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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第五話 扇探偵と長崎の騎士
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五の四

「これはキリストの体、汝がために砕かれた」

 司祭がつまんだ聖餅が仙十郎の舌の上にのせられた。それを口のなかに含んで、飲み込む。

 曙光が差し込む聖堂の身廊には総長から見習いの準騎士、それに島に住む住人が粗末な木の長椅子に座り、司祭から聖体拝領を受けている。午前六時にもかかわらず、席は満員だった。

 仙十郎は心おだやかにミサに望めない。ミサの最後に行われる閉祭の歌の斉唱にも心が込められない。

 全て、あのいまいましい島のせいだ。

 聖堂の二階回廊に切られた細く長い窓にその島が浮いているのが見える。

 穢れた島め。

 憮然として、昨晩、梅野監察長官に言われたことを思い出す。

 ――これは微妙な案件だ。望月氏の人格が一度の誤りでそしられるのは間違っている。長崎の信徒に対する貢献を忘れてはならない。

 その席には総長、副総長、そして、軍務、海軍、商務、財務、監察の各長官が全員そろっていた。

 梅野長官はその場で全員に対して、望月久米次の殺害とその背後関係を明らかにすると宣言した。背後関係という言葉に、梅野長官は女郎屋同士の利権問題をちらつかせた。望月氏はその犠牲になったというのだ。

 何人も償うことのできない罪を犯すことはできない。罪に対する償いと赦しは必ず存在する。もちろん、誤った場所に足を運んだ望月氏に対してもだ。望月氏は長崎を代表する富商の一人として、教会を通じて孤児院や救貧院に寄付をしている。

 その功績が女郎屋に通ったことでふいになるとは仙十郎も思わない。

 ただ、今度の事件を捜査するのに、女郎屋から派遣された人間を受け入れなければいけないというのに納得がいかない。

 話では昨日、見かけたあの少年が派遣されるという。

 自分はこれから、捜査に関わるかわりに女郎屋の用心棒の接待役をしなければいけないのだ。

 冗談じゃない。

 ミサが終わって、信徒や騎士たちが聖堂を出て行く。聖堂の出口は広い石敷きの広場になっている。住人たちはふもとの町につながる下り階段へ降りていき、騎士たちは騎士団の庁舎へと下っていく。

 ここから長崎の湾と港を一望できる。山に囲まれた湾に世界各国からやってきた外洋船が停泊している。だが、この日にまず目に入ってきたのは、空を飛ぶあの不浄な島だ。プロペラが下へ何百本と突き出た姿は異常であり、ひどく目障りだった。

 住人たちの天原を見る目は不安と不審の入り混じったものだった。

 この問題が片づくまで、あの島が長崎の島を飛ぶのかと思うと、仙十郎はやり場のない怒りを感じる。

 自然と足に力が入る。かつかつと大きく足音が鳴る。そのまま踵の音を高く鳴らして、庁舎ではなく、町へ降りる階段へ向おうとした。その後ろから――、

「兄さま」

 声をかけられた。振り向くと、妹の紗枝がいた。

 昨日、紗枝の剣の稽古に付き合う約束をしていたことを思い出す。ああ、くそっ、と心のなかで毒つき、きたない言葉を使ったことにまた毒つきそうになる。

 紗枝は約束のことをおくびにも出さず、可憐な小作りの顔をうれしそうに綻ばせ、おはようございます、と頭を下げた。

「ああ、おはよう」

 そう言ってから、仙十郎は気まずそうに、

「昨日は稽古に行けなくてすまなかった」

 と、謝った。

 いいんです、と紗枝がいい、

「兄さまもお忙しいでしょうから」

「でも、騎士叙勲の試験はもうすぐだろ?」

 青と白の見習い騎士の上衣の上に、前で結ぶ方式の胴衣をつけ、柄頭に蒼い石をはめ込んだ見習いの短剣を腰から吊るしている。

「はい」

「おれにできることがあったら、何でも言ってくれ」

「大丈夫です。兄さまに迷惑をかけるわけにはいきません」

「迷惑だなんて、おれは思ったことはない」

 仙十郎は手を妹の頭に置いて、髪をかき撫でた。

「かわいい妹の騎士昇格がかかってるんだ」

 その手から逃れるように紗枝は後ろへ下がる。

「また、すぐそうやってわたしを子ども扱いする」

「怒ったか?」

「そういうわけではないですけど」

 基本的に騎士修道会の騎士は男女別の宿舎に住んでいるので、たとえ兄妹であっても会えるのはミサのときや稽古場に限られている。それでも、仙十郎は妹の騎士叙勲試験は通りそうかどうか、あちこちにいろいろ聞きまわっていた。そして、紗枝は、今年試験を受ける予定の少女のなかでは一、二を争う優等生だというのが、仙十郎の聞いた答えだった。

「学科なんか、おれよりいい点数を取るかもしれないな」

「剣でも負けませんよ」

「それはどうかな?」

 妹が笑う顔を見て、しばらく憂さを忘れることができる。

「何とか時間を作る。だから――」

 騎士修道学校の鐘が鳴った。

「あっ、行かないと。すいません、兄さま」

「いや、引き止めて悪かった」

「では、兄さま。また」

「ああ、またな」

 走って、騎士学校のあるほうへの階段を下る直前、紗枝は立ち止まって振り向いて、

「兄さま。わたしは兄さまがわたしのことを気にかけてくれているだけで、嬉しいです」

 そして、階段を降りていった。

 仙十郎も島の港へ降りなければいけない。女郎屋の用心棒を迎えに行くのだ。島には飛行船の発着場があるが、女郎屋から飛んでくる飛行船をつかせるわけにはいかない、と監察長官が反対し、女郎屋は長崎に降りて、そこから汽艇で騎士修道会の本拠地がある高鉾島へ向うことになった。仙十郎は長崎の飛行船発着場で女郎屋の用心棒を出迎えることになっている。

 ただ、まだ時間はある。港への階段を降りるかわりに、石造りの騎士団庁舎の並ぶ広場へつながる通路へ足を運んだ。小さな谷にかかる石の橋を渡ると、軍務部や商務部、監察部の庁舎が広場の半分を囲っている。もう半分は大聖堂の下に位置する崖である。

 仙十郎は目当ての人物が軍務部の建物に入ろうとしているところを見つけた。

「おい、椿」

 椿と呼ばれた女騎士が振り返る。きれいだが表情に乏しい顔を仙十郎に向けると、半ば呆れた顔をして、

「仙十郎。もう、長崎港へ行ったと思っていたぞ」

「お前を同期の騎士と見込んで頼みがある」

「紗枝のことか?」

「そうだ」

「そのことなら、何度も教えたとおりだ。安心しろ。紗枝は立派な騎士になる」

「本当か? 受勲試験に通りそうか?」

「お前ですら、通ることができた試験なのだから、紗枝なら容易いものだろう」

 と、言って、椿はクスリと笑った。

 長崎騎士修道会では見習いである準騎士に教育係の騎士がつくことになっていて、それはだいたい十七から十九の若い騎士が教育係に選ばれる。後輩の面倒を見ることにより、騎士たちの結束を強め、またかつて自分たちがそうだった見習い時代の初心を思い返す機会として運用されている制度だった。

 そして、紗枝の教育係は川路椿だった。

「本当に大丈夫か? 学科は? 剣技は? ラテン語は?」

「だから、大丈夫だと何度も言ったであろう。それよりも自分の仕事をきちんとこなすことだ」

「仕事といっても、女郎屋の用心棒の相手をさせられるだけだ。みんなが嫌がった仕事を一番若輩のおれにまわしたんだ」

「しかし、それでも務めは務めだ。主も何か思うところあって、お前にその務めをふったのかもしれない。では、わたしは行くぞ。仕事がある。ここで時間を無駄にしていては紗枝の剣の稽古に付き合う時間が減るからな」

「紗枝のこと、くれぐれも頼む」

「ああ、頼まれた」

 仙十郎は来た道を引き返す。

 高鉾島たかほこじまの頂にバロック調の大聖堂が立ち、騎士修道会の各庁舎、薬草園や菜園、騎士宿舎、学舎がそれを囲む。そして、そこから雛壇状に下っていく街路沿いに騎士以外の住人が住む瓦葺の町となっている。騎士剣を打つ刀鍛冶から典礼に使う葡萄酒を商う店、巡礼用の旅籠、二階建ての書店、宗教画家の工房、個人経営のラテン語学校が下り坂の狭い街路に並んでいて、どの家の裏手も松が茂る小さな森につながっていた。

 港のあるところまで下りると、そこには騎士修道会所有の迎賓用の洋館があり、その隣にはセッツ国やトサ国などの商館がある。商業国家の在外商館は事実上の大使館であり、騎士修道会との外交の舞台ともなる。みな国富をさりげなく見せると同時に、趣味のよい意匠を凝らせているが、国によって特徴がある。金融と良材に恵まれたセッツは昔の両替商のような和風の屋敷を構えているのに対し、トサは世界を相手にした海運国家らしく完全な洋式建築で大英帝国の海軍倶楽部のような円形二階建ての館を構えている。もちろんどちらの館にも国の外にあっても、故郷を忘れないための工夫が凝らされている。

 故郷か。

 仙十郎は故郷を知らない。そして親も知らない。紗枝とともに長崎の波止場に捨てられていたのだ。

 その後、騎士修道会に引き取られて以来、仙十郎は紗枝の親代わりを務めてきたつもりだった。苦労もあったが、それ以上に実りも大きかった。全く笑わなかった紗枝が初めて笑ったときのことを思うと、今でも胸が熱いものでいっぱいになり、目頭が熱く潤む。

 だからこそ、空を飛ぶ遊廓が忌々しいものに見えるのだ。

 女性を売り物にし苦界に沈める悪魔の所業であり、そうした女性のなかには紗枝のように親に捨てられたものもいるだろう。

 空を見上げ、ギリ、と歯を食いしばる。

 主はなぜ、あのような罪を赦すのか?

「主のなさることは常に謎に満ちている」

 仙十郎は港から発つ汽艇の甲板で天原よりももっと高い空を仰ぎ、つぶやいた。

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