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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第五話 扇探偵と長崎の騎士
64/611

五の二

 その日の稽古は結局、早めにあがった。

 すずと、すずが斬ったという無縁仏のことが頭によぎって、集中ができなかった。

 かといって、そのことをりんにたずねるのも、今はよしたほうがいい気もする。

 扇は体調が優れないとごまかして、道場を出た。まだ日が暮れるまでにたっぷり一刻はあるが、遊廓に帰り、カエシの勝手口から用心番の控えの間に入った。

 時間が早いので、他には誰もいない。石が置かれたままになっている泰宗の碁盤があるだけだ。控えの間はちょうどオモテとカエシをつなげる通路のようにあって、障子が閉められている。もし、客が乱暴をすれば、禿か中郎がどちらかの出入り口からやってこれるようになっているのだ。また、することがなければ、時おりオモテのほうをさりげなく見回ったりする。扇も客の目を気にして、最近は機関の考案した黒と灰の暗殺用の服ではなく、筒袖に襟なしシャツ、裁着袴で過ごすことが多くなった。ただ、袖の余りや袴の裾がびらびらするのに抵抗があったので、細めの筒袖の上に手の甲までぴったり覆う長手甲をつけ、裁着袴はボタンつきのものを穿き、絞った裾に脚絆を巻く。斬り合いになったときのことを考えて、鎖帷子で裏打ちした赤銅色の袖なし羽織をつける。常佩きの刀を差し、服のあちこちには棒手裏剣を隠しているのだが、それは手がどの位置にあっても素早くかつさりげなく取り出せる絶妙な配置をしている。

 数字盤を無理やり十二支のものに付け替えた洋式時計の針が酉を指した。暮れ六ツがきたのだ。オモテのほうから、お上がりになるよお、と太く伸ばした声が聞こえてきた。

 そのころには他の用心番たちもやってきて、めいめい饅頭を頬張ったり、碁石の壷に手を突っ込んでじゃりじゃり鳴らしたりする。

 特に大夜は上機嫌だ。新しい脇差をもらったのだ。濃州住人孫六兼長のうしゅうじゅうにんまごろくかねなが一尺六寸の脇差。落とし差しにするには勿体無いということで、革巻きの柄、頑丈第一の石目塗りの鞘、鍔や泥摺には本場肥後金具を使った文句なしの肥後拵えにして、それを麻の葉模様の茶の半幅帯に差している。粋な町人の若衆といった装いだ。

 ただ、大夜が扇相手に自慢をし続けるのには困らされた。白寿楼の用心番のなかで一番飾り気のない突兵拵えを差しているのは扇であった。別に刀をきれいに飾るのはいいが、世の中大小を差している人間が必ずしも拵えにこだわるわけではないのだ。そもそも扇の刀は、道具扱いしてきた暗殺者にもたせる刀だから、刀工や鍔工の名前も知れない無銘の束打ち刀で、ヤマトの機関では刀は人と同様に消耗品に過ぎない。

 大夜は刀の拵えにもっとこだわりを持つように言いつつ、結局は新しくもらった脇差の自慢に話を持ち込む。話しかけた内容が明日の天気だろうが、晩御飯のおかずだろうが、話しかけたが最後、行き着く先は孫六兼長一尺六寸なのだ。

 そんなわけで扇はオモテを見回りに行くと称して、用心番部屋を出たのだった。

 その夜の白寿楼では異人の客が目立った。イギリス人貿易商やフランス人の銀行家、清国人の高級官僚が中郎の持つ提灯に導かれて、座敷へと連れて行かれる。ヒゼン国の長崎は異国との貿易が活発なので、異人の客が多い。ただ、ヒゼンは長崎騎士修道会の支配下に置かれたキリシタン国家であるため、政府関係者が天原にやってくることはない。廉潔をもって知られた長崎の騎士たちは天原がヒゼンの空を飛ぶことにだって、かなりの難渋を示していたくらいだ。

 ――江戸の昔ぁ、キリシタンは見つかれば、蓑踊りっていって、縛り上げられた上に蓑を着せて、火をつけられたそうだ。それでもキリシタンをやめようとしなかったっていうんだから、いやはや神さまに義理立てするってのは大変なもんだなあ。

 少し前、虎兵衛がそんなふうにもらしていた。

 キリシタンたちは今や晴れて自由の身で大っぴらにキリシタンでいられるどころか、九州でも豊かなヒゼンを丸々キリシタンの国にしている。ヒゼンのキリシタンたちはこれを二百数十年の弾圧と苦渋に耐えた褒美のようなものだと思っているらしい。

 ただ、支配は騎士修道会ではあるが、信仰の自由は保障されているので、寺社仏閣も昔のまま残っている。ただし、ヒゼンの住民の九割がたはキリシタンだというから、檀家の少なさで苦労していることだろう。

 扇は白寿楼の三階に上がった。吹き抜けの中庭があり、黒塗りの欄干をつけた赤い橋で対面の廊下に渡れる。渡った先は大きな座敷でそこを閉じる襖は四枚、真ん中の二枚は麒麟と鳳凰がお互いの尻尾を睨むような形で向かい合っていて、外側の二枚は稲光を孕んだ嵐である。

 座敷から物音がしない。襖が閉じているということは客が登楼っているという意味だし、これだけの大きさの座敷なら、芸者も呼ぶ。

 それなのに謡も三味の音も聞こえてこない。

 扇は足音を殺して、その座敷の襖に近づいた。

 ぎちぎちぎちぎち。

 何度も聞いたことのある、いや、生じさせたことのある音――刃を頸の骨のあいだに滑り込ませ、血の道と気道を一度に深く切り裂く音だ。

 扇は抜刀し、麒麟の襖を蹴破った。

 座敷では芸者や花魁たちが畳に倒れていた。そして、洋装姿の日本人商人が黒ずくめの賊に後ろから口を塞がれる形で組みつかれ、頸を掻き切られている最中だった。

 賊は忍び装束で頭巾をかぶらず、顔の下半分を黒い布で隠している。細く切れた目で、左からすくい上げるように切り上げてくる扇の剣を見るなり、骸を扇に蹴飛ばして、後ろへ跳んだ。

 身を左へ寄せて骸を避けると、避けた先の位置に手裏剣が飛んできた。

 それを刀身で弾いて防ぎながら、相手がこっちの動きを読んでいることに手練れた腕を感じ、扇は舌打ちをする。

 賊はもう障子窓を破って、屋根へと逃げている。

 扇も後を追い、屋根の上を走る。

 赤くぼんやりした軒提灯の下を賊が駆け、道一本挟んだ隣の妓楼の屋根へ跳ぶ。

 屋根から屋根へと賊が飛び、それを扇が追い、動きに余裕が出ると、手裏剣の放ち合いが起こる。だが、どちらも刀の間合いに相手を入れることはない。

 すでに道や楼の客や遊女たちがただならぬ出来事が起きたことに気づき、屋根を見上げたり、あるいは障子窓を開けた先の欄干から身を乗り出したりして、何事があったかと見ようとするが、賊も扇もまるで風のように飛びすぎていくので、常人の眼には捉えることができない。

 遊廓から惣門の柱のてっぺんにあるガス灯を踏んで、外へ逃げる。屋台堤の右へ走る道は人家が乏しいが、木立がある。賊は遊廓から離れた木立で振り返り、忍び刀を抜いた。

 扇は見ようとし、立ち止まる。

 次の瞬間、扇の背へ鋼の錘が命中し、扇がうつ伏せに倒れた。

 背後の影からやはり忍び装束姿の少年が出てきた。大きな目に影のある少年は鎖鎌の錘を手元に引き寄せる。

「仕方のないこととはいえ、酷いこととなった」

 最初に逃げていた賊がそう漏らす。

 そして、背骨を断ち割られた扇の骸を見下ろした。

 だが、草地には袖なし羽織が一枚、紐のある前を下にして落ちているだけ。

 それまで死んでいた気配が突然、木立のなかから沸いて、二人の賊は咄嗟に跳んだ。木立の枝に身を隠した扇は両方の手で別々に逃げる賊へ棒手裏剣を見舞う。

 小柄な少年らしき忍びが小刀を放った。

 扇の体を守るように伸びる枝がそれを遮った。

 だが、ささった小刀の柄からは火縄が伸びていて、パチパチと火の粉を飛ばしていた。

 木から飛び出して、一拍置いて、木が吹き飛んだ。

 扇は転がりながら、何とか体勢を立て直し、刃を胸の前で寝かせるようにして、二人の賊を向かい合う。

 最初の賊が右、後の賊が左にいて、風をまくようにして鎖鎌の分銅をまわしている。

 ほんの十数秒の間だったが、数刻そうしているかのように思えてくる。

 緊張は銃声で弾けた。

 鎖鎌の分銅が鋭い金属音を立てて、鎖から離れて夜闇の濃い人家の影へ飛んでいく。

 泰宗が右に太刀、左に銃を持った状態で賊たちに発砲していた。その後ろからはすでに得物を抜いた大夜と半次郎、それに他の見世の用心番たち数名が駆けてきていた。

 二人の賊はそれぞれの武器を納めると、島の外へ走った。

 そこから先は空である。人が落ちたりしないよう人の背丈ほどある鋳鉄製の柵がしてあったが、二人の賊はまるで飛ぶようにその柵を越えて、落ちていった。

 自害したか。

 暗殺組織はその構成員に敵の虜囚になるくらいならば死を選ぶように教育されている。他ならぬ扇だって〈鉛〉だったころにここで任務をしくじったころは自殺しようとした。

「落ちたか?」半次郎がたずねる。

「ああ」扇は鋳鉄製の柵に近づいた。

 見下ろせば灯がきらめく長崎港がある。

 骸はおそらく海に落ちる。誰が、何の目的で白寿楼の客を殺したのか、確かめる機会は失われたといってもいい。

 他の用心番たちも柵によってきて、誰かに聞かせるわけでもなく、これは総籬株が集まるな、など意見を言い立てている。

「あれ?」

 泰宗が指をきらめく長崎の町を指差した。

「見てください」

 長崎のきらめきをさえぎるように二つの小さな影が北へと飛んでいく。それは特殊な布を手首と足首に結んで、風を受けながら、去っていくあの二人の賊だった。

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