五の十一
高鉾島の外周に島民にすら忘れられた小さな桟橋がある。いいかげんな切り方をした石を積んだというよりは海に放り込んでつくったような代物だった。その石の道が海面よりも一尺高い位置まで盛り上がっている。桟橋の幅は三尺となく、右から寄せる波が桟橋の表を洗って、左の潮へ飲まれていく。
真夜中にカンテラ一つ下げた扇がその桟橋に現われる。
『裏の桟橋 夜の十二時 一人で来たれ 桔蝶』
商館の窓に差し込まれていた紙にはそう書いてあった。
桔蝶といえば、あの腕がいいのかドジなのか分からないくノ一を思い出す。
大聖堂で真夜中十二時の鐘が鳴った。
そのうち、海の上に一つの光がぽつんと現われた。どうやら手漕ぎ舟が桟橋へ近づいているらしく、波のゆれで光は上下していた。
舟が寄ってきた。舳先には男が一人、小袖に袖なし羽織、黒の袴に刀を一本差している。その刺すような目には覚えがある。白寿楼で流血沙汰を起こした忍びの年上のほうだ。
影のある目が異様に大きくきらきら光る少年のほうが後ろで櫂を操っていた。
「陣丸冥次郎だ。あっちにいるのは十鬼丸」
年上の忍びが名乗った。忍びがこうして自分の名を教えるのはこちらを信用してのことだということだ。
「天原で会ったな?」と扇。
「ああ。詳しい話はお頭から聞くといい」
舳先が桟橋のそばまで寄ると、冥次郎が場所を開けた。飛び移れということらしい。扇は相手の望むまま、飛び移り、網代編みの胴の間に身を滑り込ませた。小さなガラス洋灯が一つ。そして、セッツで知り合った忍びの少女、桔蝶がいた。忍び装束ではなく、青の小袖に裁着袴で舟底に敷いた座布団の上にきちんと座している。座布団はもう一枚ある。扇は刀を横に置き、そこにあぐらをかいた。
「まず、一つ謝る。見世を汚してすまなかった」と桔蝶。
「それは楼主に言ってくれ」
「楼主は忍びか?」
「いや」
「では、駄目だ。それは忍びの体面にかかわる」
「したきゃ、覆面して行ってもいい。バサラには理解があるほうだ」
「忍びの顔を隠すのはバサラや傾奇でやっているのではない。あれは――」
「忍びのたしなみ。そうだったな」
十鬼丸の漕ぐ舟は高鉾島をゆっくりまわる。大聖堂は巨大な影の山となって、空の星を遮っている。
「忍びをたしなむあんたにきくが、この島の大聖堂に忍び込むとしたら、どうやる?」
大聖堂を見ようと、桔蝶が少し上身を動かす。冥次郎が邪魔にならないように、退く。
しばらく、島を眺め、ふむ、と一つ呻ると、
「正攻法だな。小舟で寄せて、後は黒装束で闇に紛れる。この島の護りは一見堅固なようだが、実は芸がない」
扇も見てみる。なるほど巡回の騎士のものと思える小さな灯が丘の中腹や屋根回廊のあたりを規則正しく動いている。その規則性を頭に入れれば、さほどのものでもなくても、大聖堂まで誰にも見られることなく忍び込めるだろう。
「だが――」と桔蝶。「忍び込むのは簡単だが、あの教会の副総長とやらを殺したのはわれらではない」
「そろそろ本題に入ってもらえるんだな?」
「そのために、そなたを呼んだのだ。そなたにはセッツでのことで一つ借りがあるからな」
「では、伺おう」
若き忍びの頭に敬意を表して、扇があらためて正座しなおす。桔蝶は胴の間に戻って、扇の目を真っ向から見て、
「望月商会会頭、望月久米次を殺したのはいかにもわれらだ。理由はこれだ」
桔蝶は脇に置かれた手鞠くらいの大きさ玉を手にとった。すっかり渋紙色になった笹の葉のようなもので包まれている。桔蝶の指が笹の覆いを一枚一枚、ゆっくり引っぱって剥がした。パリパリと音を鳴らして、笹の葉が剥がれて、現われたのは黒茶色の粘土の玉だった。だが、粘土にしては光沢がある。
「これは?」
「阿片だ」
阿片。世界の出来事に疎い扇でも阿片戦争のことは知っている。そして、その結果も。
「日本では禁制品だ」
「その通り。望月はこれを商っていた」
「密輸か」
「そうだ。それゆえにわれらが誅した」
「殺された副総長もかかわっていたと?」
「そうだろうと睨んでいた。だが、一商人と一国家では調べる手間が段違いだ。時間がかかる。騎士修道会内で阿片密輸を主導しているものがいることは間違いないと踏み、慎重に情報を集め、あと少しで阿片にかかわった騎士団幹部が分かると思ったところで、誰かに先を越された」
「紗枝でもなければ、あんたたちでもない誰かが、阿片に関係する騎士団幹部をまだ狙っている。そういうことか?」
「左様。それにこれは最後ではない。まだ阿片貿易にかかわっているものがいるはずだ。だが、われらはこれ以上は調べられない。副総長が殺されたことで騎士修道会もそうそう密偵を忍ばさせてはくれぬだろう」
「神に仕えるというのも、そんなに厳格なものではないわけだ」
「そういうことになる。苦労して得た独立と信仰を阿片などで穢すとは、まったく愚かしいことだ」
苦労して得た独立、という言葉に夕暮れの菜園のことが思い出された。
「長崎の独立戦争はそんなに凄かったのか?」
「今のように国がバラバラになる中でも、一番最初のころに独立したのが、長崎だと聞いている。その戦争は島原の乱の再来と言われている。何も知らんのか?」
「ああ」
「そのときの天草四郎、つまり騎士修道会総長が今は安永と元の名を名乗っている。その奮闘振りまさに修羅のごとく、と当時の長崎では語り草になっていたそうだ」
あの老人が。そう聞いても違和感はない。
「その安永も阿片貿易に?」扇はたずねた。
「分からない。軍務、海軍、商務、外務、宗務、監察の全ての長官職にその疑いがある。それを絞り込む前に副総長が殺された。殺したものは刃物の使い方を知った騎士かも知れぬが、これだけは言える。わたしやそなたと比べると、暗殺に不慣れだ。下手と言ってもいい。手馴れたものならば、まず殺るべき相手を全て調べてから一度に殺す。そうせねば、今のように厳重な警備体勢を取られて、第二、第三の標的を狙いづらくなる」
「これからも暗殺は起きると思うか?」
「やらないのではないか? 少女一人を身代わりにしたのに、第二、第三の暗殺を実行すれば、あの少女の無罪を自分で証明するようなものだ」
「はっきり言って、騎士団の監察は馬鹿だ」
「それは知っている。それゆえに事は簡単に運ぶと思ったのだが、邪魔が入り、この有り様だ。何より許せぬのは、われらが関係のない少女に罪を着せて、任務を遂行したと思われていることだ」
「その疑いなら、晴らしてやるさ」
「また、そなたに借りができるな」
舟は島を一周して、元の桟橋に戻ってきた。
桔蝶が舳先に立ち、扇を見送る。
「とりあえず、これだけは約束してくれ」と扇が言った。「あんたたちがどこで悪党を成敗しようが、あんたたちの勝手だが、天原では殺るな。こっちも二度目は見過ごせない」
「分かった。肝に銘じよう。訳あって、われらはもう長崎を発つ。そなたも達者でな」
舟が遠ざかる。十鬼丸と呼ばれる少年がこちらを振り向いたと同時に、桔蝶が洋灯の火を吹き消した。
舟は闇に紛れて見えなくなった。




