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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
最終話 廓雲と扇の剣士
604/611

三十の七

 老将軍は命に別状はなかった。弾は骨も動脈も外していたが、旅には同道できそうにない。

「すまんな」

「いや、あんたのせいじゃない」

「ほんとだよ」と大江艦長。「全部、おれのせいなんだ。おれはただかっこよく拳銃をまわして銃嚢に仕舞おうとしただけだったんだが、撃鉄の野郎が勝手に起き上がっててなあ。こうなったら、おれの艦であんたの旅の面倒を見る義務があるんだが、事情聴取だなんだでしばらく艦は出せそうにない」

「問題はない。ひとりで旅を続ける」

「ほんとにスマンなあ。まったくおれは本当に自分勝手な野郎だよ」

 朝、ヤマト遊郭を出て、停泊中の陸上軍艦のあいだの道を進んでいくと、

「ちょっと待って」

 やってきたのは傘だった。

「ひとつ伝え忘れたことがあったの。でも、役に立つか分からない」

「なんだ?」

鋳物師イモジよ。この草原には鋳物師の住む集落があるの。このまま南へ下って、左手にふもとの見えない白い山が見えたあたりから西のほうを注意して見て進んでいって。そうすれば、たくさん煙が出てる村が見つかる。そこが鋳物師の里。他に手がかりがないから、どうしようもないけど」

「いや、ありがとう。助かる」

「本当はわたしも行ったほうがいいんだろうけど」

「大丈夫だ。そっちは仕事もあるだろうし」

「……本当は、怖いんだ。あのわらべ唄も、それをきいた場所のことも。また〈鉛〉に戻っちゃうんじゃないかって」


 そんなやり取りがあったのが四時間前。

 いまは頭上に正午の太陽を遊ばせながら、南へ道を取っている。行く手を横切る雲の下には紫がかった霞のようが影が広がっていて、水鶏の鳴き声が葦を打っていた。土地は際限なく広がり、地平まで緩やかな勾配が繰り返しあらわれ、やがて空と地の境に引かれる一本の線に集まっていく。人に出会うこともあるが、変わり者が多かった。伊瀬神宮目指して北へ向かう巡礼や温泉を掘るための道具を荷台に乗せて蒸気自動車で旅をする技師の一族、雷を捕まえるために凧を飛ばす老人。扇自身だって変わり者だ。〈鉛〉の生き残りを助けに行くのだから。そもそも彼ら彼女らが助けも求めているかどうかだって分からないし、いまこの世界は〈鉛〉の血を流すことを欲している。巡礼も技師一族も凧の老人も〈鉛〉に誰かを殺されていた。そうしたことは理屈で考えられるものではなく、お偉方の銃殺できれいに解決するものでもない。これだけ広い草原が目の前にあっても、その壮大さは過去に流された血の悲しみを一滴分でも慰めることができなかった。時間が必要だった。現在の出来事が歴史と称されるくらいの時間が(それも安っぽい愛国心に汚されなかった歴史だ)。だが、そんな悠長なことを言えば、〈鉛〉たち全員が自ら命を絶つかどうかしてしまうことは間違いがなかった。この解放された国で扇は大勢の人間の怨嗟を買うことをすべく歩いている。流れが感じられない。そう、りんに相談したとき、りんは扇を中心に大きな流れができていると言った。もし、生まれつき殺すこと以外知らない子どもたちを救う機会があるとすれば、今、このときしかない。それは正義や理性の問題ではなく、公平の問題なのだ。

 扇はその夜、夢を見た。ずっと未来の出来事。そのなかに扇がいた。扇であるはずはないが、扇だった。()()()ももがいていた。戦争で多くの人びとを殺した。人殺しの生き方から逃れようとしても、逃れることができず、戦争が終わった後も金で人を殺していた。金を受け取っていたのは、世の中がそうあるべきだと思うからで、その扇が人を殺していた最大の理由はそれ以外に生きることを感じることができないからだ。知人はそれなりにいたし、友人と呼べそうなものもいたが、それでもその扇は暗殺から離れることができなかった。治安がそうさせたのかもしれない。未来の世界はひどく治安が悪く、一部の金持ちと犯罪組織が全てを支配していたのだ。未来というより、別の世界のように思えた。ひどく息苦しい世界だった。

 目が覚めると、東の地平に橙の光がにじんでいた。もうじき夜が明ける。扇は缶詰と水筒で簡単に朝餉を済ませた。漬物がないのが寂しい。白寿楼で暮らすと漬物を我慢したり妥協したりすることができなくなる。漬物。朝を好きな漬物とともに迎えることができる。それが理由でもいいではないか。扇は想像した。暗くよどんだ流れのなかで、自分を道具だと思い込んでいる〈鉛〉たちにこう言うのだ。

「朝一番に好きな漬物で一日を始められる。だから、一緒に来い」

 悪くはない。悪くはなかった。

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