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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第五話 扇探偵と長崎の騎士
77/611

五の十五

 じめじめした岩屋の牢。

 たった一つだけ開けられた鉄格子の窓。

 夕照の光も潮の香りも晩の祈りの時間を知らせる鐘の音もそこから得ることができる。

 鐘の鳴るのを聞き、紗枝は晩の祈りの準備をする。

 粗末な囚人服姿で石の床にひざまずき、窓に向って頭を垂れる。せめて十字架があれば、と思う。いつも身につけていた十字架は没収されてしまった。

 物心ついたころから唱えてきた祈りの言葉をつぶやく。そして、死んでしまった副総長の魂の平安と、罪を犯した殺人者の魂の平安と、そして、苦しんでいるであろう兄の魂の平安を祈る。

 これ以上、死者が出ないことを強く祈る。

 こうして収監された今となっては彼女の無実を証明するのは真犯人による第二の殺人だけだった。

 それでも強く祈る。もう死者が出ないようにと。

 全てが一変して、まるで嘘のようだった。

 つい、二、三日前には騎士の受勲試験のことばかり考えていたが、今では自分に与えられたこの試練のことを考える。

 受勲試験のことを考えると焦りや緊張を覚えたが、この試練はむしろ瞑想に似た心情をもたらす。

 西坂の丘で殉教した二十六人の聖人たちのことを考える。打ち据えられ、耳を削がれ、石を投げつけられ、血と泥と垢で汚れた襤褸をまとって、寄り添いながら、磔にされるために坂を上る二十六人の信徒たち。

 主イエス・キリストの苦痛を追体験した人々。

 自分に与えられた試練はイエスや多くの殉教者たちの苦痛の追体験なのだ。そう思うと、不思議と心が安らぐ。

 自分はおそらく処刑されるだろう。

 できたら、丘の上で磔にされたい。

 骸を焼かないでもらいたい。

 祈りと瞑想は日が沈み、夜が来るまで続いた。典獄が差し入れるふすまパンには見向きもしない。獄につながれてから、口にしたものはわずかな水のみで、典獄のほうも食事を取るつもりのない紗枝に構うことはしない。食事を断ちたければ、断てばいいという態度だ。

 夜もだいぶふけて、格子に分かたれた月明かりが牢に差し込むころには見張りの典獄は階段を上っていき、三つの鉄の扉にそれぞれ四つの鍵をかけて自分の宿舎へ帰っていく。

 紗枝はぼんやりと目の前に落ちた月明かりを見ていた。鉄格子によって五つに分かれた光を見ていると、ふいに光の数が六つになった。まるで鉄格子が一本、急に増えたようにだ。

 窓を見上げると、六本目の鉄格子――と、思ったものが揺れている。そのうち、それが縄か何かだと分かり、それを伝って降りてきた黒い人影が牢を覗き込んだ。

 黒い悪魔が自分を誘惑しにきた。命を惜しませようとしてきた。紗枝の心臓が胸のなかで跳ね上がった。

 牢の外の人影が顔を隠している布を引き下げた。その顔には見覚えがある。あの剣術場で二刀流の少女と立ち合っていた、あの少年だ。崖の上の固定物に縄を結びつけ、左手で縄をつかみ、後ろにまわして、右手で少しずつ縄を繰り出して、ここまで降りてきたらしい。

「あなたは、あのときの――」

「重谷紗枝だな?」

 紗枝は、突然の闖入者に驚き、黙ってうなずく。

「お前の兄の仙十郎から伝言を預かっている」

 紗枝がハッとして息を飲んだ。そして、

「どうして、そんなことを?」

「なんだって?」

 紗枝が声を震わせている。黒装束の少年にとっては意外な反応だった。

「どうして、兄さまのことを言うのです? せっかく――せっかく、心安らかに死ぬことができたのに。兄さまのことを考えると――わたし――」

 紗枝の目から涙がぽろぽろこぼれ落ちた。

「わたしは殉教するのです。でも、兄さまのことを考えると、胸が苦しくなって、辛くなるのです。兄さまが一人、残されることを、考えると――わたし――わたしは――」

 すすり泣き、肩を震わせる。

「死ぬことは、怖くありません。ただ、最後の瞬間に、主の御心を疑うようなことが起こることが、それだけが怖いのです。そして、……兄さまのことを考えると、わたしはなぜ、主がわたしと兄さまをこんなふうに残酷な方法で引き離してしまうのかと、主の御心を疑ってしまいそうになるのです。名も知れぬ方、お願いです。わたしのことはこのままにしてください。安らかに死なせてください」

「まるで〈鉛〉だな」

 黒ずくめの少年は言うと同時に、縄から離した右手を閃かせた。月光を優しく跳ね返しながら、滝の飛沫のようにきらめく何かが紗枝の目の前に落ちてくる。

 それは鎖つきの銀の十字架だった。

「これは――兄さまの――」

「絶対に助けるから諦めるな」少年が言う。「仙十郎からの伝言だ。あんたの教育係の椿も犯人探しに協力している」

「椿さまが……」

「だから、諦めるな」

「わかりません。どうして、あなたはここまでしてくれるのですか?」

 少年の顔には表情らしいものがないが、声には表面は冷たくとも熱のこもったものを感じた。

「あんたのその自己犠牲の考え方が気に入らない。嫌なものを思い出すからだ。だから、あんたを牢から出すために犯人を探す。それにおれには名前がある。扇という名だ」

「扇……」

「食事を取れ。気をしっかり持て。自己犠牲の誘惑に負けるな。神さまを信じるのと同じくらい、自分の兄を信じてやれ。あんたのために女郎屋の用心棒に頭を下げた仙十郎を信じてやれ」

「……はい」

 返事を聞き、初めて扇の表情が綻んだ。

「聞きたいことがある。あんたが受け取った手紙についてだ。知っていることを全部教えてくれ」

 紗枝は扇の質問に答える形で、あの自分を呼び出した手紙について思い出していった。

 全てを聞き終えると、黒装束の少年はやってきたときと同じように静かに去っていった。

 懸垂下降に使った縄も引き上げられ、何事もなかったかのように再び夜の沈黙がやってきた。

 だが、変わったこともある

 少女の祈る手のなかに銀の十字架がしっかり握り締められていた。

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