二十九の十六
浮世絵や錦絵といったものほど自分と関係ないものはない。
以前から扇はそう思っている。廓において、浮世絵の題材になるのは言うまでもなく花魁だ。その点、朱菊太夫の浮世絵や肉筆画は数知れない。物好きな版元が虎兵衛の絵を刷ったことがあったが、まあ、虎兵衛は文字通り絵になる男なわけだった。
「でも、ここに描いてあるのはお前だろ?」
傳次郎は一枚の錦絵を見せた。いわゆる戦記物だ。題名は『玖馬義勇奇兵隊大いに奮闘の図』。真ん中に高杉晋作が実際よりも大柄に描かれていて、そのそばに無口な老将軍、そして、彼らの左右に扇と寿の姿があった。黒装束で寿は落ち着いて座っているが、扇のほうは片膝をつき、おそらく抜刀するのだろう、柄をしっかり握っている。そこは密林のなかでかすかに見える低地の町が炎に包まれている。洋画の影響は浮世絵にも及んでいて、写楽の時代の顔かたちではない。似ているのかどうかは微妙な気がした。
「これを見て、思い出したが、この国には高杉晋作が来てないな」
「よその革命で忙しいんだろ。高杉晋作は本物の男だろうが、どっこいここにはおれたちカブト団がいる。よそ者の手助けは必要ねえのさ。身内の恥は身内で雪ぐ。我らが終身頭領をぶった切るのは備前の業物で十分なのさ」
「おれもよそ者だ」
「それとこれとは話が違うのさ」
「どう違うんだ?」
「これまでも義勇兵とか革命家とか、そんなやつらがやってきたが、みんなふてくされて帰っちまう。なんでか分かるか? おれがやつらに名刀をくれてやらないからだそうだ。よそ者はみんな長光の大業物がニンジンみたいにそこらへんから生えてるとでも思ってやがるんだよ。むかつく話だがな」
「おれが欲しいのは是永だ」
傳次郎は肩をすくめた。
「終身頭領が食っちまってない限りは無事だろうな。だが、難しい。やっこさん、この備前を丸ごと食っちまって骨までしゃぶってやがるからな」
「そうか」
「ちぇっ、シャレが通じねえなあ。それより、差し料はそんなんでいいのか?」
「ああ」
扇は軽騎兵から奪い取ったサーベルをまだ腰に下げていた。
「さっきよそ者うんぬんっつったけど、当代盛光の業物なら都合はつく」
「瑞典是永を取り返すまで、あまり名刀を使いたくない」
「なんでだ?」
「瑞典がやきもちを焼く」
傅次郎は兜のなかで大笑いした。こもった呼吸音は謎めいた洞窟から吹いてくる風のようで、涙が出たのかバケツ兜の目のあたりを指でぬぐおうとしていた。
「真面目な顔でふざけたことが言えるんだな、お前」
「おれは真面目に話してる」
「退散しよう。これ以上、ここにいるとギリシラズが来る前に笑い死にしちまう」
傅次郎はよその連中を見てくると言って、扇たちが使っている待ち伏せ場所から立ち去った。そこはあちこち張り紙だらけのがらんとした廃屋だった。もとは商家だったらしく、棚もあるし、帳場台の跡もある。古い浮世絵もあれば、異国商館の派手な引き札もある。そうした絵が糊でこねられたみたいになって一つに混ざってしまいそうになっていた。廃屋から道を一本隔てたところにはつい半刻前に大急ぎでつくった竹製の階段がある。いくつも踊り場があり、楽に高架線へ上れる。問題はギリシラズを停車させる方法だが、それについてはカブト団員が四人、大きな垂れ幕のようなものを丸めた状態で抱え持ち、ギリシラズが来るのを今か今かと待っている。傅次郎曰く、確実にギリシラズを止めることができる秘密兵器なのだそうな。ギリシラズの先頭には鉄板だってぶち抜くことのできる衝角があったはずだが、あんな布きれでどうやって装甲列車の突進を止めるつもりなのだろう? カブト団員は命を惜しむものはいないらしいが、それでも犬死はごめんなはずである。
しかし、と扇はあきれる。ここビゼンの独裁はヤマトの独裁とはちょっと異なるらしい。ヤマトは完全に国内の統制がとれていて、あちこち密偵だらけ、家族相手にこぼした独裁政府への愚痴ですら知られてしまい強制収容所に送られた。もちろん、その愚痴の程度によっては〈鉛〉が使わされる。
ビゼンも独裁国家だが、〈谷〉という巨大な縄張りを制御できないでいた。そのためにギリシラズがあるのだろうが、〈谷〉はそれに怯えるどころか、こうやって乗っ取りを画策する。
イナバとキューバで高杉晋作の革命に付き合わされたし、自身、元々はヤマトの〈鉛〉だった。だから、独裁については一家言あるつもりでいる。その扇に言わせれば、独裁制度というのは、恐ろしいくらい簡単に人が人を殺す。独裁側にしろ革命軍にしろ。
扇と四人のカブト団員は合図を待っていた。廃屋には古い電信線が残っていて、そこにつないだ火花式通信機がバチバチ火花を飛ばしたら、垂れ幕を持った四人が駆けだして高架線へと上る。扇はその援護である。
「ちょっと話したいことがあるんだけど」
と、クチバシ先生がやってきた。何としても医院復興の補償を得るという決意も固く、どうやら襲撃についてくるつもりらしいが、失うものは何もない女医の気迫も侮りがたい。
「ただ、あんたに伝えたいことがあってね。あんたの刀、あれを持っていったのは宇喜多なんだ」
「それはあの大佐の宇喜多か?」
クチバシ先生はうなずいた。
「あんたたちが意識を失ってるあいだ、実はあいつが来たんだよ。たぶん、何かの薬をやっていたんだろうね。腕が切断された直後にしてはぴんぴんしてた。それでも顔色は悪かったけど。あいつが壁に立てかけてあったあんたの刀を見たんで、あたしもこりゃ万事休すだと思ったんだけど、あいつはそれを鞘から出して、うなずいた後、刀だけ持って手下の兵隊どもと一緒に引っ込んでった」
「妙だな。ドア一つ隔てたところにはおれと斬り姫が意識不明の状態で横になっていたのに」
「そんなことはどうでもいいんだ。とにかく、今夜の襲撃で死ぬようなことがあったら、わたしじゃなくて、宇喜多のほうに化けて出て。それが言いたかっただけ」
本当にそれが言いたかっただけらしく、クチバシ先生はさっさと戻っていった。
四人の団員が花札で地べたを叩く音がきこえ始めた。扇はネイヴィ・コルトを取り出した。上等な機械油の好ましい匂いが上がる。その銃は砲弾上衣の上から肩から胸に渡した革ベルトで脇の下に吊り下がるようになっていた。カブト団は飛び道具の類を持っていないらしく、この待ち伏せ場所ではこの銃が唯一の火力だった。この斬り込み屋たちを死地へと動かしているのは使い古された武士道とは別のもの――おそらく、梁山泊的な侠客根性だった。生きることよりも良い死に場所に巡り合いたがる不器用な手合いだが、扇だって、ほんの二、三年前はその手の不器用な手合いだったのだ。
止めはしないが、巻き込まれるのはごめんだな。
そんなふうに考えながら、銃を納めた後のこと。
火花式通信機がバチバチと燃え始めた。
「来るぞ!」と団員の誰かが言った。花札を放り出した四人は例の秘密兵器と呼ばれる垂れ幕を抱えて、廃屋の外に転がるようにして走り出た。扇がすぐ援護できる位置につき、右手にサーベル、左手に六連発銃を手に目を配ったが、こちらの作戦を邪魔しようとするものはおらず、四人の団員はすでに竹の階段を上り始めていた。
ギリシラズの排煙がただでさえ煤けた〈谷〉の空気を汚しながら走ってくる。扇の驚いたことにギリシラズとの距離は半里と離れていない。カブト団の考えでは相手もまさか二日連続で襲われるとは思うまいというかなり軽率な思い込みに戦略を根差していたが、当のギリシラズは先頭の衝角をより鋭く頑丈なものに変えた上に鉄条網まで絡ませている。
「本当にあれを止められるのか?」
「楽勝だぜ」
ギリシラズが近づいてくる。一〇〇間……九〇間……八〇間……七〇間……。
「今だ、広げろ!」
四人の団員は線路を横切るようにして垂れ幕を広げた。
そこには墨で描かれた禿げ頭の老人――破れば例外なく銃殺刑と憲法で定められたビゼン国終身統領の顔があった。




