三十の十三
気がついたとき、扇はベッドのなかにいて、最初に目についたのはスズランの形をした軍艦ランプ、次に目についたのは盥に座って炭酸水を頭から浴びながら、「ひゃーっ、きくぜい!」と叫んでいる艦長だった。
「おう、目が覚めたか。扇の字」
と、まるで虎兵衛みたいな呼び方をすると思えば、よく見れば、それは艦長ではなく虎兵衛だった。
「あんた……どうして?」
「それよりいろいろききたいことがあるだろ? ちょっと待ってろ、りんちゃん呼んでくる」
「ま、待ってくれ、楼主!」
だが、虎兵衛はあっという間に部屋を出ていった。いろいろきかなければならないことはあるが、今、りんと顔を合わせられる覚悟というか準備がないというか……。
りんが扉を開けて入ってくる。
「師匠……」
「扇さん……」
りんは開いた扉をよりかかるようにして閉じた。それから小さく震えたと思ったら、扇に抱きつき、何度も「よかった」と言いながら涙ぐむ声をあげる。
「すまない。心配かけた」
「本当です。本当に心配したんです」
あれから扇はりんに肩を借りる形で教会を出た。〈鉛〉たちを連れて。
「あの光の先にあったのは……我が子を失った母親の途方もない悲しみだった。命は消えて、ただその悲しみが、そして悲しみから逃げたいという意思があの女を形作っていた。おれが見たのは死んだ幼子を抱きながら、子守歌の代わりにあの唄を歌い続ける女の姿だったよ」
「扇さん。〈ほむんくるす〉って知っていますか?」
「人造人間だろう?」
「そうですけど、そうではないんです」
「と、言うと?」
「死んだ子どもの体に霊体を取りつかせる技術。〈ほむんくるす〉はそれを指しているんじゃないかという説があるそうです」
「そうか……正直な話、自分がヤマトの連中につくられた人造人間だとしても構わない。そう思っていたが、それでもそういう話がきけると安心する」
「扇さんも、〈鉛〉の子たちもつくりものなんかじゃありません。人間です。人間になろうとあんなに苦労した扇さんが人間じゃないっていう人がいたら、小伊豆の錆にします」
「そこまでしなくてもいいよ、師匠」
「すいません……他に覚えていることは?」
「教会を出るときに? そうだな……〈鉛〉の顔」
眼前に広がる世界への不安を見せる〈鉛〉たち。
これからその不安を取り除き、人間として生きることを取り戻すのが自分の義務だ。
「そうではないと思いますよ。ここに生きる全ての人の義務です」
「師匠……」
「もちろん、わたしもそのひとりです。だから、扇さん。ひとりで背負ったりしないでください。わたしにも背負わせてください」
「すまない……」
「いいんですよ。わたしはそうしたくて、そうするんですから。それに扇さんが助けた〈鉛〉の子たちを引き取る交渉をいま虎兵衛さんがしてくれてます」
「だから、楼主が? ……また大きな借りをつくったな」
「あの人にはかないません」
「違いない」
「それで扇さん……その、えーと」りんは下を向き、膝の上で丸まっている自分の拳を見ながら、「あのときのことなんですが……全部、覚えていますか?」
そう。それなのだ。扇が今すぐにりんと顔を合わせる覚悟をつくらないといけない理由とは。
「その、おれのほうも記憶がちょっとぼんやりしている」
「そうですか――」
しゅんとしたりんに、
「だけど、おれは、あのとき言ったことをあいまいな状態のままにしておきたくないんだ。あのとき、言ったことは心からのものだ。だから、ちゃんと言いたい。いま、ここで」
ふたりは小さく息を呑んだ。
「ただ、その前に」
扇は枕元に立てかけてあった瑞典是永を抜くと、扉目がけて投げつけた。ハバキがぶつかるほど刺さった扉の向こうから「うわあ!」とか「あぶねっ!」といった声が湧く。
「盗み聞きしているやつらがいる。あの声は大夜だな。ということは半次郎と泰宗も?」
「はい。みんな、扇さんのことが心配だったんです」
「ということは、火薬中毒者も」
「もちろん」
「あいつ、師匠に迷惑かけなかったか?」
「それどころか助けてくれましたよ。火薬機関を運転して、艦隊の偉い人を人質にとって、教会への総攻撃をとどまらせたのは火薬中毒者さんたちです」
「そうか。まあ、あいつらだって、たまには人の役に立たないとな」
「ふふっ。そんなこと言って、嬉しかったんじゃないですか?」
「まあ、そうかもしれない。それで――さっきの話だが」
「はい」
「あのときと全く同じことを言うと思うが、きいてほしい」
「はい」
「感じなかった流れをいま、また感じるようになった。それがどこへ流れていこうとしているかも知った。これ以上、その流れに逆らえそうにない。だから、おれはその流れに身をゆだね、人になることで得た心のままに言いたい。りん」
「はい」
「おれの妻になってくれ」
「喜んで」
それをきいて、外の廊下からワアワア声が上がる――やれやれ、やっとか!――婚礼式の火薬御膳は任せてください――甘味だ、甘味! めでたいときには甘味に限る!――バカ、お前ら、盗み聞きしたのがバレるぞ――楼主、壁にくっつけたラッパ管で耳を澄ませていては説得力がありませんよ。
「あいつら――」
りんが立ち上がって、是永を扉から抜き取ると、「やばい! 逃げろ!」「人殺しぃ!」と声がして、遠ざかる足音がそれに続いた。
りんは是永を黒塗りの鞘に納め、扇に渡した。
「結局、これを使ってしまった。今回は剣に頼らずにカタをつけるつもりだったんだが」
「いいと思いますよ」
「え?」
「だって、あなたは剣を正しく使える本物の剣士――扇の剣士なんですから」




