二十九の二十八
木々が迫る隘路には負傷したわけでもないのに長船兵がたまっていた。どの兵士もここから先は地獄だぜともっともらしいことを言うのだが、扇たちがやってきた方角を指して、こっから先は地獄だぜという兵士もいたが、よく見ればそれは兵士ではなく、十歳の鼻持ちならない戦争投機家だった。彼は戦争に投資していたので、戦争のない後方は彼にとって破産であり、地獄なのだ。
「このクソガキ、斬っちまおう」
「そんな時間はない。先を急ぐぞ」
「でも、扇。どこもかしこもここから先は地獄らしいけど」
「どんな地獄かまでは言っていない。戦車地獄か一個旅団地獄か全軍突撃地獄か。おれたちの任務は斥候だぞ。それを確かめないとここまで来た意味がない」
雨粒が殴りかかる夜の光忠坂改め挽肉坂では火砲の発射でピカッと光ったなかに兵士たちが一瞬だけ見えた。燃える村の上では雨雲が蒸発して、どす黒い油まじりの煙が逆さに流れ込み、月を汚していた。途中で戦場から今更ながら非難する一団と出くわした。そのなかの老人が言うには、このまま小さな谷を前進すれば、二の坂のだいぶ上のほうを東側から突ける間道があるということで扇たちはその道を探した。大砲の弾が燃えながらはるか頭上を飛び交い、爆発で押しのけられた空気が焦げ臭い雨風となって樹々を薙ぎ倒すなか、熊笹が生えた斜面にはうまいこと敵の大将を一発で仕留められないかと狙っている鉄砲達者たちがいて、はやく朝が来ないかと気をもんでいた。間道が見つかる様子はなく、敵の斥候隊が谷の向こうをデタラメに進んでいるのが見えることがあったが、どうやら相手も敵の側面をつける夢のような秘密の道の存在を信じて、その捜索にあたっているらしい。
「おーい、おさふねー」雨は相変わらず降っているのに敵の斥候の声が谷をまたいできこえてきた。「なんで逃げねえんだ? 明日になったら、皆殺しだぞ」
「もう一度戦って勝つ時間はある」扇が叫び返した。
「おもしれえ。勝って見せろよ」
「こっちには餅がある」寿が叫んだ。「つきたての熱々の餅が食べきれないほど。それに焼き魚。たっぷり塩をふった岩魚。お酒もたくさん。そっちには何がある?」
斥候隊は何も言い返さずに自軍の陣地へ引き返していった。
「まあ、口喧嘩なら任せてよ」
「ありもしない餅の自慢ほど自分たちをみじめにするものはないな」扇はこの一日、水っぽい握り飯を二つ食べただけだった。
「道も見つからねえし」
「神さまは何かしてくれないのか?」
「してくれるわけないよ。ケチだからね。流術は?」
「そこいらじゅう雨だらけだぞ。流れだらけだ。これじゃ分からない――おい、待て。あれを見ろ」
松脂をたっぷり塗りつけたたいまつが一の坂から谷をはさんだ斜面に次々と灯り、連隊旗を先頭に政府軍の正規兵が続々と現れた。彼らはありもしない餅を強奪せんと歩兵二個連隊を投入し、間道を使った奇襲はあきらめ、谷を無理やり横断しようと山道を下りた。俵でつくった長船軍の砲台から砲弾が発射されると衝撃で水たまりが飛び跳ねたが、真っ赤に燃えた榴弾は着弾後、一度弾んでトウモロコシ畑に飛び込み、トウモロコシと人間を等しくバラバラに刻んで、地面に醜い大穴を開けた。さらに三門の砲が火を吹き、谷間を駆ける政府軍の隊列をズタズタに切り裂いた。餅と酒の話を斥候からきいた兵士たちは前へ前へと進み続けた。長船軍の守備隊長は敵が主攻撃地点を変えた、政府軍は二の坂と三の坂のあいだから迂回して、本陣を狙っていると伝令を送った。
四門の大砲は敵軍の先頭の隊列を削り続け、守備隊長はそのあいだに、そこいらじゅうに散らばっていた各隊の兵士のうち銃を持っているものを片っ端から塹壕に入れ、持っていないものは斬り込み隊の予備として守備隊長の手元に置かれた。扇は寿と原田茂と別れて、浅く掘られた塹壕へと詰め込まれた。膝まで水がたまった塹壕にはコンブラン銃から国友鉄砲まで様々な銃を持った長船兵がいて、その服装も小具足もいれば洋装のフロックコートもいて、てんでバラバラだった。使う弾丸が違うのは補給は期待できず、事実彼らは銃弾がなくなったら、敵の死体から銃を奪ってそれを使えとすら言われた。敵はなかなか手ごわそうだった。谷を降り、渡り、また上ろうとするまでのあいだ、砲弾を食らい続けて、火薬の焼けカスに黒く縁どられた目は血走り、軍服は泥にまみれて、回転ノコギリ銃剣も機関騎兵銃もすでに作動不良を起こしていたのだが、打ちのめされれば打ちのめされるほど殺意をたぎらせ、これまでのお返しをしてやろうと歯が割れるほどくいしばっていた。グワッと轟音がきこえ黒い砲煙が雨で形をいびつに変えながら流れ出していた。谷をはさんだ三の坂の頂上から砲火が上がり、こちらの大砲と弾のやり取りをしていた。砲弾はたまに塹壕に落ちて、数人の侍がバラバラに吹き飛んだ。敵の先頭、軍旗をかかげて走ってくる一隊が見えた瞬間、誰かが撃て撃てと声を裏返してわめき、一斉射撃が襲いかかった。耳を聾する銃声と白煙。軍旗をふりかざしていた士官の動きがピタリと止まり、そのまま後ろにひっくり返った。連射銃を持っているものは次の弾をくれてやっていたが、そうでないものは弾薬の紙筒を食い破り、銃口に雨粒を入れないように注意しながら、火薬を流し込まなければいけなかった。次の弾を装填すると、人でできた垣根へろくに狙わずに発射した。ミニエ式の弾丸は谷の入り口に固まっていた三人の兵士の胴をぶちぬいて、地蔵のすぐそばの立木にめり込んだ。三発目を押し込んでいるあいだに、隣に立っていたレミントン銃の男が言った。
「塹壕に誰か入ってきてる」
「なぜ分かる?」
「さあな」
「様子を見に行かないのか?」
「気になるならお前が行けばいい。おれは別にどっちでもいい」
まったく。扇は槊杖を戻すと、剣付きのミニエ銃を手に取って銃眼を離れた。最初の角を曲がったとき、あのグワッという轟音がして、扇は危うく泥水におぼれかけた。何とか立ち上がったとき、塹壕は二つにちぎれ、そのあいだにはバラバラになり焼け焦げた死体が散らばっていた。破壊された塹壕を通り抜け、目に銃弾を受けて天文銭大の穴を開けて倒れる兵士や両手で耳を押さえて頭を低くし唸っている兵士のそばを通り抜けた。角を曲がれば曲がるだけ、危険は増えたが、扇の走る速度も増していった。七度目の角を曲がったとき、扇は塹壕に侵入した三人の敵兵を見つけた。自分と歳の変わらない若い兵士で野戦用の電信線の変圧箱を塹壕の壁に固定しようとしていた。扇が撃った。弾は背中を向けていた兵士の肩の骨を砕き、跳ね返った弾が変電箱に当たって派手に火花を散らした。扇は既に銃剣を高く引きつけて地面に串刺しにするように突きかかった。泥水が跳ね散り、咄嗟に放たれた二発の弾は見当はずれの方向に飛んでいく。長船銃剣は横に寝て、肋骨のあいだへ入った。痙攣する筋肉がまとわりつくまえに刃を抜き、後ろへ跳んでから首を一突きにすると、二人目の兵士は血を真上に噴き上げて背中から泥水のなかへ倒れた。三人目は銃を捨てて、塹壕の壁を上って逃げ、両軍の銃火が入り乱れる夜のなかへと走っていった。そこにバサっと肉と骨を切り断つ音が鳴る。
「斬り姫か?」扇がたずねる。「ここで何してる?」
「キャハハ。知ーらない」斬り姫は扇の足元に横たわる兵士を見て、「そいつ、斬らないの?」
「もう死んでる」
「斬ってもいい?」
「生きてる敵を斬ってくれ。ところで本隊はどうした――クソッ、伏せろ!」
斬り姫の手首をつかんで塹壕に引きずり込むと、その直後弾丸が土壁の縁を削った。斬り姫は泥水のなかに尻もちをついたが、すぐ起き上がって、敵を斬りに行こうと胸壁に手をかけた。扇は、伏せていろ! と大声で叫んで、斬り姫を塹壕に隠すと、革製の銃嚢からネイヴィ・コルトを抜いて、弾の飛んできたほうへめくら撃ちに四発撃ち込んだ。悲鳴。銃火。楡の樹の枝から狙撃兵が落ちてきた。扇は残り二発を四つん這いになって立ち上がろうとする狙撃兵の顔に撃ち込んだ。
雨のなか、ラッパの音がきこえた。夜が明けて、鉛色の空の下、敵の連隊が死傷者を残して、谷の向こうへと撤退している様子を見るまで、それが退却ラッパの音だと分からなかった。




