五の八
厚く塞がった雲の天蓋が炙られた紙のようにほのかな夕陽を含ませていた。扇はシャツに裁着袴、刀を差して、島の裾の町を歩いていた。町から坂を上っていって、大聖堂や騎士団関係の庁舎まで見ていくつもりだった。
港では外輪汽船や汽艇、小型の砲艦が藤色の影に閉ざされた海の上に静かにたたずんでいて、開けっ放しの倉庫には焼印入りの木箱、梱、樽が見える。
他に目立つものは昼間に通された騎士団の洋館、それと在外商館だった。一つは先日いろいろな目にあったセッツ国のものだが、もう一つ青銅を葺いた大きな円い洋館が港と町の境目にどすんと居座っている。
トサ国の商館だ。
幕末の動乱の末に海運国家として生まれ変わったトサ国のことは有名な話だ。多くの国が隣国との国境争いに人員と富を費やしているあいだに、トサ商人を支援する目的で在外商館をロンドン、サンフランシスコ、上海、マカッサル、カルカッタに立てて、強力な海軍と商船隊、そして航海術と海事国際法の教育を受けた優秀な航海士たちを擁して、世界を相手に商売をして、多大な利益を得ている。その利益を元に日本で最大の造船所を建設中で、それが全国の支配者たちの垂涎の的になっているという。
こうしたことを扇が知っているのは、トサの貿易商や海軍軍人に天原の馴染みが多いからだ。トサの人間がくると座敷はぱあっと明るくなる。世界のあちこちを旅してまわっただけあって、面白い話をたくさんこさえていて、気風のいい余裕のある遊び方をする。トサの客が鯉の餌づけにされたという話を聞いたことはない。
トサ国商館の二階の窓に映った雲の影を見ていると、その窓がバタンと大きな音を立てて、外に開いた。
虎兵衛と同じくらいの齢の羽織袴姿の男が手で顔を扇いでいる。
たまたま部屋を見上げていた扇と目が合った。
男はまるで子どもみたいにニカリと顔を大きく崩して笑いかけた。
どういうふうに返していいのか分からない扇は軽く会釈して、その場を離れ、町を上ることにした。最近の扇は人付き合いで分からないことがあったら、とにかく会釈すればいいということを免許皆伝の極意のごとく扱っている。ただ、仙十郎にはこの極意は通じそうにない。もっとも、こっちも会釈するつもりもない。あれは別に放っておいても問題ないはずだ。
高鉾島の町に長崎ほどの活気はない。騎士を相手にするだけの町だから、商人は商機に飢えているようでもないらしい。特徴といえば、どの店にもキリスト教にまつわるものが置いてあることだ。宗教画や十字架、首から下げるらしいメダル。普通の町では見かけないものばかりだ。
聖堂前の広場まで上る頃には薄暗くなり、あちこちで洋灯が点され始めている。雲はうっすら茜だが、地上は影に閉ざされている。扇が大聖堂の右手へ考えも無しに歩いていくと、ちょっとした菜園にぶつかった。
塀もなく、誰にでも門を開いた菜園では茄子やキュウリが植えられていて、それを麦藁帽子をかぶった修道士らしい老人がかがんで、のそのそ動いている。実の一つ一つを手にとって、そのみずみずしいことを確かめているようだ。
麦藁帽子のつばが上に向いて、老修道士と目が合った。
安永という名の、確か宗務長官をしているという騎士団の幹部だ。
「昼にお会いしましたな。望月さんのことで天原から来られた――」
老人は、どっこいしょ、と呻って、立ち上がると、手の土を愛おしそうに優しく畑の上に払ってやりながら、会釈した。ただ、扇がよくやるごまかしっぽいものではなく、芯から善意と真心のこもったものだった。
昼間会ったときは座っていて分からなかったが、この老人は立ち上がると六尺近い背丈があった。ただ、騎士団の長官職を拝命していながら、その風貌は威圧的な軍人というよりは学者風の印象を与えた。着ているものも修道士が着る焦茶色の使い古したかぶりもので、よく見かける騎士外套ではない。一応、騎士であるために帯剣はしているが、目立たないよう修道着の下につけていて、鉄をかぶせた鞘の先端が修道着の裾から見えている。
「宗務長官は野菜の世話をするのか?」
「大切な仕事だよ」
老人は優しく説く調子で言う。
「そして、昔からのしきたりだ。労働を通じて、主の御創りになられた世界と触れる。騎士修道会の騎士は騎士であり、また修道士でもあるのだよ。修道士は自分の食べるものは自分で作る。こうして行動から人を導こうとすることも大切なことなのだ。何よりも幸福を感じることができる。きみは安らぎを感じることはあるかね?」
唐突な質問だった。だが、答えられないわけではない。
「以前はなかった。だが、今は違う」
「なるほど。わたしとは逆なわけだ」
老人は背中に手をまわして、ぐっと身を反らした。
「わたしはかつて安らぎを感じていた。だが、今は感じられなくなってしまった」
「庭仕事に安らぎを感じないのか?」
老人は悲しげに首をふった。
「以前は感じたのだ。土と触れ合うことに無上の喜びを感じた。だが、昔、戦争があった。我々の信仰を守るための戦争が。それ以来、わたしは安らぎを覚えることができなくなってしまった」
老人は、では、失礼するよ、と立ち上がり、菜園のそばの物置小屋へ入っていった。
菜園の奥にはよく手入れされた植え込みと花壇に挟まれた石畳の道があった。そこを通れば、騎士や来客用の宿舎へ帰ることができた。帰りの道をとりながら、扇は老人の言葉を自分の身にあてはめてみようとしていた。
安らぎの何たるかを知らない〈鉛〉だった時間、そして、白寿楼の扇として暮らした時間、その先に二度と安らぎを感じることができなくなる出来事が控えているとしたら?
ひどく寂しげな老人の目が老人の過去を垣間見せているようだった。若いころは偉丈夫であったのだろうし、修道着の袖から見えた手首は太くがっしりとしていた。おそらく昔、あった、長崎の戦争に参加したのだろう。
だが、戦争など今の日本には規模が小さいながらも、しょっちゅう起きている。だが、戦った兵士なり軍人なりがみなあんな目をするようになるとは思えなかった。
扇は長崎がどんなふうにして今のようになったのかを知らない。ただ、昔は幕府直轄の天領として奉行が置かれていて、キリシタンは弾圧の対象だった。そこから今の騎士団国家を創り出すのには、かなり熾烈な戦争があったのは何となく予想できる。
ふと、すずのことを思い出した――人を斬ったと話したときのふにゃっとした顔を。その表情に哀しさを隠そうとする意図が見えたような気がする。
宿舎のある区画に着いたころにはもう日は沈み、道も建物も夜闇に沈んでいた。宿舎区画は狭い街路が塹壕のように錯綜し、そこに総長以下の騎士たちの宿舎がかたまっている。食堂のある建物の前には食事の時間に鳴らすことになっている小さな鐘が下がっていて、施療院の壁にはリボンでつくった十字架がいくつも貼りつけられていた。点し役の見習い騎士が脚立とマッチを片手に道のあちこちにぶらさがっている鋳鉄の洋灯や壁に取りつけられた燭台に火を点している。
悲鳴が聞こえたのは、自分の泊まる宿舎をやっとのことで見つけて、中へ入ろうと扉の取っ手を握ったときのことだった。
扇は身を翻して、叫び声の聞こえたほうへ飛んでいった。騎士たちも同じことを考えたらしく、めいめいが剣を手に宿舎を飛び出し、壁に挟まれた道を反響した叫び声がどこから聞こえてきたのか、朋輩とたずねあっている。
扇が走り、曲がり、小図書館のめぐりの壁を通り過ぎようとしたところで、脇の道の尽きたところに踊り狂う影を見た。
鋳鉄製の洋灯が地面に転がり、そばで腰を抜かしている見習い騎士の影をめくら壁に映していたのだ。
「何があった?」
まだ十二、三の少年はただ開けたままの口を震わせて、開いた扉の奥を指差している。
その宿舎は独立した一つの小さな建物になっていた。鼻をくんと利かせると、血の臭いがした。
それに生きている人間の気配も。
扇は抜いた刀を片手持ちにすると、洋灯を拾い上げ、建物に足を踏み込んだ。
入口の広間の左右に二階へ延びる階段があり、奥は応接や会議のために使うらしい左右に伸びた部屋になっている。
中央に長いテーブル、木彫画入りの椅子が倒れていた。テーブルの手前に誰かが仰向けになって倒れていて、その脇に誰かが立っているのが見える。少しずつ近づくと洋灯のつくる光の輪が倒れている人物の顔にあたった。白寿楼で会った代木という名の副総長だった。あのときは目のくりっとした好々爺然とした物腰だったが、今の骸にその面影はない。長い眉毛の下には驚愕に見開かれた目があり、瞳は小さく縮んでいる。苦痛に歪んだらしい口から吐いた血が口髭や顎を伝い落ちて、絨毯にどす黒いシミを作っていた。
扇は洋灯を高くかかげた。
そこには、剣術場で見かけた少女が立っていた――顔と衣服に返り血が跳び、うつろな目は骸に何の感情も寄せずに見下ろしていた。
後ろからバタバタと走ってくる足音。
振り向くと、仙十郎がいた。
骸と少女、その二つを一度に見た仙十郎がこわばった喉から、
「紗枝」
と、震えた声を絞り出した。
紗枝、と呼ばれた少女がゆっくり顔を上げ、うつろな笑みを浮かべて、兄さま、とつぶやく。
床に倒れている副総長の胸には柄頭に蒼い石をはめ込んだ短剣が深々と刺さっていた。




