五の五
朝のうちは晴れていたが、扇が長崎の飛行船発着場に着いたときには空は曇り、時おり、裂け目から青空をのぞかせたり、あるいは小雨を降らせたりとひどく気まぐれな天気になっていた。
「傘を差すか差さないか微妙な天気ですね」
すずが待合所の窓辺によって空を見上げて言った。そこは飛行船発着場の待合所だった。待合所といっても、旗本屋敷くらいはある大きなもので、建物の中心に磨いた石床の大通路があり、その通路沿いに切符売り場、鉄道切符販売代理店、西洋料理屋や土産屋、煙草屋があり、異人のための通訳相談所がある。大通路はどちらの端も曇りガラスに菱紋を刻んだガラス戸で終わっていて、一方のドアが発着場、もう一方のドアが長崎市街につながっている。
「どうして、あんたまで長崎に来るんだ?」
扇はうんざりした顔で、すずにたずねる。
「長崎といえば、カステイラじゃないですか。天原では蜜を塗った食パンくらいしか食べられませんからねえ。本格的な西洋菓子。いいですよね。ああ、それにしても長崎の町は大きいですね。飛行船から見ても大きいと思いましたけど、こうして地面に立ってみると、その賑わいのすごいこと。うかうかしていると、きっと道に迷ってしまうでしょうね。生まれつき方向感覚に優れる機敏な少女がいれば話は別ですけど」
と、言い、ちらりと横目で扇を見た。
「おれは奢らないからな」
「誰も奢ってほしいなんて言ってませんよ。ただ、道に迷ったとき、頼りにできる人が扇さんにいるのかなあ、って思っただけです」
「生憎だったな。向こうから迎えが来ることになっている」
「迎えの人と一緒に迷うことになるかも」
「相手は地元の人間だ。迷うことなんかあるもんか」
市街につながるガラス戸が開いて、ドアの上に取りつけられた鈴がチリンと鳴った。
先日、仙十郎と名乗った少年騎士が入ってきた。前と同じ仏頂面を下げていて、扇をちらりと見やり、穢れたものでも見たかのように目を細めた。
虎兵衛の人選は正しかった。大夜だったら、この時点で殴りかかる。それに比べると、扇はずっと冷静だ。
「重谷仙十郎だ」と少年は名乗った。「昨日、会ったな」
「ああ」
「そちらの女性は連れか?」
そう言われて、横を向くと、すずが扇と並んで関係者然とした面持ちで立っていた。
「いや、こいつは関係な――」
「お初にお目にかかります。わたしは時千穂流武芸講習所師範代、時千穂すずと申します」
と、名乗って、頭を下げた。それはいつものようなペコリとしたものではなく、もっと颯爽としていて、きびきびと武人めいている。声の調子も扇と話しているときとは一転して真面目くさったものだ。
よくもまあ化けたものだ。このきりりとした女剣士風のしゃべり方と物腰がカステイラを手に入れるための策略の前準備であることは間違いない。
だが、もっと最悪なのは、仙十郎が扇に対しては胡散臭い目を向けているくせに、すずに対して向ける目は、かすかな尊敬の念さえ見えるくらいの純粋な目をしていることだ。
「諸国をめぐって見聞を広めるべく、天原の地に道場を構えています。長崎では西洋剣術の盛んなことを聞き、こうして降りた次第です」
「そうですか。その歳で師範代とはさぞ研鑽を積まれたのでしょうね」
「いえ、わたしなど、まだまだ――」
この茶番はいつまで続くのだろう?
扇は市街に通じる出口を扉を開けて、はやく行くぞ、と声をかけた。すずはもう扇たちについていく気でいる。仙十郎がまた刺すような視線を放ってきたが、扇は気にもしなかった。
せいぜい財布がすっからかんになるまでカステイラを奢らされればいい。そのときになって気づいても遅いのだ。
仙十郎を先頭に山間の長崎を歩く。生姜入りの飲み物を小瓶で売る店や異人向けに生牡蠣を出す料理屋の檸檬型看板、清国人両替商の鉄格子などで通りは雑然としている。その上には山の緑に包まれた和洋の別荘が見えた。坂のふもとでは鉄道馬車につける添え馬の厩舎があって、馬をつないでいるあいだに、客に売りつけようとする振り売りたちが車両の壁にへばりつき、粗悪な紙巻煙草や折り畳み式の小刀を手にして座席へ突き上げ、車掌がわずらわしげに追っ払う。
異人の男女を乗せて走る人力車の列に出くわす。饅頭屋の前では恐ろしく太った異国の婦人を乗せた俥夫が一人では曳ききれないので、もう一人俥夫を雇うから二人分の代金を払ってくれと言って、婦人の怒りを買っていた。自分では自分の体重は風の妖精くらいしかないと思っているらしい。
怒鳴りあいや罵りあいはいくらでも転がっていた。炒りナマコを仕入れにきた清国人貿易商と日本人の問屋が値段のことでもめていて算盤を弾いて見せ、首をふって、算盤を弾いてまた見せて、首をふるといういつ果てるとも知れぬやり取りをしている。水兵目当ての酒場では、まだ昼間だというのに数ヶ国語の罵倒や舟乗り唄ががなりたてられていた。
住居は瓦葺のものが多いが、異人の洋風家屋も少なくない。異人の住む木造家屋はみな屋根のついた露台を二階につくっていて、必ず欄干に黄、橙、紫の花を絡ませている。
そのうち、扇たちが歩いている大通りが細長い市場で二つに割れた。壁はなく白い柱に小さな塔をつけた西洋屋根をのせた市場には新鮮な白い豚肉を真っ二つにして吊るす肉屋や半次郎ならよろこんで平らげそうな南国の果物を売る店、真鍮製の湯沸しで紅茶を売るロシア人の店が入っていて、日本人と異人が買い物ができるように日本語と異国語を看板に書いていた。
この市場を右に見るようにして歩き始めたころから、仙十郎の様子がおかしくなり始めた。あれ?とか、こっちのはずなんだけどな、といった言葉が独り言らしく漏れ始め、市場が尽きるころには大通りにいたはずの扇たちは狭い路が十字に交わる小広場に迷い込んでいた。
その後も仙十郎の案内で町を歩いたが、同じ店、同じ門、同じ駅を何度もぐるぐるまわるうちに、扇がうんざりに棘をたっぷり含ませて、
「海へ下るだけなんだから、迷うはずがないだろ?」
と、言うと、仙十郎はいらつきを隠そうともせず、
「うるさいな。普段は高鉾島から出ないから市内の道全てを知っているわけじゃないんだ」
「なるほど。こっちはとんだ案内役を押しつけられたわけだ」
「なんだと?」
「なんだ?」
険悪ににらみ合う。
そこに、すずが視線を遮るように割り込んで、
「ここでいがみあっても仕方ありません。先を急ぎましょう。わたしが先導します」
と、言ってきた。これぞ、すずが待っていた機会であり、結局、物事はすずの思惑通りに進んだ。まさか、騎士修道会の連中が道もろくに知らないやつを送ってくるとは。それで連中が天原をどう思っているかが分かるというもの。
しかし、不思議なことにすずは生まれて初めて訪れたはずの長崎の町を迷う素振りも見せず、自信に満ちた足の運びであれよあれよという間に元の大通りに戻ってきた。通りの先には雲の間から差した光で輝く海面が見えている。
そして、菓子屋の前を通るときに都合よく腹の虫がなる。
「やだっ。わたしったら――」
白々しく恥ずかしがると、仙十郎が微笑み、少し待っていてください、と言って、店から出来立てのカステイラを一本、紙に包んで持ってきて、すずに進呈する。
「あっ、そんなつもりではなかったのですが――」
「いえ。どうぞ。長崎の名物です。あなたがいなかったら、今ごろ西坂あたりに迷い出ていたかもしれません。是非、受け取ってください」
「そうですか? ……では、遠慮なくいただきます」
すずは後で食べるつもりかカステイラを小脇に抱えた。




