四の十六
八月がもうじき終わり、九月がそこまで来ている。季節の節目で、旬の食べ物や使える季語ががらりと変わる時期だ。しばらくは暑さは続くが、そのうち去っていく渡り鳥の群れに冬の前触れを感じるようになる。
空を飛ぶ天原では飛んでいる渡り鳥で季節の節目を見る。気が早いかもしれないが、空では夏から秋、秋から冬への変化が地面よりもずっと速い。天原病院ではもう風邪の予防を訴える貼り紙を遊廓や万膳町に貼り付け始めている。
もうじき天原は九州へ移動することになっている。
暮れ六ツを過ぎた天原は、移動の前に一目、馴染みの花魁に会おうとする客で賑わっていた。薄ぼんやりとした灯のなかを華やいだ声や音楽が漂い、常咲きの桜が花弁を散らす。
白寿楼の権蔵は今日も妓夫台に座り、客を呼び込んでいる。馴染みが登楼れば、履き物を預かり、遣手へ渡す。預かった履き物をきれいにするのも妓夫の仕事である。昔は下駄や草履だけだったので、小刀で下駄の歯のめくれたのを削り落としたりしたものだが、当世は革靴が多くなって、靴墨で磨くほうが多いくらいだ。
そんなことを考えていると、革靴の馴染みがやってくる。
権蔵は心得たもので、お上がりになるよお、と見世の遣手へ告げる。それは特別な客だった。
なにせ、お目当ての相手は花魁ではないのだ。
客が通されたのは普通なら絶対に客が入ることのない見世のカエシ――用心番の控えの間だった。
「おっ、来たな。セッツの御大尽」
寝転がっていた大夜がゆっくり起き上がる。
「いつもどおり、ヒョーロク玉で結構ですよ」
客――六代実篤が気恥ずかしいそうに笑いながら、紫の座布団の上へ座る。
「もうじき九州へ移動されるときいたので」
「しばらくは会えないってわけだ」
「大阪ではやることがまだありますから」
「なかなか放しちゃくれないわけだ。まさか天原の大見世で用心番と大阪の町が客を取り合うなんてトンチキなことが起こるとはねえ。こんなこと、これが最初で最後だぜ、きっと」
「九十九屋さんには感謝してもしきれません。特別な措置を計っていただいて」
「あたしがあたふたするのが見物なのさ。大将のことだから」
襖が開き、酒と膳――真鯛の田楽焼きが届けられる。
「ますは一献」
大夜が実篤の猪口に冷酒を注ぐ。
それをあおり、今度は実篤が大夜に返す。
「うん、うまい」
白寿楼のカエシの一間で酒と肴と人が揃い打ち、興が湧いた。
「あんたがあたしを大阪の町みたいだから惚れたって言ってたけど――」ほぐれた言葉が舌にのり、声になる。「あれ、悪い気はしなかった」
それを聞いた実篤の顔がぱあっと明るくなる。
「きっとそう言ってもらえると思っていました」
「でも、調子に乗んなよ。あくまで悪い気はしないってだけだからな」
「はいっ。でも、うれしいなあ」
実篤は朗らかな顔をした。
こっちまで釣り込まれそうなくらい、いい顔をしやがる。
もちろん、大夜はそれを本人には言ってやらない。
第四話〈了〉




