三十の一
夏の盛りの八月初め。扇は流れが見えなくなった。
以前なら目を覚ましたとき、半分夢から抜け出しかけているうつらうつらしているころには人々の夢から流れる甘美な風や無垢な雲の流れを感じられたが、いまでは心を研ぎ澄ませても、さっぱり流れが分からなくなった。
これでは流術修行に支障が出ると、道場でりんに相談すると「ちょっと珍しいことになってます」と言われた。
「珍しいこと?」
「いま、扇さんの流れが扇さんを中心に強くまわっているんです」
「それは悪いのか?」
「いえ。扇さんのなかで何か、こう、きっかけみたいなものが現れようとしてるんだと思います」
師範代をもっと敬えばなおるかもしれません、とすずがちゃちを入れる。
「でも、姉さん。扇さんに初めて会った日の前の姉さんも同じような流れを持っていましたよ」
「じゃあ、扇さんがわたしにきっかけになったってこと? なんのきっかけだろ?」
「たかる相手を見つけたきっかけだろ」
「たかるとは失礼な。扇さんにたかったこと、一度でもありましたが?」
「あんた、それ、本気で言ってるなら、頭の医者に診てもらったほうがいいぞ」
「失礼ですね。わたしは弟子にたかったりしません。弟子のほうから師範代を慕う気持ちとしてごちそうしてもらってるんです」
「やっぱり頭の医者に診てもらうんだな」
男花魁の春木兄弟と十鬼丸、それに槐と藍がやってきて、一通りの鍛錬をして体を適度にいじめてみたが、流れを見失うほどのきっかけとはなんなのか、扇はそのことに考えを取られて、稽古に身が入らなかった。
きっかけ。きっと火薬中毒者と久助がらみに違いない。やつら、また新しい火薬機関をつくって、おれを実験台にするつもりに違いない。
丸めた稽古着を肩に背負った木刀に吊るし、天原堤をのんびり歩くと、低い空を楔型に陣形を整えた渡り鳥が太陽で温められた体を冷やそうと雲を探していた。この上なく平和を享受しているいまに感謝していると、突然、手桶で冷水をかぶらされたような悪寒を感じ、目を廓の惣門へ向けると、新しい火薬機関を大八車に乗せた久助と火薬中毒者が誰かを探してキョロキョロしていた、というより扇を探してキョロキョロしていた。それはこれまでとは一線を画す発明品であり、人間を火薬の力で宇宙へ飛ばすものだった。これで宇宙にまつわるエーテル論争に蹴りがつけられるし、うまくいけば、月まで飛んでいくかもしれなかった。
「おれは乗らないぞ」
「どうしてですか? 人類初の宇宙旅行は是非とも扇さんにと思ったのに」
「おれは人類初の宇宙旅行なんてしたくないし、人類初の宇宙旅行事故死者にもなりたくない」
「月に行けるんだぜ」
「だから? うさぎと餅でもつくか? どうせ燃料も片道しか積んでないんだろう?」
「そんなことはありませんよ。ぼくの計算では月は火薬でできています。だから、扇さんは帰るとき、月の土を燃料にすれば、こちらに帰れます」
「おれは十七まで無味乾燥な暗殺者として育てられたから世間知らずなのは承知している。だが、そのおれでもはっきり断言できる。月が火薬でできているなんて与太話はここ以外にきいたことがない」
「まあまあ、そんなこと言わずに。ちょっと、ぴゅーっと飛んでいくだけですから」
「やめろ、おれに触るな。触るなったら!」
扇は自分を弾丸にして月へ発射しようとする二人の悪鬼の手を逃れるために夢中で走った。ホテル・コスモポリタンに逃げ込み、地下のハム熟成室に隠れると、久助と火薬中毒者がフロントで時乃に扇を見なかったかとたずねた。時乃はホテルの外に置かれた火薬ロケットをちらりと見てから、知らないと首をふった。いや絶対にここにいるはずだと食い下がると、舞がホウキ片手に現れて、塵と一緒に二人を掃き出した。
「本当にあなたたちって進歩がないわね」
舞の言葉に扇が訂正をした。
「あなたたち、じゃない、あいつらだ。おれは被害者だぞ」
「そろそろなんとかかわせそうになってもいいころだと思うけど」
まだ、このあたりをうろついていそうだったので、扇は撞球室の隅で時間を潰すことにした。
緑のガラス覆いのついた撞球台では二人の紳士が彼らにしか分からないルールで玉を突いていた。白い球を禁忌のごとく避けていたかと思えば、台の外に飛び出るくらい力いっぱい突くこともあった。海外の漢字愛好家のためにつくられた玉には漢数字がふってあった。それが得点になるのだろうと思っていたが、彼らのやり方を見ていると、むしろ得点を稼がないように玉をつついているように見えた。
あるいはルールなどなかったのかもしれない。二人は玉突きをしながら、いろいろなことを熱心に話していた。内容は炭鉱への投資やサツマイモ取引の鞘取りについてで話し方も単調なものだから、扇はうとうとしてきた。
「そういや、ヤマトの政権が革命で倒れたらしい」赤いチョッキの紳士が言った。
「ついに倒れたか。きみ、公債は手放したかね?」
「セッツの六代実篤がヤマト債権の保証をやめてすぐ損切りしたよ」
「一時は三国同盟の雄で、日本でも有数の軍閥国家だったのになあ」
「二年くらい前からケチがつき始めた。二年前というと何があったかな?」
二年前というと、おれがここに落ち着いたころか。二人の話をききながら、扇は自分の人生をめちゃめちゃにしてくれた独裁国家が引導渡す前に潰えたのをききながら、こんなにあっけなくやられるようなやつらに自分はいいように使われていたのだと思い、情けない気持ちでいっぱいになった。いくつもの革命の現場に立ち会った扇の経験から割り出せば、おそらく前の政府の連中は街灯からぶら下がるか、生きたまま焼かれたかしているだろう。
二人の紳士の話題はきんつば工場の海外進出に関する資金繰りへと移り、扇の関心も途絶えた。目をつむり、眠ろうとすると、彼のまぶたの裏に〈養成所〉の光景が現れた。あらゆる種類の刃物の使い方を教える寺のような建物だ。ヤマトが崩れて、自分たちに命令をするものがいなくなって、〈鉛〉たちはどうしているのだろうか? すると今度は黒衣の少年と少女たちが使用目的も分からない機械の塔へ投げ込まれる絵が脳裏に浮かんだ。色はなく白と黒だけの世界で少年少女は淡々と機械に放り込まれ、複雑に噛み合った歯車やピストンに巻き込まれ、ズタズタにちぎれて、黒い血が飛び散っていた。
まぶたを開けると、おぞましい虐殺は七色の玉が緑の羅紗を転がる天然色の世界へと消えていった。
扇は立ち上がると、いそいで白寿楼へと戻った。
自分の部屋に戻ると、シーツ用の綿布を広げて、身につけている刃物を全て白い正四角形の上に置いた。短刀も棒手裏剣も大ぶりの苦無も置くと、無政府主義者か中国人秘密結社の隠れ家を急襲した警察が押収した武器を自慢しているようにも見えた。白いワイシャツに着替えて、ズボンを吊り、山岳歩兵用の丈夫な靴に脚絆を巻き、是永一振りだけを持って出かけた。時千穂道場に着くと、りんがちょうど井戸から水を汲んでいるところだった。桶から反射する水の影でりんの体が不思議な光で縁取られていた。
「あ、扇さん」
「師匠。ちょっと頼みがある」
「なんですか?」
扇は自然と握りしめていた力をかなり意識して緩め、瑞典是永をりんに手渡した。
「これを預かってほしい。ちょっと出かけないといけないんだ」
「かまいませんけど……」
りんが扇の表情に何か読み取りかけていた。扇は自分がいまどんな顔をしているのか分からなかった。せめての平常を装えていればいいのだが。
「……扇さん、帰ってくるんですよね?」
どうもまずい顔をしているようだ。
「もちろんだ。ただ、これから行くところには武器の類いを持ち込みたくなくて。それで師匠に預かってもらおうと思ったんだ」
「そう、ですか」
そのまま原っぱを通って、屋台堤の先の飛行船発着場につくと、今度は虎兵衛とばったり出くわした。薄紫の素襖をバタバタと風になぶらせ、あたふたしていたが、扇を見つけると、
「出かけるのか?」
「ああ」
虎兵衛もまたじっと扇の顔を見つめた。扇は数秒が数時間にも感じられるほど深い眼で見つめられた。そして、突然、虎兵衛はにかっと笑って、風に負けない声でこう叫んだ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」扇は釣り込まれて少し笑った。
虎兵衛は屋台堤を廓のあるほうへと帰っていく。
扇は虎兵衛に背を向けて、ヤマト行きの飛行船に乗った。




