一の六
廓に帰ると、白寿楼はオモテもカエシもまるで戦でもしているような忙しさだった。張見世では、遊女たちがおいでなんし、お入りなんしと声をかけ、中郎や見世番が登楼するお客をさばき、番頭の佐治郎と遣手のお登間が花魁の様子と客の惚れふられを見抜いてうまい具合に敵娼を割り振り、馴染みには馴染みの花魁が通されるし、懐が寂しい客相手でも、白寿楼では廻り部屋が用意されている。
廻り部屋といえば、普通の見世ならば下級の部屋で大部屋を衝立で区切って布団が敷かれているだけのものが多い。だが、他の見世と違い、白寿楼では楼主の――つまり〈的〉の意向により廻り部屋の客も楽しんでもらえるよう工夫を凝らしている。部屋はなるほど座敷ほど豪華ではないが、それでも一つの部屋であり、床の間には見事な一行書の軸が下がり、旬の花が活けてある。決してなおざりにはしない。それに間取りが狭い分、何とはなく遊女との距離が詰め易いと好む客もあり、数寄者の上客のなかには白寿楼ではあえて、座敷ではなくこの廻り部屋を選び、部屋を一つまるごと一年借り上げて、窓の形から違い棚の文箱までこだわって、自分好みの茶室に作り変え、馴染みの遊女に茶を立てる粋人までいるくらいなのだ。
半次郎と〈鉛〉は見世裏手のカエシの入口から見世に戻った。
〈鉛〉は中郎として使われているのだから、二階三階で客や花魁の雑用を手早く務めなければいけないが、さすがに刺客をお客に会わせるわけにはいかないということになり、カエシのほうにまわされた。とはいっても、この時刻のカエシは料理や配膳が主であるが、それらのコツを知らない〈鉛〉にできることは何もない。
鯛の舟盛りや伊勢海老の天ぷら、そして異人に供されるであろう分厚いステーキが運ばれていくのと入れ違いに〈鉛〉は半次郎の案内でカエシの廊下を進んでいく。襖が並び、時おり横を過ぎる小さな中庭には手水鉢や金魚の泳ぐ甕が置かれている。
付け書院の部屋へ着くと、半次郎が、
「泰の字。いるか?」
と、声をかける。障子が開き、泰宗という洋装の侍が現われた。
「半次郎どの。いかがされた?」
「扇をあずかってくれ。見世に居場所がないが、行灯部屋にいさせたんじゃ、この時間は邪魔になるだろう?」
「心得ました。扇どの、こちらへ」
こうして〈鉛〉は泰宗の部屋に置かれた。小さな書卓が書院格子の窓のそばに置かれていて、菜種油のランプ、硯と筆、それに日誌らしい本が開いている。
「ここは用心番の控えの間です」泰宗が説明した。「用心番というのは、まあ、見世に揉め事が起きたときのための用心棒のようなものです。いつお呼びがかかるか分からないので、こうしてここに詰めるのです」
泰宗は半次郎とは正反対の侍だった。半次郎は髪を洋風にして短く切っていたが、泰宗は腰まで届くくらいに髪を伸ばして頭の後ろで結っていた。そのくせ着るものはベストにズボン、シャツ、ネクタイと洋装を貫いている。太刀は今は床の間に立てかけてあるが、普段は〈鉛〉と同様に帯ではなくベルトで吊っているらしい。顔の造作がゴツゴツして喜怒哀楽をはっきり出す半次郎と違い、泰宗の顔つきは繊細な女人のそれできれいに整っているが、いつも優しげな笑みを浮かべていて、半次郎や大夜ほど分かりやすく表情を変えることはない。
〈鉛〉が注目したのは、竹の衣桁にフロックコートや肘丈のケープと一緒に下がっている革の装具だった。〈鉛〉が上半身につけているものと同じで脇の下に武器をぶらさげる形だが、棒手裏剣のあるべき場所に黒光りする銃が差してあった。輪胴に六発の弾が入る回転式拳銃で銃身がやや長めだが、上背のある泰宗ならば、さほどの不自由もなく使えるのだろう。
泰宗は書き物を途中にして筆を置くと、〈鉛〉のほうを向いた。刺客に背を向けることを危険視したのかと思えば、どうも違うようで、たとえ刺客であっても部屋にいるのを無視して背を向けて書き物を続けては礼を失すると思ったらしかった。
わからないやつばかりだ。
〈鉛〉がそう思いつつジッと泰宗を見ると、泰宗を気恥ずかしそうに微笑し、
「あなた、碁は打ちますか?」
「碁?」
そう言われて気がついた。座卓と反対側の壁際に碁盤があり、黒白の碁石が意味ありげに置かれている。座卓の上の本は日記だと思っていたが、実は棋面の記録帳だったらしく、泰宗はその記録帳と同じように碁石を並べ、戦術の研究をしているらしかった。
「もしよろしければ、教えてさしあげたいところなのですが、でも、今のあなたに教えても上達の見込みが薄い。あなたは他人であれ自分であれ、死なせることだけを考えています」
「だったらなんだ?」
「碁は生かすものなのです」
泰宗は白い石を一つ取った。
「この石に命を吹き込み、勝負に生かす。少しでも多くの石を生かし死に石を少なくするべく知恵を絞るわけです。ここまで説明すれば、十分でしょう? 今のあなたでは碁の楽しみが分かりません」
「……くだらない。ただ石を並べるだけだ」
泰宗は、そうかもしれませんね、と微笑み、
「一服つけてもいいですか?」
と、たずねた。
〈鉛〉は何も答えなかった。
そのうち泰宗はかまわずくつろぐことに決めたらしく、座卓の引き出しから黒漆に雲の蒔絵を施した小さく平らな箱を取り出した。なかには舶来物の連続マッチ一つと両切りが十本、きちんとつめて、並べてあった。そのうち一本をくわえると、連続マッチの出っ張りをパチンと弾いて油染みたところのないすらりとした火を作り、煙草に移し、たっぷり味わって呑んだ。
「ああ、そうだ」泰宗は二本目をつける直前に思い出したように声を上げた。「あなたに伝えることがあるんです。楼主が――」
その先は言えなかった。見世では禿と呼ばれている八、九歳くらいの少女の一人が泰宗の間にやってくるなり、オモテの池まで来てくれ、と言い出したからだ。
「また誰かが粗暴を粋と勘違いされたようですな」
「お侍さんが四人です」
「わかりました。扇どの、あなたも来てください」
「どうして、おれが?」
「ひょっとすると、あなたの手も借りることになるかもしれないからです」
禿に従って、カエシからオモテへ。オモテの池は午前に〈鉛〉が亭を掃除したあの中庭の池だった。客や使用人、昼三の花魁までもが、回廊に出て、騒ぎのもとの三階の座敷を見ていた。それも事の推移を心配するというよりは何かの見世物が始まるといった具合だった。
一階の廊下では野次馬に混じって半次郎が長着をたすき掛けにして腕を組み、対面三階の座敷を見上げていた。
「半次郎どの」泰宗が声をかける。「相手は四人、いずれも侍とお聞きしたが」
「もう解決した」半次郎は座敷を見上げながら言った。「花魁と芸者たちは引きあげて、大夜が乗り込んだ」
「はあ。と、いうことは――」
「もうじき、白寿楼名物『鯉の餌づけ』が見られるってことだ」
〈鉛〉は三階を見上げた。洋風の欄干がはまった廊下に唐人と火喰い鳥が描かれた襖があり、バタンバタンと音がするたびに襖が震え、丸く切られた障子窓にぶん殴られてのけぞったらしき男の影が躍る。
間もなく、襖がガラッと開くと、まず小太りの侍が一人、部屋から投げ出され、欄干を越えて、短い手足をバタつかせながら中庭の池に落ちた。派手な水柱が上がると、見物していた客や遊女、使用人たちがヤンヤヤンヤの喝采を送る。
さらに二人の侍が立て続けに放り出され、池に落ちた。
歓声がドッと沸いた。
見ると、三階で大夜が熊ほどの大柄な侍を両手で頭上に持ち上げていて、欄干を足で踏み、池に投げ捨てようとしていた。侍は生きた心地もしないらしく悲鳴のなかに謝罪の言葉らしきものを混ぜていたが、大夜は、
「うるせえ、頭冷やせ、この浅葱裏あ!」
そう切って、侍を放り投げた。
特大の水柱がドボンと上がるのを見下ろしながら、大夜は手の埃を払うようにパンパンと叩いている。侍たちは池から這い上がるとほうほうの態で廊下を水びだしにして逃げていった。
観客の歓声はますます高じていく。
「よっ、大夜の姐御!」
「大夜御前、今宵も鯉を餌づけたり!」
〈的〉が現われたのはそのときだった。
〈鉛〉のいる廊下のちょうど向こう側にいつの間にか姿を現わしていた。四十を超えても若々しい溌剌としたその顔は細面ながら通った鼻筋高く、切れた目など役者のようで、それが黒の赤のバサラ直垂に女物の衣を肩に引っかけた姿で客に無粋無作法のあったことを詫び、頭を下げた。
「当楼の至らぬところをお見せしましたこと、楼主より詫び申上げます。平にご容赦くだされ」
棒手裏剣でやれない距離ではない。毒が塗っていないので難しいが、目に当てて頭蓋の奥まで切っ先をめり込ませれば殺せる。
〈鉛〉は半次郎にも泰宗にも気づかれずに、手首に隠した棒手裏剣を手のうちに滑り込ませた。
「ささやかながら、詫びの品をお座敷、お部屋に取らせました。どうぞご賞味ください」
それなのにやれなかった。
客たちが「いよっ、九十九屋! 太っ腹!」と声をかけている。
半次郎も泰宗もすっかり気を許し、大夜は離れた位置にいる。
それなのにやれなかった。
気がつくと、棒手裏剣を元の手首にこっそり隠しなおしていた。
ここは人目が多すぎる。〈的〉と二人きりになるまで機をうかがうべきだ。
そう考えるが、それが言い訳にきこえる。以前の自分なら仕留めた直後に切り刻まれることも厭わなかった。
それが今、〈的〉を仕留められず、おめおめと元の部屋へ戻ろうとしている。
命が惜しくなったのではない。そんな価値は自分にはない。
だとすると――〈的〉を殺したくないということになる。
〈鉛〉は拳を握り締めた。それだけは絶対にない。
「おれは、道具だ」
泰宗について、カエシの部屋へ戻る途中、〈鉛〉は〈機関〉の養成所のことを急に思い出した。名はなく番号があるだけで、訓練は厳しく、人を騙し陥れ殺す術に長けることだけが唯一の目的だった。何人かの少年や少女は訓練に耐え切れず発狂し、わめいたり、ぐずぐずと泣き続けたりして、それが止まらなくなり、そのうち大人たちに連れ出されて、それっきり姿を見ることはなかった。
〈鉛〉は彼らのその後の運命に思いを寄せることはなかった。その後どうなったかを考えて哀れみを覚えることもないし、彼らを落伍者として見下し優越感を得ることもない。
大人たちの目論みどおり、〈鉛〉は何も思わないよう仕上げられていた。
そうした出来事が今になって急に思い出され、先ほどの歓声が耳のなかでこだまする。〈鉛〉は黙れと叫びたくなる衝動と戦わなければいけなかった。
部屋に戻ると、小さなどんぶりが乗った膳が二つ用意されていた。泰宗は一つを自分に、もう一つを〈鉛〉に押して寄こした。
「なんだ、これは?」
「小田巻蒸しですよ」
そう言って、泰宗は蓋を開けた。どんぶりいっぱいのひよこ色の蒸し玉子に海老とかまぼこ、しいたけと茹で菜が入っている。
「茶碗蒸しにうどんと具を入れたものです。ここではあの手のことがあると、小田巻蒸しを出すことになっているんです。こうすぐに用意されたところを見ると、あの侍たちが登楼したときに蒸籠を用意したのでしょう」
泰宗はそう説明すると、さっそくうどんを手繰り始めた。
「うん。おいしい。白寿楼の小田巻といえば、名品と数えられる逸品ですが、普通は供しません。今日のようなことがあるときだけ、出すので、なかなか食べる機会にあいません――おや、食べないのですか?」
「……おれはいらない」
「じゃあ、あたしがもらう」
気づくと障子が開いていて、大夜が立っていた。立っていたかと思うと、あっという間に〈鉛〉の手からどんぶりを引ったくり、あぐらをかいて、玉子とうどんと海老を掻き込み始めた。
「大夜どの。ご自分の分は?」
「んなもん、とっくに食っちまったよ。ああ、腹減った」
半分ほど食べると、口を休めて大夜がこぼした。
「ったく、武家ってのは、どうしてああも礼儀作法がなってねえのかな? 田舎の木っ端侍ほど図々しいやつはいねえよ。初めての登楼で太夫を出せだの、とっととやらせろだの。あたしが踏み込んだときはもう遊女が裸に剥かれる一歩手前だったんだぜ」
「それで、餌づけですか?」
「中庭の鯉にも栄養をつけさせる機会は与えてやらないとね」
「鯉が人を食べたという話は古今聞いたことがありませんよ」
「そりゃ昨日までの話で、今日の鯉は食うかもしれないじゃん」
〈鉛〉は何も言わずに立ち上がった。
「どこへ?」泰宗がたずねる。
「自分の部屋だ」
大夜が何か言っていたが、聞かずに部屋を出た。
行灯部屋へ帰る道をゆく。ガス灯の黄色い光のなかを中郎や料理屋の若衆が忙しく動き回る。控え目な灯のなかでは輪郭がぼやけてみえた。誰も、〈鉛〉には気づいていない。
まったく理解できない息苦しさを感じる。まるで肺が拳くらいの大きさに縮んだようだ。
大夜と泰宗が笑いながらやり取りをするのを見ているのも辛かった。一体、何が可笑しいのか。
部屋に帰ると、戸と反対側の壁に背をつけて膝を抱えて座り、部屋の古畳に格子で切られた月の光が乗っているのをぼんやりと眺めた。