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廓雲と扇の剣士  作者: 実茂 譲
第二十九話 是永の扇と刀狩りの国
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二十九の二十

 黒鋼の笄を渡すと、斬り姫は嘘のように大人しくなった。

 これだから侍の患者は嫌いだ、すぐ無茶をしてまた医者の世話になるのだから、とクチバシ先生が扇の背中の傷を縫いなおしているあいだ、斬り姫は畳の上でじっと座っている。

 そこは神戸湊から北に八里の小さな農村の百姓家だった。独裁者の民兵隊が気まぐれに焼き払った家のなかで唯一被害を免れた家だった。村人たちは殺されるか逃げるかして村は無人だった。

「長船千軒の刀鍛冶たちはわたしの病院を立て直してくれるかな?」

「さあな」

「他人事みたいだけど、半分、いやそれ以上はあんたたちのせいなんだからね」

「すまないと思っている。おれに金子があればいいが――痛っ!」

「ないんじゃしょうがない。とにかくもう神戸湊にはいられないし――それにしても、そっちのお姫さまはずいぶん大人しくなったわね」

「実の兄が生死不明なんだ。しょうがない」

 傷が縫い合わされ、包帯をきつめに巻いてもらうと、扇は農家の土間に立ち、大ぶりの苦無を取り出して逆手持ちにし、斬撃、手首返しからの顔を狙った突き、まわし蹴りと斬撃の混成攻撃をためしに放ってみた。

「ちょっと! また傷が開いたらどうするのよ!」

「戦ってる最中に開くよりは今、試すほうがいい。少しズキズキするが、しっかり体は保持できる。改めて礼を言う」

「もうっ。今度、傷が開いても縫ってやらないからね」

 外に出る。灰色の夜明けだ。雲の隙間で星が流れる。村は小さな谷の入り口にあり南北に伸びていた。荒れ放題の畑が山裾まで続いていて、野生のシカが入り込んでいる。村で唯一の脱穀用蒸気機関が黒焦げになって倒れているあたりで街道をそれて、山道へと向かった。斬り姫は大人しく、扇が破れ傘で包むために刀を取り上げたときも抵抗しなかった。刀を返しながら、この斬り姫もこうしてみると、そう厄介なやつではないのかもしれないと思い始める。少なくとも火薬中毒者に比べれば、まったく正常の見本と言っていい。

 ガスマスクなしで過ごせる田舎道をゆるゆると歩くと、自分が最低の独裁国家にいることも忘れてしまいそうだった。長船千軒の具体的な道順を知らず、とりあえず北へ向かっているが、追手は現れないし、密偵もいない。殺人狂少女は大人しいし、クチバシ先生は扇が会ったなかでも最高の常識人だ。傷の手当てもなんだかんだしてくれる。彼女の病院復興のためにできることがないことが悔やまれるくらいだ。

 問題は山積している。寿や泰宗がどこにいるか分からず、七代目藤原是永の生死も不明、瑞典是永や千鶴の短刀もどこにあるのか分からない。ただ、長船千軒へと行くだけだが、そこに行けば全ての問題が次々と解決すると思うほど扇はおめでたくないつもりだ。

 太陽が空に昇って、暑くなってきた。ひどく空腹だった。ギリシラズを独裁者の巨大な似顔絵で停車させる少し前に小さな饅頭を一つ食べたきりなのだ。煤がかかっていて、あんこのかわりに粗糖が入っていて、どろどろしていたが、それが最後の食事なのだ。そういえば、天原にキリシタンの御大尽がやってきて、花魁たちに話しているのをきいたところではキリシタンの世界では最後に食べたものというのが非常に重要らしい。これはキリシタンたちが崇めるイエスという男が、父が天地あまつちしろしめた神であるのにそのコネも利かず、磔にされることになった前夜、油そばを食べながら(本当にそう言ったのだ)、何か話したそうだ。その内容は忘れたが、とにかく最後の食事は重要なのだということだけは頭に残った。

 と、すれば、もし、扇が武運つたなくここで死ねば、最後の食事はあの出来損ないの饅頭一つということになる。それは嫌だな。しかも、なんだか油そばが食べたくなってきた。〈鉛〉をやめてから空腹を我慢することが難しくなった。あのころは食事なんて体を動かすために食べていたにすぎないが、今では扇もなかなかの食通である。すずや大夜を馬鹿にすることはできない。盛実の天ぷらうどんを食べに行き、店主から今日はいいエビが河岸になかったので店を休む、といわれれば、扇はうなずき、引き下がるくらいなのだ。むしろ、こうでなければ、本当にうまい天ぷらは食べられない。自分で納得のいかないタネを仕入れて揚げられてもちっともうまくない。

 山腹で四辻に行き当たった。東の道は斜面をジグザグに下がっていて、鉄道の走る谷は薫り高い花をつける樹木であふれていた。辻のあたりに飯屋が一軒、それに茅葺きの民家が五軒集まっていて、どこかの村はずれか、文久時代の宿場の名残といった様子だった。民家の前庭に用途不明の蒸気機関がすっかり錆びて放置されていて、目つきの悪い男が機械を触っていたが、修理しようとしているのか、金になりそうな部品を取り外そうとしているのか判断しづらい。

 その男の後ろに山高帽をかぶった官吏風の男がいて、フロックコートの上を斜めにわたした革の装具に大きな回転式拳銃を入れていた。袖には〈忠誠〉の文字を白抜きした緑の腕章がピンで留めてあったが、これはこのあたりを荒らしまわる民兵隊がつける合い札代わりだった。

 危険だったが、まわり道をするには遅すぎた。おそらくこの男は扇たちが坂を上ってくるのを見ていたはずだ。ここで避ければ、追ってくるだろう。

 扇は多少の危険を承知で飯屋に入ることにした。空腹なのはクチバシ先生も斬り姫も同じだった。暖簾をくぐるとき、機械をいじる目つきの悪い男と山高帽の民兵がこちらをちらりと見た。薄暗い店内には米の増産を訴える趣味の悪い絵柄の貼り紙があり、老人たちが雑穀粥と芋汁をすすっていた。油そばも天ぷらうどんもなく、米すらろくになく、一杯天保銭一枚とやけに値の張る芋汁をすすり、生姜をすりおろした雑穀粥をかきこんだ。長船千軒にうまい天ぷらを揚げるやつはいるだろうかと考えながら、外に出ると、飯屋の前庭に山高帽の男と機械をいじっていた目つきの悪い男、それにさっきまで姿の見えなかった若い男が古いゲベール銃を手に扇たちをじろじろ見ていた。全員が民兵隊の腕章をつけている。

「何か用か?」

 山高帽の男が言った。「通行税を払いな」

「いくらだ?」

「てめえの命で払いやがれ」

 ゲベール銃の若い男がそうわめいたが、ひょろ長い銃を持ちあげるより先に斬り姫が破れ傘で擬装した刀を抜き、左足を軸にくるっと回転して勢いをつけた車打ちでゲベール銃の男の胴を深々と薙いだ。切っ先は背骨を断ち切るほどのものだったので、男はまるで折りたたまれたみたいに縮こまって倒れた。その刀を上下に返して切り上げると、目つきの悪い男の胸と顎が断ち切られ、よろめく。

「キャハハハハ!」

 返り血を浴びながら高笑いする斬り姫。山高帽の男が銃を抜いたが、激しい切り返しの連続で手、肘、肩、鼻の順番に斬り飛ばされ、最後は山高帽ごと頭を両断された。それでもまだ足りないらしく、地に斃れた骸に何太刀も見舞って膾にしている。

 経験から言わせてもらえば、止めに入れば、勢い余ってこちらも斬られる。だから、気のすむまで斬らせるしかない。

 笄の魔力も斬り姫の本性まで大人しくしたわけではないらしい。これはひょっとすると、火薬中毒者よりもまずいやつ――いや、火薬中毒者のほうがやはり群を抜いて危ない。

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