五の十六
「何か報告することはないんですか?」
安楽椅子探偵、時千穂すずが瓶から金平糖を取り出してはぽりぽりやりながら不平を漏らす。
「何か、こう、怪しげな噂とか、目撃証言とか」
翌日の午前もはやい時間。トサ商館の世界地図の部屋に扇、すず、仙十郎、椿が集まっている。扇以外の三人は紗枝の現在の状態を知りたがっていた。
特に仙十郎はそのことが気になって落ち着かない。
「伝言はきちんと伝えた」扇がなだめるように声をかける。「それに十字架も渡したし、食事もきちんと取るよう忠告した」
「あいつ、断食してたなんて……」
仙十郎は言葉を失い、怒りに震える。
「犯人の野郎、見つけたら、この手でバラバラにしてやる」
「阿片について何か分かったか」
扇の質問に椿が首をふった。
「だめだ。あちこちにたずねてまわり、カマもかけてみたが、収穫はなかった。それにしても、信じられない。副総長が阿片の密貿易に絡んでいたなんて。確かな情報なのか?」
「ああ」
「だが、情報源は明かせない?」
「そういう約束なんだ。それにやつらの名を明かしたとしても、もう、そいつらは長崎にはいない。すまないが、もう一度、阿片絡みの事件が起こっていないか調べてもらえないか。島以外にも本土や長崎、あるいは近隣の国でもいい」
「早速やってみよう」
椿が出て行き、街の坂を上るのを見てから、扇が言った。
「紗枝に手紙についてたずねた」
「何と言っていた?」
「剣術場で稽古を終えて、自分の衣類棚を見ると、手紙が置いてあったそうだ。一枚紙を糊で内側に閉じて封をしてあったそうだ。表には『紗枝へ 仙十郎』とだけ。文面はおれたちがもう知っているとおり。あんたの名前で副総長の宿舎に呼び出す内容だった。それに手紙を他の誰にも見せるな、肌身離さず持っていろの警告つきだ」
「進展はなしですか」
「そうでもないんだ」
扇は安楽椅子のすずに言い、
「あんたがカステイラをおいしく食べたいと言って、おれたちが剣術場に行ったとき、あの剣術場には紗枝と椿がいたよな?」
「そうですね。壁の長椅子に腰かけていた気がします」
「紗枝が言うには、椿と二人で剣術場に着いたときは誰もいなかった。更衣室にも誰もいなかった。もちろん手紙もない。しばらく稽古すると、おれたちがやってきた。そして、おれたちは稽古が終わると、そのまま出て行った。それでその後、椿がまず更衣室へ行き、着替えた。そして、先に帰っていった。最後に残った紗枝が更衣室に行くと、籠に入れた脱衣の上に手紙が置いてあった」
「待ってくれ」仙十郎が言った。「それじゃあ、手紙を置いたのは――」
すずだけがまだ分からないらしく、扇と仙十郎の顔を交互に見ている。
「誰なんですか?」
「椿の可能性が高い……」仙十郎が搾り出すようにつぶやいた。「でも、どうして?」
「それは分からない。ただ、現状ではあの手紙を置いたやつが犯人の可能性が高く、そして、あの手紙を置くことのできたのは現状では椿だけだ」
「他に誰か入ったやつはいないのか?」
「いないと言っていた。更衣室に窓はなく、剣術場と更衣室までは何も置いていない廊下があるだけだ。隠れる場所もない。剣術場の窓は細すぎて人が通ることはできない」
「でも、椿は紗枝のことを本当の妹みたいに――」
「動機は分からないが、妹のように思っていた紗枝を裏切ってでも成し遂げたいことだったということになる」
椿ではないと仮定しても、どうやって紗枝と椿に見られずに剣術場を通って、更衣室に忍び込めるのか? いくら稽古に気を入れていたからといって、人の出入りを見逃すようなことはないだろう。
仙十郎はもう何も信じられないような顔をしている。かつて〈鉛〉だったころに粛清した脱走者がこんな顔をしていた。
それに少し感じるものがあった。
「更衣室を調べに行くぞ」仙十郎と呼びかける。「隠し戸なり、秘密の通路なり、椿が手紙を置いた可能性を否定できる材料を探すんだ」
すずを安楽椅子に残して、町の道を上る。坂の町を区切る門の上に掲げられていた騎士団の弔旗が今日はもう下ろされていた。副総長殺害から四日経つと、店も通常の営業に戻っている。世間の通説は紗枝が犯人で、望月殺しの暗殺団の一味ということで話がまとまっているようだ。
それをひっくり返すために扇たちは物事を調べ、考え、推察するのだが、その結果浮かび上がった犯人は椿だと告げる。
残酷な結末だな。
やりきれなさを感じる。興の乗らない形で事件の全貌が見えようとしていた。
剣術場では女騎士たちが稽古の最中だった。まさか、女子の服が脱ぎ散らかされた更衣室に入るわけにはいかないので、稽古が終わって、全員が帰るのを待つことにした。剣術場は薬草院と海軍図書館のある広場に入口を開けていた。石を敷いた広場の隅に一本、緑樹が植えてあり、木陰に石の長椅子がある。
腰かけのそばに転がっていた藁しべをいじりながら、扇は時刻のことを考える。太陽の高さと影の長さから見ると時刻はまだ正午を少し越えたばかりだろう。ここでは巳の刻や暮れ六ツを、午前十時とか午後六時と呼んでいる。だが、この西洋式の時間は合理的だ。旧来の時刻では時間の表し方は一刻、半刻、四半刻。それ以上下の呼び方はない。だが、西洋式では一刻は二時間、半刻は一時間、四半刻は三十分であり、さらに十五分、十分、五分と細かい時間に分けられる。それどころかもっと細かい秒という単位で時間を表すことができる。なるほど合理的な西洋人らしい発想だ。太陽が昇るとともに起きて、太陽が沈む時間に寝る暮らしならば、旧来の時刻でも間に合う。やたらと忙しくなって今の時代では線香一本が燃え尽きる早さで時を測るよりも、時間を細切れにする西洋式のほうが使い勝手がいいのかもしれない。
「なあ」
仙十郎が扇に話しかけてきた。
「ん?」
「どうして、女ろ――いや、天原で用心棒をすることになったんだ?」
「なんだ、急に?」
「何となく知りたくなったんだ。それに何か考えていないと、椿のことを思い出す」
「おれの話だって、そんなろくなものじゃないぞ。軽蔑の度合が深くなるだけだ」
「軽蔑なんてしないさ」
仙十郎の声にかつてあった侮蔑の響きがない。
扇は顔を向けて仙十郎を見た。二つの相反する物事のあいだにはまり込んだ表情は憂いと陰がにじんでいる。
おれもあのとき、こんなふうに見えたのかな?
扇は藁しべを手でいじりながら、ぽつりぽつりと話し出す。
「天原に暮らす前は暗殺者だった。ヤマトの政府に使われる暗殺者で十把一からげに〈鉛〉と呼ばれていた。後は番号だ。名前はない。自分は殺すための道具に過ぎない。そう教えられ、そう信じて、そして殺した。半年ほど前、おれは生まれて初めて任務をしくじった。相手は天原の白寿楼の楼主だ。九十九屋虎兵衛。うちの楼主とは顔だけは一度合わせているはずだな?」
「ああ」
「あれを殺ろうとして失敗し、捕まった。自殺するか、あるいは〈的〉に殺されるか。そのどちらかだと思って、観念したら、あの虎兵衛が奇妙なことをし始めた」
「奇妙?」
「おれを解放したんだ。そして、他の人間を傷つけない限り、いくらでも自分の命を狙わせてやる。そう言った」
「お前の雇い主、どうかしてるんじゃないか?」
「おれもそう思う。だが、あのときのおれはとにかく任務を遂行することだけ考えていた。相手が変な条件をつけて、任務完遂のための機会が与えられるなら、それでも構わない。そう思って、天原に暮らしているうちに……あそこが好きになった。楼主の言葉を借りれば、それは興が乗ったってことらしい。それから、まあ、いろいろあって、おれはヤマトの機関と切れて、白寿楼の用心番になった」
「興、か」
「あの坂本という商人の言葉で表すなら、ろまん、だな。あの男はうちの楼主と同じ、どこか酔狂で生きているところがあるようだ」
「日本で初めて世界を相手にした海洋貿易会社を設立した人だ。そりゃ、酔狂だろうさ。その酔狂のおかげで何とかおれたちは調査を続けられる」
「それもそうだ……どうやら稽古が終わったらしいな」
男が二人、女子更衣室に入ることの危険性は十分認識しているので、人気がなくなったことをしっかり確認した上で、誰も剣術場に入れないよう、正面扉の内側に椅子をかいて、開かないようにする。
横三間、縦五間、高さ二丈の部屋で窓はない。天井からは洋灯をかけるための鋳鉄製の鉤が六本下がっている。棚は全部で五つ、棚一つは表と裏で三十の脱衣籠を置けるよう切ってある。それぞれの棚は誰が使用するかあらかじめ決められていて、名前が上に書いてある。紗枝の名前もまだ残っている。横一尺半、縦八寸、奥行七寸の空間にあるのは籐製の脱衣籠だけだ。
扇と仙十郎は棚を引っぱったり、壁を叩いて空洞がないか、調べたり、棚の上で肩車をして、天井に引っぱって下ろせる階段の類がないか調べた。棚は鋲でしっかり固定されていて、白漆喰を塗った天井には切れ目はない。壁も同様である。椿がここで着替えているあいだに犯人が隠れられるような場所はない。
窓のない部屋に午後三時を知らせる鐘の音が聞こえるまで辛抱強く調べたが、怪しいところは一つも見当たらない。仕掛けのようなものもない。抜け道も秘密の入口もない。
疑惑がますます現実味を帯びていく。
「行こう。更衣室に仕掛けはない」
「ああ」
「辛いか」
「おれが考えたのは紗枝のことだ」
意思消沈した仙十郎が正面扉に突っ掛けた椅子をどかしながら、
「椿が自分をはめたと知ったら、きっと紗枝は悲しむ」
「副総長殺害の罪で処刑されるよりはマシだ」
「そうかもしれない」
外に出て、宿舎や庁舎のある街区を出て、大聖堂の前を通り過ぎる。緊迫した騎士たちが数人ごとに部隊を組んで、剣やライフルを手にあちこちを走りまわっている。
「一体、何が起きたんだ?」
町へ降りる道を歩くと、騎士が一人、住民たちに動揺しないよう呼びかけている。
トサ商館に帰ると、竜馬が二人を待っていた。
「おお、おまんら! 今までどこに行っちょった?」
「ちょっと調べ物を。それより何かあったのか? 町の様子がおかしい」
「じゃあ、なんも知らんのじゃな?」
扇がうなずくと、竜馬は窓の外の波止場のほうを顎で指して言った。
「また殺された。騎士団の幹部じゃ」




