二十九の十五
「わたしの店から出てっておくれよ! そんな危なっかしいこと、関わりたくないね!」
寿は肩をすくめた。これで十五件目だ。目の前の老婆は破裂しそうなくらい怒っている。その後ろの壁にかかる掛け軸のなかでは邪鬼を踏みつけた増長天像が目を吊り上げているが、その顔はまさに老婆の顔を映しとったようで、そのことを指摘したかった。
だが、寿は我慢した。そうすれば、面白いくらい老婆が怒るのが目に見えていたし、実際目にしてこのごちゃごちゃした街をさらにごちゃごちゃにしてみたかった。が、老婆が怒りで吹き飛んで、その破片を全身に浴びるのは面白くなかろう。そんなわけで我慢した。
「ちょっと短刀のこときいただけなのになあ」
〈谷〉は独裁者の目が届き切れないとは言うが、それでも住民は日本刀のこととなると神経過敏になった。おまけに軍が兵士を送り込んできている。あの装甲列車を襲撃した連中がいるらしい。
「物好きなやつもいるもんだ。おれなら、あんな鉄くずと関わり合うなんて、ゴメンだけどなあ。……まさか、扇、キミじゃないよね?」
と、きいても、扇はいない。あの竹蒸気で死の坂下りをやって気がついたら〈谷〉の裏路地に倒れていた。おまけに気絶しているあいだに持ち物を全部盗まれた。金なら別に構わないが、短刀だけは許さなかった。
(あれは千鶴ちゃんがおれにつくってくれたもんだもんね)
取り返したいが、乱暴に掃き寄せられたような街のいったいどこに行ったのか、見当もつかなかった。薬種商の老母の店の外では人がごった返し、銘々の小銭稼ぎと排煙に起因する体調不良に夢中になっていた。このあたりは二度、ギリシラズからの砲撃を受けたことがあり、店の表が吹き飛んだままにされているのもあれば、割れた屋根瓦が山と積み上がっているところもある。最悪なのは砲弾の穴に雨水が貯まったもので飲料などもっての他、住人が厠のかわりに使うので、悪臭と疫病の温床になりつつある。
入り口に線香が灯された路地をつなぐようにして広場を抜けると、洞窟みたいな入り口を開けた店が続いた。菩薩のお札に数字を書いて値札がわりに使う古道具屋があり、その狭い間口を塞ぐように太った女が大きな古米の握り飯をがっつきながら店番をしている。入り口の幅と女の幅を考えると、女がなかに入るのは不可能だった。裏口があるのか、それとも女は昔は雛菊のように痩せていたが、ここでガツガツ食っているうちに抜け出せなくなったのか。まさかあの短刀、この人の胃袋に入ってるなんてないよね? 意地の悪い想像が一抹の不安へと変化していくなか、寿は街を奥へ奥へと進んでいた。
行き止まりに〈どりんく〉と染め抜かれた旗を立てた小さな店が戸を開けていた。
「へえ。てっきりマムシを詰めた酒壜が並んでると思ったけど、なかはさっぱりしてるねえ」
間口は狭いが奥行きはある店。箱や壜が並んだ棚は小ぎれいとは言えないが、整頓の努力が垣間見えた。店の奥の畳の小アガリには帳面台があり、眼鏡をした学のありそうな若い男が正座して、寿をじっと見ていた。
「ひどくお疲れのようですね?」
「わかる? いろいろあってさ」
「それなら〈どりんく〉をお飲みになることです。疲労なんてすぐに吹き飛びますよ」
「でも、おれ、今、お金持ってないんだよね」
男は目尻がぴくっと動いた。
「お客さんが来店者一万人目だから、それを記念してタダでいいですよ」
「本当はいくらするの、この〈どりんく〉」
「一本二十銭です」
「お高いんですね」
「でも、これ一本でどんな悩みも解決です」
「そんなに高い飲み物をタダでもらうのは気が引けるんで帰りますね」
「いやいや、遠慮は無用ですよ」
「どうしようかなー」
「ぜひ飲んでいってください」
線香のあるところから二人の密偵が尾行しているのに寿は気づいていた。尾行どころではない。他にも密偵がいて、荷馬車の荷を崩したりして、さりげなく、寿をこの店へと誘導していた。
〈どりんく〉を飲ませることが彼らの目的らしい。
それを知っていて、寿は罠にかかるか否かのところでわざとふらつき、政府のイヌたちがどぎまぎするのを見て楽しんだ。
そろそろいいか。寿は〈どりんく〉を飲むことにした。どうせ死なない体だ。せいぜい悪くて気絶するくらいだろう。
寿は男の手から〈どりんく〉の入ったラムネ壜をひったくり、一息に飲み干した。
案の定だったが、目が覚めたときには牢屋にいた。といっても、そう居心地の悪いものではなく、さっぱりとした洋室風だ。簡単なベッドがあり、窓はないが、鳩が青空を飛んでいる絵がかけてある。驚いたことに西洋風の白い洗面台には真鍮の蛇口がついていて、軽くひねっただけで暴徒も粉砕できるくらいの水圧で水が流れ出した。ただ、ドアには鉄格子がはめられている。おそらく壁のなかも鉄格子が埋め込まれているのだろう。
独裁国家の牢屋といえば収容可能人数を越えた収容で地獄絵図だが、自分が放り込まれた牢屋はなかなかよろしい。つまり、ケチな密告だので用があるわけではないのだ。
突然、寿は目を閉じた。
「……」
声がきこえた。洗面台からだ。
真鍮で縁どられた排水溝からかすかだが声がした。それも聞き覚えのある声だ。
おーい。
「はーい」
やっぱり隣に誰か来たんだな。やつらは知らないが、水道管がつながっているらしくてね。こうやって洗面台に向かって大声出せば、隣にきこえるんだ。まあ、はた目から見たら、頭がおかしくなったと思われるだろうけど。
「お久しぶりですね。是永さん」
わたしを知っているのかね?
「天原白神神社の寿です。その節はお世話になりました」
ああ。あのときの。これはでも、すごい偶然だね。わたしがここに閉じ込められ、きみも閉じ込められる。隣の牢屋に偶然知り合いが放り込まれる確率はどのくらいかな。手元に計算機関があればいいんだが。
「偶然じゃないんですよ。是永さん」
じゃあ、何をしに?
「あなたを助けに来たんですよ」
わたしを? 助けに?
「そうです。千鶴ちゃんとのことではお世話になったし」
……。
「あの、是永さん?」
もし、わたしを助けに来てくれたのなら、一つ頼みごとをしたいんだが、いいかな?
「お願いにもよりますけど、ききましょう」
やつらを止めて欲しい。やつらは刀、西洋剣に次ぐ第三の刀剣を生み出そうとしている。それが何を意味しているのか、やつらは分かってないのだ。




