終幕 廓雲と扇の剣士
丸に五本骨扇の紋付き袴をつけた扇はいま世界で最も慌てている人類だった。
「なあ、本当になにかおかしくないか?」
「大丈夫だって!」と、寿。「もうどこから見ても、立派な新郎だよ」
「神前式なのに神社に行かなくて本当にいいのか?」
「だって、おれと千鶴ちゃんがいるじゃないか。だいたい神社で式を挙げようものなら、神さまがどんな意地悪仕掛けるか分かったもんじゃないよ」
神ヲ疫病神ミタイニ言ウナ。
「ほら、神さまも一応いまここにいるから」
「寿、正直に告白する。師匠が心配なんだ」
「師匠じゃなくて、りん、でしょ。今日は師匠呼び禁止。破ったら火薬中毒者の刑」
「う……」
「大丈夫だよ。りんちゃんはもともとかわいいし、それに朱菊太夫や陣丸重兵衛がついてるんだから」
「そうじゃない。師しょ――りんがきれいなことは分かってる」
「じゃあ、なにが心配なの?」
「りんを見て、おれが卒倒するかもしれない」
「なんだい、もう、のろけ話?」
「おれは真剣なんだ」
おーい、扇の字、と虎兵衛があらわれる。
「向こうはもう準備万端だとさ。式を始めようじゃないか」
朱菊大夫と陣丸重兵衛、それに男花魁の伊織と音二郎の春木兄弟が念に念を入れたりんは高く結った島田に綿帽子をかぶった白無垢姿。吉原の八朔もかなわないりんの白無垢を見て、扇は卒倒しそうになるところを寸でのところで持ちこたえた。
神前式を遊郭の大籬でやる。こんな狂い興は新郎が扇で新婦がりん、そして、場所が天原遊郭であったからできるものである。虎兵衛の粋で白寿楼は貸し切り、花魁から禿までふたりの衣裳に黄色い声をあげた。用心番たちはなにか悪だくみでもしているらしい。そこには十鬼丸と紫苑、槐と藍がいる。それぞれが八年後に扇とりんに続いて、白寿楼での神前婚をすることになるのだが、それはまだ先の話。
祝詞奏上は春木兄弟の小太刀舞を神楽代わりに大きな池の中庭にある舞台の上で行われた。普段は大夜や槐相手に棒術稽古に使う場所だが、今夜は白い花をつけた柳がそよそよと揺れるなか、池を囲む四方の回廊は四階まで見物人でいっぱいだ。
そこに白い狩衣姿の寿が幣を持って、祝詞を読み上げる。
「コホン。――掛けまくも畏き白神神社の出張に御使い寿恐み恐みも白さく、八十日日は有れども今日を生日の足日と選定めて、九十九屋古兵衛の媒妁に依り、天原白寿楼に住みて大神等の御氏子崇敬者と仕奉る扇と、天原時千穂道場に住める時千穂りんと、大前にして婚嫁の礼執行はむとす。是を以ちて大神等の高き大御稜威を尊奉り仰ぎ奉りて、親族家族等参来集ひ列並みて、大前に御食御酒海川山野の種種の物を献奉りて称辞竟奉らくは、天地の初の時に二柱の御祖の大神等の創給ひ定給へる神随なる道の任に、大御酒を厳の平瓮に盛高成して大御蔭を戴奉り千代万代の盃取交し、永き契を結固めて、今より後、天なる月日の相並べく事の如く、地なる山川の相対へる事の如く、互に心を結び力を合わせて相助け相輔ひ、内には楼主の教を守り、外には廓の御法に遵ひ、身を修め、家を斉へ、家業に勤み励み、子孫を養ひ育てて、堅磐に常磐に変る事無く、移ろふ事無く、神習ひに習奉らむと誓詞白さくを平らけく安らけく聞食して、行末長く二人が上に霊幸ひ坐して、高砂の尾上の松の相生に立並びつつ玉椿八千代を掛けて、家門広く、家名高く、弥立栄えしめ給へと、恐み恐みも白す――どうしたの、ふたりとも? ポカンとして」
「いや、お前、祝詞読めたんだな」
「すごいです、寿さん」
「ひどい。おれだって一応、神さまのお使いなんだからね?」
祝詞が終わると、用心番たちが舞台に乱入し、新郎と新婦をかっさらった。ふたりを持ち上げた用心番のなかにはあのとき助けた〈鉛〉がいる。少しずつだが、〈鉛〉だった自分が取れ始め、表情が丸くなった。
その後、ふたりを上座に一番大きな座敷で関係者一同集まってのどんちゃん騒ぎになった。白寿楼名物小田巻を出すために大夜は自己犠牲の精神を発揮して、自分自身を鯉に餌付けた。「大夜姐御の一世一代、てめえ漬け。目ぇかっぴらいてよく見とけ!」と言って、四階の廊下から飛び降りて、大きな水柱を立てた。ところが、そこで池から上がるところで六代実篤が来賓にいたことに気づいて、大夜は池の水が湯に変わるほどの熱で顔を真っ赤にした。虎兵衛はいつも通りの口上を切って、待ってましたの小田巻をふるまう。
大皿に鯛の塩焼きや伊達巻や海老などをたんまり乗せたすずがやってきて、「これで扇さんも晴れて姻戚ですね。わたしのことはこれからはお姉さまと呼んでください」と妙に鼻高々に言ってきた。その後、すぐにコスモポリタン・ホテルから洋食を入れたバスケットが十も二十も届き、すずは猟犬みたいにすっ飛んでいった。すっかり酔っ払った久助は火薬中毒者と組んで、火薬御膳という名の地雷を扇の部屋に仕掛けたことを懺悔し、ふたりのために蒸気機関の力で動く洗濯機を祝儀がわりに渡すことを歯車とギア比の神さまに誓った。
巨大ウツボのパトリツィアは神前式にすっかり感動し、今すぐ婚礼の儀を上げたいと火薬中毒者を探し、新婚旅行はチリ共和国のアントファガスタへ行くという計画まで教えてくれた。時乃と舞が肩を組んで、「酒が飲めるぞー」の唄を歌っていたが、扇の知っているなかでは最も冷静で澄ましたとこのあるふたりがあそこまで泥酔するのを見て、今日という日は特別なのだなと改めて実感する。
九十九屋虎兵衛と朱菊太夫がやってきたのは勧められるままに杯を重ね、扇もりんもぼうっとなったころだった。
「なあ、太夫。覚えてるか。扇が初めてここにやってきたときのこと」
「あい。あのときはとんだとんちきがやってきたと思いんした」
「あのときにした賭け。覚えてるか?」
「どうしんして、忘れることができんしょうかえ」
虎兵衛は扇を見ながら、嬉しそうに、
「賭けはおれの勝ちだ」
「いけず」
「おや、悔しいかい?」
「今となってはこはばからしゅうありんす」
「そう言うな」
虎兵衛が朱菊太夫の手を取る。
「賭けはおれが勝った。だが、こちらのほうが興は冷めない」
「……はあ、楼主、ぬしさまはほんにずるいお優でありんす。いけず」
ふたりが去ると、扇はりんを見た。ぽうっと赤い頬を見ていると、おれはこの人に恋をしたのだ、と当たり前のことをたった今、強く感じた。遊郭では恋と愛は違うものという。しかし、愛を強く長持ちするものにするには、恋が欠かせないものなのだそうな。
おれはこの人に恋をした。
これからなにかあるたびに扇はそれに気づくだろう。
それだけではない。他にもいろいろなことを感じていく。
そのなかには空の星をつかみ下ろすことのできるものもある。
だが、自分はいつだってそばを流れている。
愛する人、恋した人のすぐそばを。
全ての大切な人たちのそばを。
興が貫く大芝居。本日、めでたく大団円。木戸賃払いが大声上げる。芝居はハネた、役者は帰る。二銭玉は箱に落ちる。弁当食いねえ。人力車を呼びな。帰り道ゆく月霞。見上げた空に大遊郭。銀のすやりを従えた、あれぞ名高き天原ぞ。芝居と現実、境がつかぬ。サカイサカイは作界の籬。お前、ホントに天原ならば、鉛が扇に、扇が扇に。化けた化けたの初心狸。常咲き桜の仲町を、貫く婚礼、道中無事で。笑ってやるな、旦那衆。純な夫婦を宴は離さぬ。邪魔はいかんぞ、野暮狸。天原いいとこ、細目おくれ。空を飛べ飛べ人力車。ああ、届かない、届かない。行きやがる、行きやがる。
天原遊郭、空をいく。今日は畿内を、明日は西国。どこに飛ぶかは風比べ。
飛んだ先では謎珍事、待ち受け待ち受け招き受け。
とと、それはまたのお話。幕が下がってきやがった。
どうも、どうものありがとござんす。
廓雲と扇の剣士。
これにて終幕。
めでたしめでたし。




