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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第一話 〈鉛〉の扇と〈的〉の虎兵衛
8/611

一の八

――ゲホッ。へへ。もう、しゃべるのも辛いや。

 ……。

――最後はやっぱり、三三二〇にやってもらおう。

 どうしておれなんだ。

――おれ、〈鉛〉として生きるの、嫌だった。だから、人を騙して陥れて殺すことは、楽しいことなんだって、自分を騙して……陥れて、結局、自分も殺しちゃったんだ。でも、ゲホッ、ゴホッ……生まれた場所が違えば、おれは明るい能天気として、三三二〇とうまくやっていけるような気がした。そう、ゲホッ、ゲホッ、ゴホッ! ゴフッ……う、ぐ……生真面目なキミと楽天家のおれ。いい友達に、なれたと思うよ?

 友達?

――そっ。でも、もう、無理、だ。殺し、すぎたし、それを……楽しんじゃった、もんね。楽園も、見つけられなかった。だから、三三二〇。最後のお願い。一息に、やっちゃっ、て、よ……。

 ああ。

 刃を横に構え一息に薙ぐ。

 三三二一番の首はころりと落ちた。


 目が覚めた。〈鉛〉は布団をかぶらず、壁によりかかったまま眠っていた。まだ、日も昇ったばかりらしく、真横からの曙光が襖に差しているが、まだ暗さを払いきれていない。

 部屋を出ても誰もいない。昨夜あれだけ騒がしかった厨にもだ。食材棚は空っぽで、黒い鉄製の西洋竃のなかで灰が冷たくなって積もっていた。

 厨を横切って、廊下を静かに歩く。カエシにある中庭の一つに井戸があった。服を脱ぎ捨て、寸鉄帯びぬ裸姿で頭から冷水を浴びた。

 冷水が冴えた思考をもたらすことを期待して、考える。そろそろ機関は〈鉛〉からの定時連絡がないことを怪しむだろう。新しい〈鉛〉が数人送られる。おそらく新しい〈鉛〉たちも客や雇人に化けて潜入するのが難しいと踏んで、襲撃を強行するはずだ。

 第二陣の〈鉛〉たちが〈的〉の暗殺に成功すれば、任務を遂行できなかった自分は粛清されるだろう。たとえ、今から自分の手で〈的〉を葬ったとしても、時間がかかり過ぎた。機関は粛清こそしないが、死ぬこと間違いなしの任務を割り当て、それで片づける。

 どのみち死ぬと分かると、気が楽になった。昨日から胸のなかにこずんだ靄のようなものから解放されるのだ。

 小さな足音を聞いたのは、七杯目の冷や水をかぶったときだ。振り向くと、花魁たちに使われる禿と呼ばれる少女がひとり、木綿の小袖姿で小さな籠を持っていた。

「新しい着替えです」

 禿は籠から服を出した。驚いたことに〈鉛〉がこれまで着ていたのとまったく同じ服だった。黒い上衣は襟が首にぴったりとつく丸く高いもので、ズボンは灰色。飾り家のない長靴は三つのボタンでとめるようになっている。着てみると寸法は少しの狂いもない。動きを阻害しない服の作りが完全に再現された仕立てとなっていた。

 寸法がきちんと合っている理由はすぐに分かった。〈鉛〉はここに来てから、二度気を失っている。服の寸法ならそのときいくらでも取ることができただろう。

 問題は〈的〉が〈鉛〉のために着替えを用意したことだった。まるで〈鉛〉がここに長居するかのように思っていると勘繰りたくなる。その一方で届けられた肝心の服は機関が考案した暗殺者用の服なのだ。

〈的〉が少しでも自分の命を惜しむなら、〈鉛〉に渡される着替えは〈的〉が着ているような袖が大きくて動きにくい直垂のような着物のはずだ。

 いや、そうであるべきなのだ。

〈鉛〉がこれまで住んでいた世界ではそうだった。

 ひょっとすると〈的〉は狂人なのかもしれない。〈鉛〉はいよいよその疑いを強めた。これまで狂人を殺したことはないし、狂人は苦手だ。狂った人間はどんなことをしでかすのか、まったく予想がつかない。

 禿は〈鉛〉が新しい衣服に着替えると、古いほうは洗濯に出すつもりか持ってきた籠にかき集めた。服を籠に入れると、

「正午に太夫が会いたいと申しております」

 少し間を置いて、

「どうか楼主には内密に願います」

 と、つけくわえると、籠を前に抱えて去っていった。

 刀を吊るしたベルトを身につけながら、太夫とは何だったか、思い出そうとした。思い浮かばない。〈鉛〉は二日間、〈的〉は観察したが、見世そのものについては注意を払わなかったし、遊女にしても同じだった。元々、強襲で仕留めるつもりだったので、見世や遊女の習慣の熟知が任務に必要とは思われなかった。

 そのため、太夫といわれても、〈鉛〉にはピンと来ない。そもそも太夫とやらが、任務遂行の役に立つのだろうか? 他人を傷つけることを禁じられている以上、関係のない人間に接触するのは避けたかった。時間の無駄だ。

 そのうち、中郎たちが起き出して、遣手と呼ばれる例の口うるさい老婆が早速指図を飛ばし始めた。〈鉛〉は鋳鉄製の西洋竃を掃除し、黒鉛を塗る作業を命じられ、それに没頭した。何もしていないと、あの息苦しい靄のようなものが心に浮かんで、苦しくなるからだ。

 柱時計から正午の鐘が鳴り、中郎たちはカエシの厨近くの大きな一間に集まって、飯とすまし汁、香の物と簡単な昼食を取ることになった。〈鉛〉もそちらに行こうとすると、例の禿が後ろの通路からこちらを見ている。少女は手招きをした。

 訝しいと思いつつも、〈鉛〉は少女の手招きに応じた。少女は、こっちこっちと、〈鉛〉をオモテへ連れて行き、凸形吹き抜けの迎えの間から階段で三階へ昇った。そこは遊女たちの住処兼仕事場であり、座敷持ちの遊女たちが世間話に興じたり、新造たちが札遊びに興じたりと、カエシよりもゆっくりとした時間が流れていた。夜の喧騒が嘘のようにおだやかで、女たちはすっかりくつろいでいる。

 太夫は遊女のなかでも最も位の高いものらしいことがわかってきた。というのも、〈鉛〉が太夫の部屋へ向かうのを遊女や新造たちが興味深げに覗いているのだ。

「あい、こちらでございます」

 少女はそう言って三階の廊下の奥、二つの障子窓に挟まれた前に立ち、腰つき障子越しに連れてきましたと、声をかけた。

「入りなんし」

 気だるげだが、芯が通った声が中から聞こえてきた。

〈鉛〉は障子を開けて中に入った。和室があり、さらに奥の一間に煙管を手にし、脇息にもたれかかる打掛うちかけ姿の太夫がいた。高い鼻筋、小さく形のよい唇、そして、すっと切れた目は人の視線を絡めとらずにはいられない、天性の魅力を備えているようだった。

 部屋を見たところ、蝶の螺鈿細工が施された黒漆の煙草盆、蒔絵を施した襖、羽毛をたっぷり入れた布団、床の間の軸は栄華を誇る唐の都の彩色画がかかっていて、違い棚には白金の南蛮燭台が乗っている。やはり太夫は見世で最高位の遊女らしい。

 最高位の遊女が自分に何の用があるのか。

 相手の意図を読もうとジッと太夫の顔を見る。

 太夫も〈鉛〉の顔を見返す。

 お互いの意図を盗み取ろうとするような観察の応酬が数分続いた。

 そしてついに太夫が、

「噂どおり、ほんに外見そっぽのきれいなお人だわいな」

 と、クスクス笑いながら、言い出した。

「おれに何の用だ?」

 太夫はその問いに答える代わりに、脇息から離れて背筋を伸ばすと、きちんと指を揃えて手をついて、

「申し遅れまして。わちきはこちらでおしきを張らせていただいております、朱菊あけぎくと申しんす」

 深々と頭を下げた。そして、顔を上げると、

「わちきはぬしにたった一つねがいがござんすよ。まずはこれを――」

 脇にある紫の袱紗で包んだものをずいっと〈鉛〉のほうへ押しやった。

「どうぞ、開けなんし」

〈鉛〉は近づいて、膝をつくと袱紗を解いた。

 束になった小判が四つ並んでいた。

「百両ありんす」と朱菊太夫。「それを持って、天原から出て行っておくれなんし」

「なんだと?」

「きいたところ、ぬしは己を道具と思っているそうでありんすな。なら、その道具、この朱菊が百両で買い上げさせて貰いんす」

 汚らわしいものを見る目を小判に、そして、太夫へと向けてたずねる。

「〈的〉の差し金か?」

「〈的〉とは楼主のことでありんすか? それは違うざます。楼主は知りいせん。これは全てこの朱菊の一存でありんす」

「一体どういうことだ?」

 朱菊太夫は、ふふ、と笑い、

「道具。それはわちきも同じことでありんす。所詮、遊廓の女は男に買われる道具でありんす。けれど、わちきはそれを空しいと思いはしんすまい。人はときどき人よりも道具のほうを愛おしく思い、大切にすることがありんしょう。茶器や刀がいい例で。主人の盆栽の枝を折って手打ちにされた家来もあるくらい。わちきらも昔は大名道具と呼ばれたもんでありんす。でも、楼主は太夫から禿まで決してなおざりにはせなんす。知りなんすか? 一ツ仕事といって、白寿楼では遊女から禿まで、もし廓から離れても生きていけるよう仕事を覚えさせるのでありんす。それも炊事や針仕事のようなありきたりなものでなく、電信士や帳簿つけ、速記といった、下の世界でも通用し欲しがられる仕事をつけさせるのでありんす。ここまでいえば、わかりんしょう。楼主はこの見世の女全てを愛おしく大切にしなんす。女一人一人が生を全うすることに興を見出しているのでありんす。そんな楼主が亡くなれば、白寿楼は、いや天原は苦界に落ちなんす。だから、この百両、黙って受け取って、二度と天原に戻らないでおくれなんし」

「ふざけるな。おれは――」

「道具ではない、と言いなんすか?」

「……違う」

「なら、何の問題がありんしょう? 道具なら金で購えるのは世の習いでありんす。これを受け取ってくれなんし」

「帰らせてもらう」

 出口へ向かう〈鉛〉の背に朱菊太夫の、影を縫うような鋭い言葉が飛んだ。

「楼主がどう仰言ているか、詳しくは存じ上げ申しませなんだが、もし、ぬしが楼主をあやめたときには、わちきは必ずその償いをさせる覚悟でありんす。そのこと、この見世の全ての女子おなごの言葉と思っておくれなんし」

〈鉛〉は背を向けたまま、顔だけ振り向いた。先ほどと変わらぬ表情で脇息にもたれた太夫がいる。ただ、最初と違うのは、太夫が発する、〈鉛〉ですら肌が粟立つほどの殺気だった。

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