を落として微動だにしない。仙十郎は続ける。
「なぜだと思って悩んだ。だが、動機が分かった」
剣を一本椿のほうへ放った。
「その書類に書かれたことは本当なのか?」
「ああ……」
「騎士団で阿片を扱うものがいた。その復讐のために紗枝を生贄にしたのか?」
「……違う」
「なぜあんなことができた!」仙十郎が叫んだ。「……おれを騙すのはいい。阿片の毒に負けた幹部たちを裁こうとするのも分かる。復讐したくなるのも当然だ。だが、どうして、紗枝を犠牲にした? 本当の姉のように慕い、憧れ、お前のような騎士になることを目指していた紗枝をどうしてあんなふうに裏切れた?」
「紗枝に手紙は出していないし、お前も紗枝も裏切ってなどいない。騎士団の幹部を殺してもいない」
仙十郎は剣の鞘を払って捨てた。
「構えろ」
「聞け、仙十郎――」
「構えろ!」
叫ぶと当時に、上から振り下ろすような斬撃を放った。椿が咄嗟に払った鞘を投げて、それを避けると相手の間合いから外れるべく後ろへ跳んで、剣を構えた。
「誤解だ!」
左足を後ろに残した姿勢から繰り出された俊敏な切っ先が椿の左頬をかすめた。紅潮した頬に濃く赤い線が滲む。
次の突きを鍔籠で受けて、お互い体をもつれさせた鍔迫り合いに持ち込み、何とか抑えようとする椿に対して、仙十郎は逃れようとして激しく腕を動かす。
「頼むっ、話を聞いてくれ!」
「うるさい!」
椿を蹴り外し、すぐ身を低くする。体勢を崩した椿に真下から真上で突き上げる。椿の剣が巻き上げら胸の守りががら空きになると、突き上がっていた仙十郎の刃は向きを変え、上から下へと急降下するツバメのように椿の胸へ突きかかった。
胸を突き通した、と思った瞬間、剣が不自然な力に捉われて、気づくと、頬を殴られて、そのまま転倒していた。
椿を串刺しにしているはずの切っ先は扇の手に握られていた。血が刀身を伝い落ちて、鍔籠の透かし彫りをなぞるように垂れていく。
「手紙は椿の仕業じゃない」扇が言った。「少なくとも誰にでも置くことができる」
「なんだって?」
扇は剣を放し、剣は板床の上に落ちた。扇は懐から取り出した布で右手と歯と使って、器用に手の平の傷を縛る。
「二人とも来い。どうやって犯人が手紙を置いたかを見せる」
更衣室の重谷紗枝の棚は相変わらず誰にも使われず、空っぽのままだった。
扇は懐紙を手紙のように畳んで、棚の天板の裏に押しつけた。
手紙は落ちることなく、そのまま天板にくっついている。
「簡単な仕掛けだ。上からでは見えない天板の裏に糊で手紙をくっつける。そして、後は糊から外れて落ちるのを待つだけだ」
言っているそばから、くっつけた紙は重力に負けて、ぺりぺりと音を立てて、剥がれ始め、間もなく空っぽの籠のなかに落ちた。
「さわってみろ。まだ糊が少し残っている」
仙十郎が手を触れると、確かに天板の裏が一点、少しべたついていた。
「紗枝の稽古の時間は決まっていて、手紙が糊から外れる時間も何度か試せば把握できる。椿以外にも手紙を置くことは可能だ」
仙十郎が膝をつき、その場で腰を下ろした。膝が震えて立つことができなかった。親友を疑い、取り返しのつかない過ちをあと少しで犯してしまうところだったのだ。
「おれは――」
肩に重さを感じる。椿の手だ。仙十郎がそのままどこか、二度と戻れない場所へ行ってしまわないよう、しっかりと抑えていた。
「すまない。椿。本当にすまない――」
仙十郎の手が肩に乗った椿の手に重なる。
「いい。気にするな。こちらも下手に出自を隠さず、もっと早めに教えておけばよかった」
扇が声をかけた。
「しんみりするのは後にしろ。大急ぎでここを出ないといけない」
「何かあったのか?」
「おれがここに行こうとした直前、トサ商館に最後の騎士団幹部に関する匿名の手紙が舞い込んだ。島に隠された阿片を積んで逃走するつもりらしい。手紙は監察や海軍、軍務庁にも行っているようだ」




