三十の三
うどん屋は征夷大将軍の馬場くらいに広く、白い蒸気が剥き出しの溶岩に水をかけたみたいに噴き出していた。うどんのいいところは食べている途中で床にぶちまけてもすぐ拾って食べられることだった。革命の途中ではお互いの軍勢が敵の食事の時間を狙って攻撃を仕掛けてくるから、こぼした後に拾いやすいことは大切な要素だった。
「ここのうどんはきれいなもんだ」と疑わしい顔をしている扇に高杉晋作が言った。「水と小麦粉まぜてこねあわせてから一度も人間の手に触れてない」
「一度も人間の手に触れてないのにどうしてうどんになれるんだ?」
「さあな。機械を使ってるのか、それとも猿につくらせてるか。ほら、来たぞ」
白い湯気の壁からぬっと腕が伸びてきて、きつねうどんが置かれた。盛実ほどではないが、それなりにうまい。うどんのいいところは食べながら話すことを前提につくられていることだった。それぞれが自分のどんぶりに視線を落として、経済的な問題を話し合ったりすれば、目を合わせて話し合うよりもずっとはやく決着がつく。
「で、お前さん、どうして、ここに来たんだい?」
「おれもよく分からない。いや、変化があったからだ。まず、それまで見えていたものが見えなくなった」
「それって見えないとやばいものか?」
扇は首をふった。「いや。だが、見えていることで絆を感じることができる」
「見えてないとやばいもんじゃないか。それで?」
「ヤマトが倒れたときいた。知っての通り、ここに関しては、いろいろ因縁がある。なにをしに来たのか、自分でも分かっていない。ただ、兆しは感じるんだ。いま、ここで自分にできることがある。自分が前に一歩進むためには、どうしてもそれをしないといけないんだ」
「だが、それがなにか分からない」
「残念ながらな」
翌朝早く、あいまいなものを抱えたまま出発しようとすると、首府の門で意外なことに老将軍が待っていた。
「どうせおれたちはもうじき追い出される。いつも、そうだ。おれたちに銃殺刑をやらせて、それが終わったら、雑巾みたいに捨てる。高杉はいつかそれ以上のものを築くことができると信じている。そして、それ以上のものっていうのは、おれにも分からんが、お前がその近くにいるかもしれないことはなんとなく分かるんだそうだ。だから、一緒に行く」
「高杉は?」
「残務処理があって離れられない」
「そうか」
街道から見える藪は左右の遠いところで村を囲んでいて、入道雲の成り損ねがぐらりと大きな頭をもたげて、扇の行く道を横切ろうとしている。扇は正直な話、老将軍との旅は濃度の高い沈黙と旅をするようなものだと覚悟していた。彼が話すことといえば、銃のことで、それ以外はなにも話さない。とはいえ、刀を差しているのだし、それを実戦で使ったのも見たことがある。高杉よりも年上なのだから、戊辰戦争を戦ったのは間違いないだろう。だが、それ以外のことはほとんど分からなかった。
スペンサー騎銃の台尻を自分の腰に押し当て、銃身を立てながら街道をゆく騎兵隊に出会った。シャツとズボンに半被を着こみ、フランス風の軍帽をかぶった男たちは鎖でつないだ囚人を護送中だった。どれも前政権の重要人物で一個の生き物のようにジャラジャラと歩き、顔はうつむいている。ひとりは十四、五歳くらいの〈鉛〉だった。先頭をゆく騎兵が扇と老将軍を見ると、にこりと笑った。すると、二番目の騎兵がにこりと笑い、三番目と四番目と、にこりが伝染した。そして、最後の騎兵がにこりと笑うなり、全員が銃身を下げ、歩いている囚人目がけてぶっ放した。騎兵たちはこれを扇が喜んでくれると思っていたらしい。〈鉛〉も含めて、こうなるべき連中なのは理解できるが、それでも気分の晴れる光景ではない。ヤマトの国じゅうでこうして〈鉛〉が殺されていく。親兄弟の仇と殺すものも多いのだろう。騎兵隊が去り、流れ出る血潮は道から脇の畑へと流れていく。扇たちも立ち去ろうとしたとき、ひとりの手が震えながら、持ち上がった。〈鉛〉の手だった。髪を短く切っていたので男だと思っていたが、それは少女で、よく見れば、まだ十三かそこらだった。もし、〈鉛〉が少女だと知っていたら、騎兵隊の気は変わっていただろうか?
「助けて」苦痛にかすれる声が告げた。扇が血の噴き出る銃創を手で塞ごうとしたら、少女は力なく首をふった。「わたしじゃない。仲間を――まだ殺すつもりでいる。その前に――止めて――」
「〈鉛〉がまだ生きてるんだな? どこにいる?」
少女の目から魂の光が消えた。おそらく手に入れて、そう時間は経っていない光だ。扇はほんのわずかでも人間になれた少女の顔に手をやり、やさしくまぶたを閉じた。
「すまないが、ちょっと戻る」
騎兵隊たちは囚人たちを撃ち殺したところから一時間足らずの街道飯屋で休息していた。銃は楓材と鋳鉄でつくった専用の立てかけ棚に置いてあった。革命中の街道飯屋でよく見かける代物で、これを買わないと革命が起きた気がしないというものすらいる代物だ。世界のどこかに楓を削り、鋳型に鉄を流し込みながら、革命と銃殺の嵐が吹き荒れるのを心待ちしている職人集団がいるのだと思うと、扇の心をなにか冷たいものが鷲づかみにして、自分が為すべきことの輪郭を差し出そうとしてくる。それは決まって悲しげな微笑みを顔にかけている。その正体がかつての自分だと知るのにそう時間はかからなかった。
どこかに養成所を出た〈鉛〉が隠れているのは間違いなかった。この騎兵隊がその正確な位置を知っているとは思えないが、それでもさっきの〈鉛〉を捕らえた場所をきけば、候補地を絞ることができる。相手を刺激せず、ただ場所をきいて、それで敗残の〈鉛〉たちのもとへ行く。そう考えていたのだが、どういうわけだか、扇の足元にはふたりの騎兵がみぞおちをおさえながらゲーゲー呻き、立ち上がろうとした他の騎兵たちは銃架からスペンサー騎銃を取ろうとしたところで、老将軍の六連発拳銃の撃鉄が上がる音をきき、固まった。
「少女まで殺すな」それに尽きた。
「あれは少女なんてものじゃない。人でもない。〈鉛〉だ」軍曹の袖章をつけた騎兵が言った。
人間だった。人間になってたんだ。お前たちが殺す前から。そう言ってやってもよかったが、それでは道理が通ってしまう。扇はいま無茶な不条理を押しつけてやりたい気持ちでいっぱいだった。
「〈鉛〉だろうが、そうでなかろうが、おれはいま、この瞬間から子どもが殺されるのを容赦しないことに決めたんだ」
「わたしの妻はやつらに殺された」
「それは気の毒だな。でも、殺すな」
「無茶苦茶だ」
「そうだ。いまのおれは無茶苦茶だ。あらゆる理屈に逆らってやりたい気分なんだ。そのうちあんたの頭に噛みついて、おれの歯形が一生残るハメになるかもな」
軍曹はじっと扇を見た。深い海の底みたいな目をしていた。どんな不条理を受け続けたら、こんな目で人を見るようになるのだろう。
「妻は教師をしていた」軍曹は瞬きもせず、手を腰の銃嚢にかけたまま言った。「子どもの好きな女性だった。わたしと彼女とのあいだに子どもはできなかったが。なぜ殺されたのか、わたしはいまだに知らない。この国にはそういう人間がごまんといる。実際、多すぎるほどだ。誰に報復をしたらいいのか分からず、容疑のかかったやつを片っ端から撃ち殺している。だが、それを恥じるつもりもないし、正しいことだと思っている」
「それを見せられるか?」
「ああ。妻に見せられる」
「そうじゃない。子どもにだ。あんたと奥さんとの」
「さっきも言った通り、妻とのあいだに子どもはいない」
「いたら、どうなる?」
扇の感覚では五分くらい黙っていた気がするが、実際は二十秒もなかった。だが、海の底から涙がこぼれた。目は一瞬だけ嵐の底で雷に打たれた海のように透き通った。それは長持ちしないし、もう二度とそんなことが起きることもないだろう。軍曹の魂はそこまで打ちのめされていた。最初の涙が落ちるころにはまた目に海の底を宿し、軍曹はそのなかに沈んでいく。
「あの少女は――」軍曹は言った。「南の平野で捕らえた。仲間がまだ生きているとしたら、あの平野のどこかだろう」
「ヤマトの南に平野はない。山ばかりの土地だ」
「今は違う。どこまでも広がる草原がある。変わったんだ、この国は」




