三十の四
ヤマトの山々はきれいさっぱり消えてなくなり、そこにはただ青く波打つ海のような広がりが地平の彼方まで続いていた。耕すなり灌漑するなり好きにしていい土地は自由の寓意のようだった。自由と無法を取り違えた盗賊だって出るし、女を幽閉する遊郭もあるかもしれない。でも、目の前の草原には自由が広がっていた。もし、ロシア人の画家がキャンバスを置けば、その完成作にはどこまでも広がる草原の風のなかでふたりの男女が笑い合い、腕をいっぱいに伸ばす姿が描かれ、その題名は『なんて自由なんだ!』になるだろう。
こんな土地へ最初の一歩を踏み込むことは勇気もいるし、ある程度の分別とおわかれしなければいけないが、いまの扇はまさに自由の大地へ飛び込む最高の状態にあった。風は自分を中心に吹いていて、世界じゅうの小さな草たちがそれになびいているとすら思った。扇が指を差し向ければ、その一角には赤、紫、青、黄色、白の野花が小さな花弁を開くだろうし、百年生きた鯉のように水を自由に操れる気にだってなれた。
老将軍は懐中時計にはめ込んだコンパスを持っていて、それを頼りにふたりは草原を南へ進んだ。二時間もあるくと、草原の手前にあった最後の宿場町は空と大地が溶け合う一本の線のなかに消えてしまった。ぽつんとくぼんだ小さな土地。草を食む一頭の野牛。実が熟さない果樹の木立。土地は真っ平で向こう岸が見えないから、水に出会うとそれが小さな池なのか巨大な湖なのかが分からなかった。海ではない。分別とおわかれしたとはいえ、ヤマトに海があるというほど、はっちゃけてはいなかった。
この平原は宇宙のどこかで貸し借りを管理している神がこれまでのヤマトの不自由を補填するつもりでつくられたのではないかとさえ思えるほど素晴らしかった。夏の太陽があまりにきらびやかなので地面から蜃気楼が湧いた。ひどく女性的な影が踊ることもあれば、透明な象の一団が地平線を目いっぱい横切っているようなものが見えることもあった。腰丈の石垣で区切った土地にある墓地では人魂がくるくる舞い上がった。フロックコートを来た男が荷馬車いっぱいの鉄条網を載せ、途方に暮れている蜃気楼を見たが、よく見ると、これは蜃気楼ではなかった。
「絶対売れると思ったんだがね」男は言った。「なんせ、これだけの土地を区切るもんがない。あなたの大切な家畜を守れるのは我が社の鉄条網だけ! 直径は親指ほどもあってペンチなんかぜんぜん受け付けないし、鉄製品だから蓄電瓶をつなげておけば、不法侵入者をカリッと揚げてくれる。でも、全然売れないんだよ。というより、人に出会う機会がないんだ。こんなことなら、あそこの遊郭にずっと入ればよかった」
「遊郭があるのか? この草原のなかに?」
「あるとも。でも、ずっとい続けるには金がいる。遊郭ってのはそういうもんだからな。でも、連中は現品払い、つまり鉄条網なんだが、それを受け付けないっていうんだ。遊郭のなかでも鉄条網を買ってくれそうなやつはいなくて、仕方なくこうして鉄条網を売るべく勇躍したんだが、いったいここはどこなんだ? まさか、死後の世界じゃないよな?」
「ひとつききたいんだが、〈鉛〉を見なかったか?」
「うちの鉄条網はちゃんと鉄製だよ」
「そうじゃない。暗殺者の〈鉛〉だ」
「さあね。そんなやつら、知らんよ。遊郭にいけばいい。あそこは人の出入りが多いから、誰かしらなにか知ってるんじゃないか?」
「どうやったら行ける?」
「ここを南にずっと歩くんだ。三、四日もあるけば、着くだろう。じゃ、わたしは行くよ。北に商機が転がってそうな気がするんだ」
道はそこから左右にうねっていた。熱で草はうなだれ、白い砂の筋が緑の勾配にいくつも走った。扇はシャツのボタンを開き、手をうちわ代わりに風を胸のなかへ追い込みながら、道を無視して最短距離を真っ直ぐ歩いていた。老将軍は道なりに歩いた。ふたりの歩く速度は同じくらいなのに、扇が道と交差するころになると必ず、先を歩く老将軍の姿があった。
「納得いかないな」
「お前が納得いこうがいくまいが、おれのほうが速い」
「納得いかない」
太陽が薔薇色の光をふりまきながら、西の空へ没すると、温い空気をかき回していた風が急に冷えだした。そのとき、ふたりはちょうど古い墓標に着いていた。よほど身分のあるものが葬られたらしく、墓石は石造りの廟のなかに安置されていた。炎天下を南へ歩き続けた扇と老将軍は疲れ切っていて、墓石の左右へ倒れるように寝転がり、素晴らしい夢に彩られた眠りへと落ちた。
扇の見た夢にはりんが出てきた。八月の陽光。雲から吹き出た風がさあっと音を立てて通り抜ける時千穂道場。りんは扇から預かった瑞典是永を袱紗の袋に入れ、自分の袴腰には小伊豆を差した。
「じゃあ、行くんだね?」と、すずがひょっこり出てきて、りんにたずねた。
「はい。扇さん、これからなにか、なにかをするんだと思います。自分のこれまでとこれからにかかわるなにか。流れがいまどう決まるか、揺らいでいるんだと思うんです。だから――扇さんが揺らいだとき、わたしはそばで支えられたら――ううん、支えたいんです」
「そこまで言ったら、まるで夫婦だね。まあ、道場のことは師範代なお姉ちゃんに任せときなさい」
「いつも、ごめんなさい」
「すまないと思う気持ちがあるなら、お土産よろしく」
「ヤマトの銘菓というと何でしょうか?」
「銘菓ならどこの銘菓でもいいよ」
「でも、それなら天原の発着場でも買えてしまいますけど」
「おいしければ、なんでもいいんだよね」
「もう」
「とにかくいってらっしゃい」
りんがヤマトへ旅立とうとしている。りんを今度のことに巻き込まないようにしようとした一方で、りんがいてくれれば、どれだけ心強いかと思っている自分がいる。夢のなかではそれが夢とは思えず、本物だと思うものだが、扇の夢は俯瞰するような視点にあり、これは自分の夢なのだと実感できた。
――これが、正夢ならいいな。
りんが飛行船に乗っているのを見ながら、そう思い、より深い眠りに落ちようとしたそのときだった。
「待ってください! まだ、乗りますよ!」
火薬中毒者がすでに上げ始めたタラップにしがみつき、そのままよじ登って、船内に転がり込んだ。その拍子に、ぶつかれば大爆発する非常に不安定な火薬を入れた試験管が何本か床を転がった。それをもったいないと拾いながら、どうやら誘惑に勝てなかったのか、一本のコルクを外してさらさらと喉の奥へ流し込む。
「火薬中毒者さん? どうして、ここに?」
「なんか、扇さんがぼくのことを夢に見るまで会いたがってる気がしまして。それでぼくもヤマトに行くことにしたんです。きっと火薬に精通した奴隷がひとりいてくれれば、って、いまもこう、空から眺めてる気がするんですよ。いやあ、これはもう運命ですねえ」
と、夢のなかの火薬中毒者はずばり扇の視点へと目を合わせた。
――頼むから、これがただの夢でありますように。
夢のなかで扇は心から祈った。




