三十の十二
「なぜ――〈鉛〉を集めた?」
女はひろげた手をゆっくりと下ろした。少し傷ついたような顔をした。白くゆったりとした服に首から一枚のメダルを下げている。
「この子たちには親はいない。みんな、わたしにつくられた。だから、ここで暮らすのがいい。あなたもそう思わない?」
「思わないな」
分かってはいたが、やはりそうなったかという顔で女が問うた。「なぜ?」
「こいつらの顔を見れば分かるはずだ。生気のない〈鉛〉の顔だ。ただ、暗殺を命じられていないというだけ」
「わたしはこの子たちを愛しています。みんな、わたしが創造したのだから。もちろん、あなたのことも。あなたのいるべき場所はここなのよ。さあ、わたしたちと永遠の安らぎのなかで暮らしましょう。誰かを殺したり殺されたりすることもない、ここがあなたたちの故郷。あなたたちの楽園なのよ」
常咲きの老桜が星の海に枝をかけ、花びらは流れ星となる。
途方もない絶景だが、そこに温度はない。温かくあろうとも思わず、冷たくなろうとも思わずにいれば、人も桜も星の海も自然と氷のなかに閉じ込められる。万物はそのようにできている。
だから――、
「だから、〈鉛〉が生まれる。だから、人として生きたい。強くそう思うんだ」
「人になる必要なんてない」
女の声にかすかだが憎悪がよぎる。それだけで大気は氷のように冷たくなった。
「人間になる必要なんてない。つくれと命じた人間がなにをさせた? いま、外の人間たちがこの子たちを優しく迎え入れる? あいつらはこの子たちを利用し、この子たちに全ての罪をかぶせて、殺そうとしている。わたしの子どもたちを! あいつらは取り上げた! かわいそうに。こんなになって。心を失って。でも、傷つくと分かっているなら、心なんて必要はない。心がなくても愛してあげることができる。わたしが、この子たちを愛してあげる。ずっと、ずっと」
黒く不吉な波動が女を縁取り、それは太古の世界を押し流した洪水のごとく荒れ狂った。
風の力を借りるつもりがないくせに陸上軍艦はマストをつくる。てっぺんに目が恐ろしくいい水兵を置いて、見張りにするためだ。坊主頭の艦長の船の見張り台からは小高い丘を囲うマストの群れが見える。もちろんマストの下には大口径の火砲を装備した軍艦がずらりと並んでいて、命令ひとつで教会を丘ごと吹き飛ばすことができた。
艦長と老将軍はすでに電信を飛ばして、丘を吹き飛ばすのをやめるよう説得しようとしたが、効果がなかった。
「あれだけ詰まってちゃあ、うちの艦が入り込む余裕もないな」
「旗艦の司令官はなんと?」
「許可なく近づくものは誰であれ砲撃してぶっ飛ばすそうだ」
「その許可、この艦は持っているのか?」
「ない」
「そうか」
艦は教会を囲む艦隊のほうへ舳先を向けている。そこで、りんは不安そうにマストの上にちらりと見える教会を見ていた。そこに扇が感じられた。扇の流れは教会を中心に流れ出し、艦隊を浸し、草原を広がって、りんに優しく触れていた。すぐそばに扇がいるような気がした。自分がそばまで来ていることを知らせる術がないことがひどく胸を苦しくした。
艦長と老将軍と火薬中毒者はりんの切なさを見て、なんとか励まそうとしたのだろう、艦長は盥を貸すから炭酸水を頭から浴びてみてはどうかと勧め、火薬中毒者はおやつのとっておきの火薬を分けてあげる決心をし、老将軍は気落ちした女の子を励ますのにどうしたらいいのか分からないので、他のふたりを見習って、銃を一丁貸した。
「あ、ありがとうございます」
「気落ちするな。あれはそんな簡単にやられる男ではない」
「そう、ですよね。それに逆の立場だったら、扇さんは絶対あきらめたりしません。わたしもしっかりしないと――」
そのとき、甲板から歓喜の悲鳴が上がった。クリミア戦争で絶体絶命に陥った英軍が仏軍のズアーブ連隊が次々とやってくるのを見たときのような、あるいはナポレオンがワーテルローで負けたことをいち早く知ったロスチャイルドのような、あるいは竜巻で飛ばされて着地したところがアントファガスタだと気づいたときの火薬中毒者のような――ともかく、激しい運命の好転を目に見た人があげられる類の叫びだ。
その叫びの根源は、まあ、予想通り、火薬中毒者だった。
「火薬機関一号!」彼はそう叫んだ。「見てください、りんさん! わが青春の火薬機関一号があそこに! これは運命ですよ!」
そう指差した先には経済的な巡行速度で走る自動車とそこに乗っている三羽烏の姿があった。
艦隊の司令官は〈鉛〉の隠れ家を砲撃するにあたって、弾着を図式にした。彼の予想ではきっとあの教会には脱出用の地下道があるので、教会だけでなく、そのまわりの土地にも砲弾を叩き込み、地下道を潰してしまうよう命じた。司令官は悪人ではない。むしろごく普通の倫理観の持ち主、つまり善人だろう。そして、善人からすれば、〈鉛〉は滅びるべき存在であり、二度となされるべきではない悪だった。いくら殺人鬼となった子どもだとしても、それを殺せば、彼自身、悪夢に悩まされることになるが、革命は生易しいと言った人間はいないし、これからも出ないだろう。
「これが終わったら」と司令官は艦長に言った。「ヤマトは日本で最も子どもに優しい国にならなければいけない。教育、養育、孤児の保護、虐待からの保護、児童就労の禁止。そんなことをして、これからやることの罪滅ぼしになるとは思わないが、しょうがない。誰かがやらないといかんのだ」
そんな覚悟を決めている司令官のもとに電報が入った。暗号解読後の平文が走った紙を一瞥すると、司令官は眉根に皺を寄せた後、命令した。
「砲撃しろ」
落ちる砲弾も十発目くらいになると、これが当たるかどうかが分かってくる。大夜、半次郎、泰宗、火薬中毒者、そして、りんを乗せた復刻版火薬機関一号は火薬中毒者が持てる火薬を全部汽罐に突っ込むことで本来の走りを実現した。
近づくものはなんであれ、砲撃するという脅しは本物で火薬機関の左右でバーンバーンと凄まじい音を立てて、火柱が焼けた土を噴き上げていた。
「シモウサって半次郎もついていったんじゃなかったのかよ!」
「ん? ああ、そうだ。そういや、これ、あのときとそっくりだな。なんで気づかなかったんだろ」
「甘味のことを考えていたからでしょう!」
「それ当たりだ」
半次郎は火薬機関一号に乗ったことがある。条件は彼らの方向に砲口を向けている砲の数で圧倒的にこちらのほうが分が悪い。ヤマトじゅうの陸上軍艦がこの死のかっ飛び自動車目がけて榴弾をぶち込んでいる。火薬機関が走った後には燃え上がる火柱が次々と噴き出るので火薬機関一号はまるで火薬の軍勢を従えた神さまか何かのようにも見えた。
「見てください! あの砲弾のパターンを!」
火薬中毒者が指差した先では一斉射撃で横一列に並んだ重砲弾がある。
「あのままいけば、火薬機関一号の前に爆発の屏風ができますよ! すごい火薬量だ!」
「うっとりしてないで何とかしろー!」
火薬中毒者は操作盤の赤いボタンを押した。その瞬間、火薬機関から車輪が外れて、砲弾のような形の本体が斜め四十五度で空目がけて飛び上がった。俵物商人が見た空飛ぶ火の玉とはまさにこの状態だった。りんの足下で火柱が丸く膨れ上がるようにして火薬機関を飲み込もうとするが、火薬機関の上昇性能が勝った。あまりにも高く上がり過ぎたため、大砲の角度は限界だった。対空砲を撃つ艦もあったが、陸地で受けた砲撃に比べると規模は小さく、火薬中毒者的にはがっかりだった。
空から落ちる砲弾と化した火薬機関は旗艦がマストに掲げる司令官旗目がけて落ちていく。マストの見張り水兵が喚き散らす横をかすめると、全員頭をひっこめろ!と大夜が叫び、その数瞬後、火薬機関は板張りの後部甲板を突き破り、艦隊司令部となっている食堂へ突き刺さった。
暗くて冷たい。
どこだ、ここは?
水に流れを感じる。息ができないのに苦しさがない……紅葉が水底に分厚く積み重なり、扇の体を優しく受け止める。ずっと前からここにいたみたいな気がする。心が休まる。
「ずっとここにいればいい」
そばに立つ扇が言った。いまの自分よりも少しだけ若い――あのころの扇。
「でも――」
「誰もお前を傷つけないし、お前が傷つけることもない」
「おれは――」
「ずっとここにいた。そうありたいと願ったが、なれなかった。ただ渓流に落ちた紅葉みたいに翻弄されて――ここに戻ってきた」
「ああ――そうか」
「思い出したか?」
「ひどく疲れた」
「眠ろう。扇。おれが見ていてやる」
「すまない」
……………。
……………。
……………。
「扇さん!」
閉じかけたまぶたが開き、柔らかい唇が唇に重なり息が吹き込まれる。
気づけば、扇は瑞典是永を抜き打ちにしていた。
なにを斬るわけでもない、その冴えた太刀筋が虚空で弧を描いたと思えば、扇から太陽よりも眩く凛とした光が全ての方角を目指して広がった。水底の紅葉がいっせいに巻き上がり、螺旋を描きながら光り輝く水のなかで流れをつくる。
「りん……」
扇の体は螺旋とともに水面を目指して昇っていく。光の天井とも思える水面から飛び出した。




